住吉大社と徳川家康について、引き続き勝手な想像話をしようと思いますウインク


前回は堺漁師さんのお話をしました。


今回は商人のお話をします。

下に書いた人の中の人が三河まで船で送ったと思ってます。


徳川家康を調べていくと、必ず商人たちの名前が出て来ます。出て来た名前を順不同で書くと

・今井宗薫

・津田宗及

・角屋七郎二郎

・茶屋四郎三郎

・末吉孫左衛門
・角倉了以
・後藤庄三郎
調べてみると、それぞれ役割があったようですね。
それぞれに武器調達、兵糧調達、地方の大名たちへの情報共有、お金管理など得意なところを行い、家康を支えていたようです。

茶屋四郎三郎
伊賀越えの際に家康を守ったと云われておりドラマでも出てくる有名人ですね。自身も同行して伊賀越えをしたと云われてます。

AI生成で画像作ってもらいました。どんな顔か見たかったからですが、似てるのか不明…滝汗


津田宗及

本能寺の変の際に堺を観光案内をしていた人物で、堺の豪商でもあり、天下三宗匠の茶人でもありました。信長をもてなした記録もあるとか。そして、明智光秀の親友でもあった。


角屋七郎二郎

家康一行を伊勢から三河まで送った人。

後に家康から朱印を与えられている。


今井宗薫
信長時代から父の今井宗久が活躍してた実力派商人の長男で、いち早く家康に接近した人物ですね。肖像画は残ってないようです。

末吉孫左衛門
関ヶ原から家康に接近して、大坂冬の陣で信用を勝ち得て、朱印船で富を得た人物ですね。大坂冬の陣の際は、周りは豊臣政権を応援している中、米調達や工事、物流面を支えたそうです。


角倉了以
川を使って戦場に米や武器を運ぶ物流面で支えたそうです。末吉と同じく朱印の権利獲得してます。

後藤庄三郎
家康の金庫番でお金の管理をしていた人物で、金貨製造を任された人です。

末代にまで恩義に報いる家康だから、特権をもらった人の中に、徳川家康を三河まで船で送った人がいると思います。
そして、条件としては住吉大社と関係が深い人。
住吉大社が絡んでないと、佃村も絡んでこないとおもってます。

さて、誰が船を手配したのか推理していきます。
まず、2人消します。
・角倉了以
・後藤庄三郎
京都の豪商なので、お金持ちですが、堺で船の段取りは難しいでしょう。佃村の漁師さんとのつながりも見えないですしね。住吉大社とのつながりも出てこない。

私の本命 末吉孫左衛門ですが、調べてみると1番つながってましたびっくり

1️⃣住吉大社と同じ『摂津国』の豪商だった。
2️⃣大坂冬の陣の際、家康本陣を建設した。
3️⃣一族で住吉大社信仰しており、毎年大行列で参拝していた。

では、佃村の漁師との繋がりは?
表立っては繋がりがなかったようですが、共に大阪で数少ない徳川派閥だったようです。
平野環濠の末吉孫左衛門と、徳川派閥の佃村の森孫右衛門が共に手を組んだと考えてもおかしくないかな?と考えました。

それを取り仕切ったのが、住吉大社では?もしくは、繋げたか⁉︎驚き

この考え方により、徳川家康、住吉大社、末吉孫左衛門、森孫右衛門は結ばれていたんだろうと推測しました。

  …が、


何と年表が合わない滝汗
本能寺の変の時の話で、大坂冬の陣の時の話ではないんですよね。

末吉孫左衛門は、本能寺の変の時はまだ12歳位で、父親はその時は秀吉についていたので、消しになります。残念チーン

今井宗薫も今井宗久も表立って住吉大社とは繋がりがありませんでした。

やっぱり、名前が出てる3人が絡んでいたという事ですね。
茶屋四郎三郎
津田宗及
角屋七郎二郎

この中で、住吉大社とつながりが深かったのは、
津田宗及です。天下三宗匠の茶人でもあるので
交流があったそうです。

茶屋四郎三郎の先祖は三河武士なので、家康に尽くしていた。自身も半分は武士の風であり、一説には忍びとの噂もあったとか。

津田宗及のお茶会で、明智光秀が詠んだ詩

「ときは今 あめが下なる 五月かな」

これがやはりきっかけとなり、津田宗及から茶屋四郎三郎に話が伝わり、動きがあれば知らせるように言っていたのかも知れないですね。


そして、自身の所有する船を使ったか、佃村の漁師の船もしくは、漁師を使い家康を乗せて三河を目指す段取りをしていたか、家康にゴリ押しされた爆笑


伊賀越えの話もいろいろなルートが云われてます。

私は伊賀越えは、船で逃げた事が分からないようにするための擬装作戦だと思ってます。

なぜなら家康は『臆病』で『石橋を叩きまくってから渡る』くらい慎重派だからと思ってるからです。


だから、影武者を立てて実際に伊賀越えもさせて、敵の目を惹きつけた。そして、その影武者は、服部半蔵だと思ってます。


そして、追っ手の気配があったので、伊賀越え部隊も人数を分けて、追っ手の撹乱作戦を行った。

もしかすると、今でて来てるルートは、部隊が分かれて歩いて行った道で全部本当かもしれませんね。


戦いながら噂を流す事で敵はそっちに集中していくので、穴山梅雪が惹きつけ過ぎて、追っ手が増え過ぎて亡くなったのかもしれません。その誘導がうまかったおかげで、陽動部隊の本隊は守られたのかも驚き


本隊の船の移動も問題が出たか、元々乗り継ぎ予定だったのかどっちでしょう?

問題で想像出来るのは天気。海が荒れて来たから。本能寺の変の時は梅雨時なので、海が荒れ出したので、上陸せざるおえなかった。もう一つは、六角水軍の追撃が出始めて、船を乗り換える必要があった。そのため、船も乗り換えて撹乱に使った。


私はなんとなく、乗り換えは予定通りだった気がしてます。堺の船が岡崎に入ったという事実を津田宗及は作りたくなかったから。

津田宗及は、秀吉や織田軍、明智軍をどうころんでも『関係ない』と言いくるめる必要があったから、家が滅ぶか大きくなるかの賭けなんで、そう言う事実は作らないようにした。


そして、最後に角屋七郎二郎の船に乗り換えて岡崎に帰った。想像ですが、角屋七郎二郎の船は三河に船を出していたんじゃないですかね?

船が入っても噂にならない、日常通りの話だから。


もし、角屋七郎二郎が断ったとして、酒井忠次が説得したと言う話がありますが、普通に考えたら茶屋四郎三郎が、この後の商売の話を聞かせて承諾させたという方が正しい気がします。


また、長々と書きましたが、私の想像では、

津田宗及が、茶屋四郎三郎、角屋七郎二郎と組んでもしくは、2人を利用して徳川家康を海から逃したという想像をしてます。


ここまでなら、歴史話でよくある話だと思います。


私はまだもう一つ深く想像してます。

これがもし、明智光秀の策だとしたら❓

津田宗及と仕組んだ策だったら❓


また、この事についてもいつか書きますねウインク

只の想像話ですけどね。