住吉大社と徳川家康について、引き続き勝手な想像話をしようと思います![]()
前回は堺漁師さんのお話をしました。
今回は商人のお話をします。
下に書いた人の中の人が三河まで船で送ったと思ってます。
徳川家康を調べていくと、必ず商人たちの名前が出て来ます。出て来た名前を順不同で書くと
・今井宗薫
・津田宗及
・角屋七郎二郎
・茶屋四郎三郎
AI生成で画像作ってもらいました。どんな顔か見たかったからですが、似てるのか不明…![]()
津田宗及
本能寺の変の際に堺を観光案内をしていた人物で、堺の豪商でもあり、天下三宗匠の茶人でもありました。信長をもてなした記録もあるとか。そして、明智光秀の親友でもあった。
角屋七郎二郎
家康一行を伊勢から三河まで送った人。
後に家康から朱印を与えられている。
…が、
「ときは今 あめが下なる 五月かな」
これがやはりきっかけとなり、津田宗及から茶屋四郎三郎に話が伝わり、動きがあれば知らせるように言っていたのかも知れないですね。
そして、自身の所有する船を使ったか、佃村の漁師の船もしくは、漁師を使い家康を乗せて三河を目指す段取りをしていたか、家康にゴリ押しされた![]()
伊賀越えの話もいろいろなルートが云われてます。
私は伊賀越えは、船で逃げた事が分からないようにするための擬装作戦だと思ってます。
なぜなら家康は『臆病』で『石橋を叩きまくってから渡る』くらい慎重派だからと思ってるからです。
だから、影武者を立てて実際に伊賀越えもさせて、敵の目を惹きつけた。そして、その影武者は、服部半蔵だと思ってます。
そして、追っ手の気配があったので、伊賀越え部隊も人数を分けて、追っ手の撹乱作戦を行った。
もしかすると、今でて来てるルートは、部隊が分かれて歩いて行った道で全部本当かもしれませんね。
戦いながら噂を流す事で敵はそっちに集中していくので、穴山梅雪が惹きつけ過ぎて、追っ手が増え過ぎて亡くなったのかもしれません。その誘導がうまかったおかげで、陽動部隊の本隊は守られたのかも![]()
本隊の船の移動も問題が出たか、元々乗り継ぎ予定だったのかどっちでしょう?
問題で想像出来るのは天気。海が荒れて来たから。本能寺の変の時は梅雨時なので、海が荒れ出したので、上陸せざるおえなかった。もう一つは、六角水軍の追撃が出始めて、船を乗り換える必要があった。そのため、船も乗り換えて撹乱に使った。
私はなんとなく、乗り換えは予定通りだった気がしてます。堺の船が岡崎に入ったという事実を津田宗及は作りたくなかったから。
津田宗及は、秀吉や織田軍、明智軍をどうころんでも『関係ない』と言いくるめる必要があったから、家が滅ぶか大きくなるかの賭けなんで、そう言う事実は作らないようにした。
そして、最後に角屋七郎二郎の船に乗り換えて岡崎に帰った。想像ですが、角屋七郎二郎の船は三河に船を出していたんじゃないですかね?
船が入っても噂にならない、日常通りの話だから。
もし、角屋七郎二郎が断ったとして、酒井忠次が説得したと言う話がありますが、普通に考えたら茶屋四郎三郎が、この後の商売の話を聞かせて承諾させたという方が正しい気がします。
また、長々と書きましたが、私の想像では、
津田宗及が、茶屋四郎三郎、角屋七郎二郎と組んでもしくは、2人を利用して徳川家康を海から逃したという想像をしてます。
ここまでなら、歴史話でよくある話だと思います。
私はまだもう一つ深く想像してます。
これがもし、明智光秀の策だとしたら❓
津田宗及と仕組んだ策だったら❓
また、この事についてもいつか書きますね![]()
只の想像話ですけどね。





