そして、空白の18年間に接したもう1人の人物が

真田昌幸でした。


この18年の間、天海は比叡山にずっと引きこもっていたわけではなく、各地の寺社を巡って修行や情報収集をしていました。その中には、真田家の本拠地に近い武田信玄の旧領(甲斐・信濃)も含まれています。


天海(光秀)はかつて武田家と外交ルート(室町幕府を介した連絡)を持っていたため、武田の遺臣たちと裏で繋がっていました。真田昌幸とは、武田信玄上洛前に交流がありました。


天海が甲信地方の寺社(武田ゆかりの寺など)を訪れた際、真田昌幸の放った優秀な忍びが天海の存在を昌幸に報告。そして、昌幸自身が偽名の僧侶となった天海と密会し、徳川や豊臣を出し抜くための天下の情勢を情報交換していました。


そして、昌幸も天海から徳川家に入り込む話を聞きました。天海は、徳川家に入り込み豊臣家に喧嘩を売るらしい。実に面白い話だ。


昌幸は天海に話しをした。

昔、信長の家臣にいた明智光秀との話を。

京都に行った際に知り合い、鉄砲を使った戦略について話をしていた事、火薬の原料となる硝石を回してもらって世話になった話、戦略や他の大名事情などいろんな話をその当時にしたと懐かしく話しました。


天海は真田昌幸と話する時は、光秀に戻っていました。そして、近江商人を真田に紹介しました。

徳川、豊臣にバレないよう上杉家ルートなどを通過しながら硝石をまわすルートを教えてくれました。徳川からルートを遮断される事はこれでなくなりました。


天海が信州信濃に行く際は、2人は密会を行って行きました。そして、島津家、真田家も交流はないもののお互い同じ志を持つものとして、両家とも尊重しあいました。


そして、いよいよ天海が徳川家康陣営に入り込みました。ここから運命が大きく動き出します。


天海が話していた通り、徳川家に入り込みできたのか1600年に関ヶ原の合戦が起こります。

18年間の計画がいよいよ始まります。


真田家が徳川軍の足止めを行い戦場を混乱させる。混乱に紛れて島津軍が戦場で徳川家康の首を狙う計画。すでに秀吉はいないが、寧々様も絡んでおり、秀吉の子と言われている面々も数名動いている。


それぞれの役目をそれぞれやり切る。

そうすれば時代は変わるはず。


しかし…。

結果的に計画は失敗に終わった。

徳川家康は打たれた。

だが負けた。

影武者の存在によって。



つづく