吉見神社の境内を見ておりまして、また境内社がありました。(多いな…)

本殿に向かって左手

左から順に

B-1)三嶋神:大山祇、事代主、静岡県三嶋大社

B-2)興玉神

B-3)水分(みくまり)神:

B-4)荒祭神

B-5)玉造神:技能神、八尺の勾玉、玉祖(たまのおや)命

B-6)斎神

B-7)浅間神:木花之佐久夜比売命、またの名を神阿多都比売、静岡県富士山本宮浅間大社

B-8)日枝神:東本宮・大山クイ、西本宮・オオナムチ、滋賀県日枝大社

B-9)雨降神

B-10)加々美神

B-11)二荒(ふたら)神:オオナムチ、多紀理姫、迦毛大御神、栃木県日光二荒山神社

B-12)秩父神:北極星妙見様、天御中主、八意思金、秩父彦、埼玉県秩父神社

B-13)養蠶(ようさん)神:蚕の神、京都府木嶋坐天照御魂神社

 

B-1)三嶋は表示の通り三嶋大社由来でいいと思います。三島神社は静岡を本拠に武蔵野台地へ進出したと思われるものに東京都東村山市で出会ったことがあります。

 

B-2)興玉は三重県の二見興玉神社※1でしょうか。かつて昭和の昔、修学旅行や観光で有名だった夫婦(めおと)岩が傍にあります。

祭神はもともと猿田彦だったようです。

百島神社考古学のみならず九州王朝論においては一般的に、三重の夫婦岩は福岡・糸島の夫婦岩が地名移転したものと考えられています。

 

B-3)水分神については久留米地名研究会・古川清久氏の詳細なレポートがあります。

結論だけ申しますと、水分=菊理姫(=天御中主)とされています。

「みくまり」を「水配り」と受け取るならば、水田への配水の権限を握った者の象徴とも考えられます。この地域は荒川低湿地帯で稲作が中心の地域でした。

 

B-4)荒祭神とは荒神のことなのかな?? だとすれば金山彦です。

 

B-5)玉造神、拝殿前に玉作村と刻んだものがありましたね。

玉祖(たまのおや)命について古川氏のブログに優れた考察レポートがあります。要約しますと…以下青字

地名の残留から、古代の豊の国は関門海峡を挟んで東西に広がっていたと考えられる。

本州側の豊の国にあったと思われる玉祖神社(山口県防府市大崎1690)の祭神に関しては「玉祖命外一座不詳」(山口県神社誌)とされています。神社の由緒書によれば五伴緒神とされ、古事記では五伴緒神とは瓊瓊杵尊の降臨に従った五神で、天児屋命、太玉命、天鈿女命、石凝姥(イシコリトメ)命、玉祖命(タマノオヤノミコト)とされる。百島神社考古学では以下の通りとなります。

天児屋命=草部吉見=ヒコヤイミミ=春日大神=武甕槌=海幸彦

太玉命=豊玉彦=ヤタガラス

天鈿女命=伊勢下宮様

石凝姥命=天鈿女命

玉祖命=大幡主(豊玉彦の父)

 

「玉祖命外一座不詳」と書かれている「外一座」とはイザナミのことだと思われる。

玉祖命とは豊の国の支配者でもあったヤタガラス(=豊彦)の父神であることからの祖と呼ばれているのです。従って、残る一神とは金山彦の妹神で、伊邪那岐(イザナギ)命と別れた後ですので、大幡主の妃神としての伊弉冉命(イザナミ)=熊野牟須美(クマノフスミ)命となるのです。

 

明快な論旨だと思います。

ということで玉祖命=大幡主と熊野牟須美(つまりは熊野神社)を信奉していた人々がここ吉見神社の周辺に入植し、拝殿前に刻んであった通り玉作村を建設していたということだと想像しました。

 

B-6)斎神 これはなんとも分かりづらいです。

斎宮というと、天照を祀る場所を探して倭姫がさまよったという倭姫命世紀の記述があり、最終的に天照を斎宮に祀ったというストーリーになっています。これについても古川氏の記事が興味深いです。

ただ、その斎宮と、ここの斎神が同じなのかどうか定かでないですねぇ。

 

B-7)浅間神:木花之佐久夜比売命=神阿多都比売で、静岡県富士山本宮浅間大社はそのまんまです。

 

B-8)日枝神:東本宮・大山クイ、西本宮・オオナムチ、滋賀県日枝大社

まぁ、これもよいでしょう。

大山クイは藤原のアイコンで近畿藤原政権の象徴です。

 

B-9)雨降神

これは雨乞いの神様としか思いつかないですねぇ(違うかもしれませんが…)

もし雨乞いの信仰だとすると、ここ吉見神社は大河・荒川のすぐそばにあるのになんで雨乞いが必要なのかな??とも思うのですが水利というものはそこまで単純なものではありません。

大きい河川ほど水利には利用できないものなのです。それをやるには大規模(江戸期以降のような)な灌漑工事が必要で、古代においては大きい河川は氾濫するだけで水利には利用しづらいものだったと思います。

ですのでここ吉見神社に雨乞いの神様が祀られていても不思議はない、と想像しました。

 

B-10)加々美神

これも…(笑

さて、つながりあるかは分かりませんがやはり古川氏の鏡山に関する記事を参照します。簡単に紹介しますと…青字

「かがみ」は「かが」=蛇、「み」=接尾語と分解できる。

蛇は稲作によって得られたコメを食い荒らすネズミを退治することから、稲作社会において蛇が信仰されるようになったと考えられる。

九州各地にある鏡山(お椀を伏せたような形の山)・鏡山地名は蛇がとぐろを巻いている形状と似ていて、そういった命名も稲作社会成立に由来すると考えられる。

ではここ吉見神社から鏡山と呼べるような丸い山が見えるか、というとざっと調べた中ではそうでもないようです。

ですのでこの加々美神はどこかからここへ持ち込まれたもの、なのかもしれません。

 

B-11)二荒(ふたら)神:オオナムチ、多紀理姫、迦毛大御神、栃木県日光二荒山神社

日光二荒山神社(栃木県日光市山内2307)の祭神は大己貴命(父)、田心姫命(母)、味耜高彦根命(子)とされていますが、祭神を見比べますとオオナムチ、多紀理姫までは共通していますが、迦毛(かも)大御神と味耜高彦根は別人物です。

(百嶋神社考古学では迦毛大御神=豊玉彦(賀茂建角身)、味耜高彦根=ウガヤフキアエズです)

Wikipediaによれば日光二荒山神社の祭神、大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命は12世紀頃に入った祭神だと書かれていて、それ以前の祭神は不明です。しかもこの祭神セットは古事記の記述と合わせてありますので、古来の伝承ではなく後世に入れられたものである可能性を感じます。現地で古宮などを調べられればもっと分かるかもしれませんが…

いずれにしてもここ吉見神社における二荒神は12世紀以降の日光二荒山神社から引っ張ってきたもののように感じられます。

 

B-12)秩父神:北極星妙見様、天御中主、八意思金、秩父彦、埼玉県秩父神社

Wikipediaによれば埼玉県秩父神社は八意思金命の十世孫の知知夫彦命が崇神天皇の代に初代知々夫国造に任命され、八意思金命を祀ったのが始まりとされている。

北極星妙見様、天御中主は後の時代に合わせ祀られた祭神ということだそうです。

 

B-13)養蠶(ようさん)神:蚕の神、京都府木嶋坐天照御魂神社

武蔵野台地でもそうだったのですが、水田が展開できない台地上では養蚕が有力な産業となります。ここ吉見神社周辺で養蚕業が盛んだったということで、京都の泰氏本拠地の木嶋坐天照御霊神社を関連付けているのだと想像しました。

 

 

さらに境内を見ますと

石の祠が集められています。

 

石の祠だから石の宮なのか、それともトルコ系匈奴の「石」なのか…

頭犬宮というのが初見で不明です。

 

また境内の一角には


小さい石の祠には豊岩間戸、櫛岩間戸と刻んでありました。

これには以前にも出会ったことがありまして、いまだによく分かりません。

 

 

では猫の足あとサイトで詳細を見ていきます…赤字

祭神は天照大神

境内社は天神・東宮・稲荷など36社

 

当社は風土記稿に神明社と載り古へは上吉見領の総鎮守なりし。
上吉見領とは風土記稿に見える領名で、村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八ツ林・箕輪・甲山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曾根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・平塚新田の二三か村である。
この二三か村は、現在の大里村を中心に熊谷市と江南村の一部に当たり、当社はこのほぼ中央に位置する相上にある。
上・中・下の恩田は、鎌倉円覚寺正統院文書貞和五年(1349)のものに「武州恩田御厨」とあり伊勢神宮の神領であったことが知られる。

御厨は、平安時代に荘園が全国的に広がり、公的な神宮の財源であった神郡・神戸・神田の実が失われ、神宮の私経済的な一種の荘園として発達したもの。この御厨で伊勢神宮の分祀を祀ることは広く行われている。当社もこの例の一つとして天照大神を祀ったと考えられる。
当社には、創建を物語る文書が何点か伝えられている。

和銅六年(713)の伝として、景行天皇五十六年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、倭国・山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里郡(大里郡)を置き、後に豊かな地となった奉賽として太古に武夷鳥命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀り、以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している、とある、現宮司須長二男家はこの末である。
大里郡神社誌は大里村玉作の須藤開邦家文書として『当社は上吉見領の総鎮守であったが、応永(1394~1428)の戦乱により神領を失い、天正のころ(1573~1592)には旧五か村と呼ぶ相上・玉作・箕輪・甲山・小八ツ林の鎮守となった』と載せている。ちなみに、旧神領は七五〇貫の地であったという。

 

上吉見領という名称がいつからあったのかは不明ですが、江戸期初期の新編武蔵風土記稿に記載されていたので江戸期以前からあったのは確実です。

それが弥生期、古墳期、奈良期からあったと仮定すると、やはり古宮の祭神に草部吉見が3つも含まれていたので阿蘇氏がこの地に入植し草部吉見信仰を持ち込んだんじゃないのかな? と想像しました。

ただし、草部吉見は主祭神から降ろされ古宮へ入れられた、と想像しました。だので草部吉見神社、阿蘇神社のような独特の祭神配置がないのですね。

 

武夷鳥命由来の天照大神を祀り、御諸別王が開拓した、と。

武夷鳥命、天照大神、御諸別王は全く時代が違います。

Wikipediaによれば御諸別王は古墳時代の皇族、豊城入彦命の三世孫で(群馬の)毛野氏の祖とのことで、中央から関東管理のために派遣された植民地管理官でしょう。

武夷鳥は御諸別よりもずっと早い時代に関東に入っていて、おそらくこの地に入植した際には氷川・鷲宮として入ったのでしょう。

その後、近畿奈良政権が荒川流域に進出できた際にこの地を掠め取り、御諸別が天照大神を祀ったということでしょう。

ですので、「武夷鳥命が天照大神を祀った」というくだりは(武夷鳥と天照は関係がないので)、原初の武夷鳥命を祀った人々が後から入ってきた天照大神を受け入れたということの痕跡かもしれません。

 

長い分析になりましたのでまとめます。

ここ吉見神社の地は古荒川湾の南北水上交通の要衝であり、同時に古荒川湾西岸へ入り込む上陸地点でもありました。

最初に入植したのは武夷鳥(氷川、鷲宮)、次に入ったのは阿蘇氏・草部吉見。このとき地名が吉見と定着したのでしょう。

その次に近畿奈良政権の手先・御諸別が入り込んで支配し、祭神を天照と定め、権威付けのために全国の有力祭神をズラズラ~ッと陳列したのがここの境内社だった、というストーリーじゃないのかな?(境内社の祭神があまりに多すぎでとてもこれらすべてをちゃんと奉斎していたとは思えないのです)

逆に言えば、ここ吉見神社は全国規模の祭神を収集した総社といえるので、吉見神社がいかに近畿奈良政権にとって重要な植民地だったのかを表現していると感じました。

近畿奈良政権が関東の中心・荒川のど真ん中を完全に支配したという、一種の象徴としてこの吉見神社が存在していたのだと想像します。

 

さて、草部吉見は土地名と境内社祭神として残っています。では武夷鳥はもう消されてしまったのか?

武夷鳥、鷲宮の名前こそ残ってはいませんが、東宮に祭神として残されていた屋船豊宇気姫命(伊勢外宮様)、手置帆負命(スサノオ)、彦狭知命(山幸彦)を思い出してください。

武夷鳥はスサノオ、クシナダヒメ、豊玉彦の力を借りて関東開発をやったと想像しています。この3名はもともと系統の異なる人物で、その配下の集団も独自に関東に広まったと想像できます。

そのうちのスサノオに連なる人々が東宮の祭神を祀っていたのではないでしょうか。東宮というのも、ここ吉見神社の東方に位置する大宮氷川神社鷲宮神社のことを指しているのかもしれません。

スサノオのことを手置帆負命などと持って回って誰だか分からないような表現にしてしまったのも、御諸別に睨まれないよう信仰を残す方便だったかもしれませんねぇ。

 

 

※1この三重県の夫婦岩の元祖は、福岡県桜井にある夫婦岩だと聞きました。

以前九州を車中泊旅した際に立ち寄った記事がありますので、よろしければご一読ください。