柳瀬川を遡るシリーズですが、柳瀬川支流の内最大の空堀川へ進んでいきたいと思います。
柳瀬川と空堀川の分岐点は、柳瀬川の中流で安松神社のちょい下流です。
その空堀川を遡上しますとしばらくの間神社のないエリアが広がっていてその果てにここ東村山八坂神社があります。
■東村山八坂神社・・・東京都東村山市栄町3丁目35−1
柳瀬川最大の支流・空堀川のすぐそばにあります。
空堀川は川幅が広くて、水量が多ければ大型の船でもすれ違うことが出来そうです。
東村山八坂神社は空堀川のすぐ南側にあります。
鳥居は空堀川ではなく東を向いていますので、ここを開発し八坂神社をトーテムとする集団は東からやってきた(柳瀬川~空堀川を遡上してきた)ことを示しています。
祭神はスサノオ、と。
鳥居をくぐると
拝殿。いかにも氷川系です。
神紋は細い三つ巴=豊玉彦です。
拝殿正面。額には牛頭天王(スサノオ)と。
拝殿の向こうに本殿を望みます。
本殿の千木は外削(男神)、鰹木は5本(男神)
この感じがいかにも氷川神社、出雲神社です。
拝殿手すりに
門光(もんこう)紋、これは開化天皇=高良玉垂の本当の神紋です。しかも真新しく、なぜここに高良玉垂の神紋があるのか理解不能です。
門光は後に若宮(応神)が「これは俺様の神紋だ!」と使うことにしたということですので、応神が祀られているのかな?とそういうわけでもなく、なんとも…
境内には
祇園社、スサノオですね。
掲示板のとおり、本殿にもスサノオが祀られているとするとダブりになりますので、本殿に祀られているのは別の男神なのかな?
こちらは古宮でしょうか。
手前から
三島神社、大山祇と事代主。
久留米地名研究会の古川清久氏によれば、三島神社とは静岡県三島市大宮町2丁目1−5の三島大社で祭神は大山祇と事代主ですので、この祭神と一致しています。つまり、静岡の三島大社の勢力がここに入り込んでいたということを表していると思います。
三島神社の分布を見ると本山のある伊豆半島から東へ広がり、神奈川県相模川上流、東京都心部に僅か、と分布しています。じわじわと関東に進入し都心部にとどまった、ということでしょうか。
三島大社は伊豆半島の根元にあり、完全に奈良政権サイドの勢力と考えられます。そんな三島神社勢力が荒川近傍ではなく、荒川から随分遡ったここまで侵入していたのですね。
これは、多摩川沿いの武蔵大国魂神社からまっすぐ北へ延びていた官道を利用しここ東村山八坂神社へと到達した三島神社勢力なのでは、と想像しました。
古川氏からは「国譲り神話で事代主はタケミナカタと違い戦わずしてアッサリ引き下がります。これは事代主(別名、恵比寿は商売の神様)の商売人としての気質を表すもので、土地を守ろうという意思がなくビジネス中心の人物だった」とお聞きしました。
(今でいうグローバリストですな)
大山祇は大国主の実父で、狭山丘陵北側でも若干みられます。大国主は(百嶋神社考古学では)武蔵大國魂神社の主祭神ですので奈良政権サイドで、その父親ですから奈良政権側なのはもちろんでしょうね。
事代主は上でも書いた通りビジネスマンです。
鹿島大神(=草部吉見)とイチキシマ姫の間に生まれた大山クイ、その大山クイと鴨玉依姫(豊玉彦とクシナダ姫との娘)の間に生まれた活玉依姫、この活玉依姫に入り婿したのが事代主です。
この入り婿は大成功したようで、鴨玉依姫と事代主の間に生まれた五十鈴姫は、後の藤原のアイコン・崇神(=中筒男)と婚姻しています。
つまり事代主は赤の他人でありながら、藤原直系の外戚となったわけです。こいつはすごいゼ! さすがビジネスマン!
次は三峰神社、イザナギとイザナミ。
三峰神社は都内にも多く分布していますが、有名なのは奥秩父の三峰神社です。ヤマトタケルが東国侵略の際にイザナギ、イザナミを祀った神社です。
この三峰神社が有名なのは三つ鳥居で、これは殷式鳥居です。
伊邪那美の兄・金山彦は殷氏直系ですのでその表現となっていると思います。
奥秩父の三峰神社は秩父の結構山奥にありますので一種のランドマークとして建てられたと思います。当然その勢力基盤は秩父にあると想像しました。
秩父勢力は古墳時代に荒川を下り埼玉古墳群の位置へたどり着いたことを埼玉県立歴史と民俗の博物館で示しました。
三峰神社の分布を見ると荒川が秩父盆地から平野へ出たあたりに分布し、川越周辺にまで南下しています。川越で南下を押しとどめられたのですね。
ですので荒川平野へ広がった秩父勢力(埼玉古墳群)と三峰神社は深いかかわりがあると思います。
三峰神社がここ東村山八坂神社の中にも小さく祀られているということは、狭山丘陵の南側にまで小さく影響を及ぼしていた、と分かります。
御嶽神社、祭神は櫛麻智。櫛麻智は詳細が不明です。
武蔵野でも御嶽神社はよくありますが、祭神は大己貴命、国常立尊、少彦名命となっていることが多いです。
武蔵野の北西のどんづまり・青梅の山中の多摩川上流にある青梅御嶽神社が櫛麻智を祀っているようです。
(祭神が異なるのがちょっと引っかかりますが…)
東村山八坂神社のそばを流れる空堀川は、2万年前に地殻変動により南へシフトした古多摩川の残され川です。なので今も残る青梅からの残され川を下って、青梅御嶽神社からここへたどり着くことは可能だったと思います。
青梅御嶽神社はかなりの山中にあるのでこれもある種のランドマークだと思います。その勢力の本拠地と考えられるのは、多摩川が山中から流れ出る扇状地・青梅なんだろうなと推測します。
では関東平野の御嶽神社の分布を見てみましょう。
御嶽神社の分布ははっきりしていまして青梅から東へ、まるで古多摩川流域を覆うように分布しています。
多摩川はかつて青梅から真東へ流れる格好になっていましたが、2万年前の地殻変動により流路を次第に南へとシフトさせ現在の位置に落ち着いています。半透明青のラインがシフト途中の古多摩川の流路です。
(古い時代から新しい時代へと、古多摩川は流路を北から南へとシフトさせています)
御嶽神社は現在の柳瀬川・黒目川といった古多摩川のシフトした後の残され川に沿って分布しています。
ということは御嶽神社群は古荒川湾から武蔵野台地へ遡上し青梅にたどり着いたコロニー群なのではないか、と推論できます。
蚕影神社、和久産巣日(わくむすび)。
蚕影神社は武蔵野台地ではよくある神社で、養蚕の盛んだった影響だと思います。
古宮に三島、三峯、御嶽とあり、これらはある時代に確実にここ東村山に影響力を持っていた勢力であることは確かです。
それが古宮に落とされ、本殿の表看板がスサノオとなっているのは中世になってからの武家支配によるもののように感じます。
ヤマタノオロチ退治で有名なスサノオにしておいたらとりあえず誰からも文句が出にくい、といった感じです。(だからクシナダ姫がいない、のかな)
本殿の神紋が豊玉彦であったのは、ここを開発した後ろ盾が豊玉彦だったという事実を暗示していると思います。
古代において開発の主体(主祭神)は氷川(スサノオ、クシナダ姫)だったと思います。それは古代でも初期(武蔵野台地へ柳瀬川を遡上し開発していった頃)でしかないのでしょう。
氷川の開発した河川ルートを使ってここまで入り込んで開発を行ったのが古宮の神々だと思います。※1
そしてその後武家勢力台頭によりスサノオ信仰が中心になった、というstoryだと想像しました。
古川氏の話によると、
1)東「村」山の「ムラ」「ムレ」「ムロ」といった言葉からトルコ系匈奴が入っていたことは間違いない。
2)三峯神社に注目し祭神のイザナミ、イザナギは、イザナミの兄・金山彦を暗示している、と考える。金山彦は殷氏なのでイスラエル系。
3)トルコ系匈奴とイスラエル系が共闘・対立しつつ開発したのが、ここ東村山だったんじゃないか。。
4)それを表に出せなくて、当たり障りないスサノオを主祭神としたのかもしれない。
という推理でした。
深すぎる…
※1氷川が河川ルートを開発し、後から別の神々がそのルートを利用し河川流域を開発する、というのは昭和の西武と似てて面白いです。
西武池袋線・西武新宿線が武蔵野台地を西へ延びていって、その沿線に不動産開発が進んでいったというプロセスと同じようなものなんじゃない?