大袈裟なタイトルにしていますが今後荒川を中心軸とした調査を進めるにあたって重要な作業です。

 

まずは復習から。

埼玉県立歴史と民俗の博物館の遺跡分布資料で得られた大きな結論を簡単に申しますと

1)関東の中心は縄文時代から荒川(古荒川湾)沿岸だった。

 

そして荒川支流・柳瀬川~狭山丘陵西端までの実地調査で得られた結論も簡単に申しますと

2)荒川沿岸はもとより支流・柳瀬川においても氷川が舟運を支配していたと思われる。

3)その氷川神社の関東における創設者は兄多毛比(えたけひ=武夷鳥)であった。※1

4)ところが柳瀬川を遡上し狭山丘陵に達したエリアでは氷川は姿を消し、武蔵大國魂神社(奈良政権)勢力と思われる神社群が占めている。

5)武蔵大國魂神社から残堀川経由で狭山丘陵西端・狭山神社へ達した地名形跡(「さ」地名)がある。

6)さらに狭山神社から北東へ流れ下る砂川、不老川を経由し新河岸川(古荒川湾の西岸)へ達した地名形跡(「さ」地名)がある。

 

では埼玉県立歴史と民俗の博物館の遺跡分布資料をGoogleMapに展開して振り返ってみたいと思います。

 

まず、黄色●は方形周溝墓の分布です。

方形周溝墓は大陸から朝鮮半島経由で九州へ上陸、弥生時代中・後期(紀元1~2世紀?)に関東にまで伝わった「大陸人の墓のスタイル」です。墓制は民族ルーツと密接に結びついていますので、新しい墓制=別の民族(中国人)の流入を表しています。

上記分布は縄文海進があったころの古荒川湾沿岸に分布しています。これは方形周溝墓が侵入する以前からの貝塚分布と重なります。

つまり、広大なフロンティアである関東平野であっても入植できる場所は水辺だけと、完全に限定されていたことが分かります。

当然衝突があったものと想像されますし、大陸人であれば「異民族は大量虐殺!」がデフォルトですのでそれなりのことはあったと想像します。が、その痕跡は現代には残されていません。

 

次に、弥生時代とくれば弥生式土器ですが下図をご覧ください。

弥生式土器の3種の分布を示しています。

弥生町式土器は赤■

吉ヶ谷式土器は青■

樽式土器は緑■

これも見事に古荒川湾岸に分布しています。

上記三種の内、樽式土器だけが群馬方面から南下してきたことが分かっています。残り2つは東京湾から上陸したようです。つまり関東へ入るルートが違い、当然それを持ってきた両者は異民族だろうと想像します。

 

赤■の弥生町式土器の分布は大宮台地~東京湾岸武蔵野台地端に集中し、武蔵野台地内陸部・古荒川湾岸の柳瀬川~入間川にはほとんど分布していません。

柳瀬川~入間川の領域には不思議なほど土器が分布していないので、弥生時代の産業(稲作)として使いづらい土地だったのかな、と想像します。※2

逆に入間川~荒川のエリアは対照的に方形周溝墓も土器も密度が高くなってます。稲作に向いていた土地だったのかな。

では、そのエリア(入間川~荒川のエリア)を拡大表示します。

黄色●が方形周溝墓、赤■が弥生町式土器、青■が吉ヶ谷式土器です。

上図の「新河岸川」の「新」の辺りが柳瀬川河口です。そこから下流には弥生町式土器が密度高く分布しています。

ですがその柳瀬川河口~入間川河口には分布があきらかに希薄です。

入間川河口を越えて北側には方形周溝墓、吉ヶ谷式土器の分布密度が高いです。

今後はこのエリアを北上しつつ調査するべきだと考えました。

 

南から順に

1、入間川と高麗川に挟まれた台地の縁

2、越辺川と都畿川に挟まれた台地の縁

3、都畿川と市野川に挟まれた台地の縁

4、市野川と荒川に挟まれた台地の縁

となります。

 

では上記の地図に古墳時代初期の古墳を追加プロットしてみましょう。

白△が古墳時代初期の古墳です。

市野川~越辺川の勢力が強いようです。

この地域は古荒川湾が西へ抉れているような場所で、比較的水害から免れていたのではないでしょうか。

 

時代が下って、上図は6、7世紀の古墳を黒△で表示しました。

荒川~入間川のエリアが栄えているのが分かります。荒川流域の中心と言ってもいいでしょう。

徐々に古荒川湾が干上がって耕作地が増えたのでしょう。荒川の上流側がよく栄えているようです。

 

私のブログ記事を読んでくださっている方々にはもうお分かりでしょうが、私が基準としている百嶋神社考古学においては2~3世紀に生まれた神々が多いです。弥生期の終わり~古墳期の初めといった時期です。

ということは、上図の白△が時代的には合致しそうです。

 

古代と言っても時代のフェーズが積み重なっているので一概には言えなくて、これまでブログでやってきたように神社の祭神を明らかにし(地政学上の)地勢を見ていくということを自然とやってきましたが、方法についてはそんなに間違ってもいなかったと感じています。

 

さて不老川をさかのぼって巡った神社は川下から順に以下の通りです。「さ」地名も記しておきます。

#197砂氷川神社 

#198堀兼神社

#199野々宮神社 入

#200入間野神社 入

#201上藤沢神明神社

#202元狭山神社 

不老川河口から源流部まで「さ」地名が連なっているのがわかります。

これで武蔵大國魂神社から荒川まで以下のように水路がつながったことになり、「さ」地名が痕跡として残されていることも一応は確認できたと思います。

武蔵大國魂神社~古代蛇堀川~狭山池(狭山丘陵西端)~#202~#201~#200~#199~#198~#197(古荒川湾)

調査過程で何となく見えてきたのは以下の2つです。

1)中世武士団によって復刻されたスサノオ、兄多毛比が関東に持ち込んだ源流としてのスサノオ、この2つのスサノオが見られた。

2)武蔵大國魂神社の支配エリアのアイコンは大山祇だった。

 

これらは今後入間川沿いの調査を進めるうえで一種の指針となると思っています。

 

 

※1兄多毛比(えたけひ=武夷鳥)は明らかに関東平野開拓(侵略)者で氷川の関東における創設者にもかかわらず、鷲宮神社、出雲祝神社といったごく少数の神社にしか祀られていません。

氷川から兄多毛比が排除されているように見えます。これは武蔵国造の乱の結果かもしれないな、と想像します。

 

※2このエリアは荒川が下に凸のカーブを描いています。豪雨時には危険な場所になるのではないでしょうか。

対岸の大宮台地では土器が大量に見つかっているのとは対照的です。

「さ」地名から、古荒川湾を支配した氷川が武蔵大國魂神社勢力にこの一帯を譲ったようにも見えます。が、上記のとおりこの一帯はどうも水害地帯のようで、武蔵大國魂神社勢力はせっかく古荒川湾に到達できたのにババを引かされた、とも見えますね。

おもしろい…