前回までは不老川沿岸の神社を辿っていたわけですが、不老川の河口まで戻って古荒川湾沿岸を北上します。

不老川河口のすぐ北にある仙波氷川神社を訪れました。

 

■仙波氷川神社・・・埼玉県川越市仙波町4丁目19−1

 

 

江戸期に家康が大土木工事をやり、現在よりも北方を流れていた荒川(元荒川)を現在のような流路にしました。

それ以前は入間川が荒川の源流でした。

(ま、そうはいっても沖積平野の広がりを見ればそんなに意味あることでもないですが)

 

土地利用の遅れている個所がかつての古荒川湾だったと考えて、その部分を青く塗りつぶしてみました。

古荒川湾の西岸がちょっと堀りくぼめられ安全になっているところがちょうど仙波氷川神社のある場所となっています。船着き場にするには最適といえるでしょう。

今回の「仙波」氷川神社も、船場→仙波と表記が変わったんじゃないのかなと想像します。

 

上図のアップです。小規模な湾になっているのが分かります。おまけにすぐ南に不老川の流れ込みがあり、元狭山神社方面への舟の積み替えにも便利です。

 

さて、鳥居は西向きです。つまり「荒川に背を向けて」います。

古荒川湾を見下ろす高台の縁に立地していますので、明らかに古荒川湾の舟運に関係が深いとしか見えないのですが、なぜか荒川に背を向けています。

想像ですが、この仙波氷川神社は設立当初は古荒川湾に向かって建てられていたと思います。時代が下り古荒川湾が干上がるにつれ、舟運より陸送・陸戦の時代に移り神社も内陸方向を正面に変えたのではないでしょうか。多分その段階で奉斎する民族・神様が変わったんじゃないかな??

 

分かりづらいですが、鳥居前の道が南に向かって下っています。突き当りの道を左へ曲がるとさらに下ってかつての古荒川湾の水際へとたどり着きます。そこにはかつての河岸(船着き場)がありました。※1

 

 

 

境内

 

拝殿。千木、鰹木はなく氷川らしくないです。武蔵野台地から荒川へ近づくと千木、鰹木を見かけなくなります。

元は氷川神社であっても別の神様が入ってきたと思われます。ここら辺りは氷川神社分布の真っただ中なのに…これも歴史の変遷です。

 

これは拝殿の軒の部分です。アップにすると…

 

鶴の彫刻があります。これは今まで方々で見てきた天鳥船(=ナガスネヒコ)です。つまりここ仙波氷川神社は鷲(わし)宮神社だった、と言ってもいいと思いました。

そういえば以前レポートした敷島神社にも鷲宮神社がありましたね!! どちらも新河岸川沿いの舟運に好都合な立地で似ています!!

そういえば続きですが、敷島神社の鷲宮神社も新河岸川に背を向けていたなぁ…何か関連あるんだろうか??

 

 

本殿。古荒川湾に背を向けています。

後方に見える集合住宅は仙波氷川神社より一段低い、古荒川湾のかつての水際に建っています。地面の高さの差を感じることが出来ますか?

 

本殿。詳細はよく見えません。

 

 

千木があるような、ないような…

これ以上は何とも分かりません。

 

拝殿向かって右に稲荷。摂社として並んでいますので軽い稲荷ではないでしょう。

 

稲荷(伊勢外宮様)と八坂(スサノオ)

 

境内の中央には古墳。

 

中世武士団の本拠地だったそうで、陸戦を専らとする武士団であれば神社が荒川に背を向けているのも納得です。

明治期に近隣の稲荷、八坂、厳島が合祀された、と。その祭神がスサノオ、倉稲魂、イチキシマ姫ということですね。

では合祀される以前の神様は一体誰なんでしょうか?

 

やはり拝殿の屋根に鳥の彫刻があったので、原初の祭神は伯父としてナガスネヒコを奉る武夷鳥(兄多毛比=えたけひ)だったと想像します。

つまりここは氷川神社ではなく鷲(わし)宮神社だった、と。

 

また、古墳の森サイトによればこの周辺には古墳群があり、境内にも小古墳がありました。

これらの古墳について詳細が不明なので何とも言えませんが、境内にあった古墳が小規模なのでこの周辺に入植した民族が作った群集墳の一つなのではないか、と想像しました。

群集墳であれば武蔵大國魂神社(近畿奈良政権)の影響下に入る以前だと思われますが…程度しか想像できませんねぇ。

 

しかし群集墳を築いたこの近辺のコロニーの人々が古荒川湾で漁業・舟運を生業としていたのは確実でしょう。ならば素直に氷川系と言ってしまってもいいようにも感じます。

 

 

※1かつてこの仙波氷川神社の東の崖下には仙波河岸という船着き場がありました。

仙波河岸は、明治期に群馬の生糸を海外に輸出するためここ川越に集積する船着き場として整備されました(仙波河岸はその後使われなくなり廃れました)。

これは明治期の話なのですが、これにより分かるのは「改めて仙波河岸を整備しないと、ここ仙波には船が着岸できない」状況があったということです。つまり幕末までには古荒川湾は十分に干上がって現在知られているような荒川になっていたと思われます。

ですが古荒川湾と呼べる広い水面があった弥生時代には、仙波河岸のように人口の運河を建設しなくても同じ場所に船着き場があって、それゆえに仙波(=船場)というネーミングが自然発生したと思います。

ですので弥生時代当時は、ここ仙波氷川神社は現在とは逆に荒川の方(東向き)を向いて建てられていたのではないでしょうか。現在ではいかにも荒川舟運とは関係ないですよん! といった体の仙波氷川神社ですが、この仙波氷川神社周辺の舟運を支配したのは確実に氷川勢力であったと思います。

ここ川越台地には小古墳が分布していますが、その初期の古墳については氷川族の作ったものと考えていいのではないでしょうか。(武蔵大國魂神社周辺に分布していた群集墳と同じく)