元気出して第2弾行きましょう!

 

■杷木神社・・・福岡県朝倉市杷木池田546

 

 

前回の大山祇神社を西へ下山した山裾にあります。

 

筑後川の中州のすぐ北です。

 

 

祭神は伊邪那岐、伊邪那美、大己貴、武御雷

 

磐井が乱を起こした際、鎮圧に向かった鹿鹿火は苦戦したがこの神社で祈願したところうまく平定することが出来た、と。

この書き方だと継体側ですね。

春秋2回、鎮祭がある。

10月日本中の神は出雲へ集まるが、杷木神社の祭神はそれに参加せずゆっくり休む。その時には大声、歌舞などを慎む、と。

 

猿田彦大神

 

 

額縁に渦巻き模様。これは熊襲のデザイン。

このデザインは以前行った青谷上寺地遺跡の展示館でも見ました(隼人楯)。

 

 

石段を登り切ると境内

 

拝殿

 

 

拝殿を横から。

本殿の千木は外削ぎ、鰹木は5本。

 

この家紋は日足紋、菊池氏の家紋だそうです。

菊池はここから南へ40kmほど、山塊で隔てられています。

 

境内摂社・末社は

稲荷神社

 

貴人の像が2つ見えますが詳細は不明です。

 

こちらも不明。

 

左の祠の奥に見えるのは日月のような気もするんだがな~。

真ん中の貴人像、これは誰なんだろう…

もっと詳細に眺めておけばよかった。後悔先に立たず…

 

 

七老とは何ぞや?

 

久留米地名研究会・古川清久氏はすでにここ杷木神社周辺について深い考察を進めていらっしゃいます。

 

軽く内容をご紹介します。青字

 

日本神話では磐井の乱として描かれるエピソードがあります。九州の磐井が反抗するので、継体が物部アラカヒに命じて討伐させたというものです。多くの識者が指摘していますが、継体は北陸出身で皇統とは結構離れている血筋で、そんな継体が何で九州で事を起こすのかが不自然です。

継体は九州の人、なんじゃないの?

継体が葬られたのは三嶋御陵、

継体の父は主人王。

継体の出身地は福井

その関連地名が杷木神社近辺には散見されます。

 

和名抄によると、「筑前国 上座(かむつあさくら)郡 把伎、壬生(にぶ)・広瀬・柞田・長淵・河東(何東)・三嶋

明治15年全国小字調査によると、大字野、の澤、…といった具合に藍地名がある。

北東15kmには英(ひこ)山。

杷木神社の北東山中に福井地名。

 

(近辺の高速道路が建設時に不自然に曲げられているのは宮内庁による、との話。一体高速道路は何をよけたのか?これについては次号にて

 

杷木神社周辺では大己貴(=大国主)をまつる神社が多い。そも大国主は大幡主配下で大きな力を持っていて、日本海沿岸だけではなく筑紫平野の東北奥にあたる杷木神社周辺まで支配が及んでいた。

 

杷木神社神額にあった渦巻き模様は熊襲の民族デザイン。つまりは熊襲民族がこの地へ入っていた証。佐賀県東部から小郡、甘木、朝倉、日田に掛けては「隈」地名が広く分布している事は良く知られています

 

では上記地名を分かる限りGoogleMapから拾ってみたのが下図です。

右から左へ流れている川が大河・筑後川です。過去に広大な氾濫原を形成していたことが分かります。

つかり過去においては北と南の山塊の麓は水害から免れる安全地帯で、そういった場所を中心に入植が進んだものと想像します。

筑後川の北側に継体は陣取っていた、かもしれません。

 

杷木神社の説明板によると、どうも継体側についているニュアンスがありました。

そして継体の墓の説明に出てくるミシマ地名は上記のように発見できました。同様にアイ地名も探してみたのですが見つかりませんでした。

三島地名のすぐそばに永田大塚古墳があります。なんとなく怪しいですね。次回レポします。