またも蔵出しを進めますよ。これは私2019年に九州にお邪魔した際に、久留米地名研究会・古川清久氏に九州各地の神社をご案内いただいた際の記録です。

神々の本当の歴史に迫りたい方にピッタリな歴史ツアーとなります。

 

まずは第1弾、大山祇神社です。

 

■大山祇神社・・・福岡県朝倉市杷木大山527

 

 

筑後平野の東のどんづまり、筑後川にふたをするように立ちはだかっている杷木大山の上

 

細い道を入り込んだ上に大山祇神社はありました。

 

山間の小さい神社、といった構えです。

 

存在感あります!

 

階段上ったらすぐ拝殿。

九州の神社は拝殿に上がれるのが多いですね。

 

拝殿にかかっている写真「おしろい祭」。皆さん、おしろい(米粉を溶いたもの)を塗って顔が真っ白です。

 

拝殿内部から本殿を見る。

 

本殿。

 

本殿を横から撮影。

 

この大山祇神社はおしろい祭で有名です。祭神は不明です。

おしろい祭りの説明を朝倉市ホームページより転載します。

「昔からの「伝説」によると、大山祇神社を「山の神」と呼び、山の神は元来「女の神様」といわれています。その「女の神様」がお化粧をする事を意味し、「おしろいをぬる」といわれています。
 このおしろいは、新米(初穂)を粉にして水でといて(しとぎ)顔にぬるもので、昔の農家の人が、氏子の繁栄と新穀の豊作を神に感謝し、来年の五穀豊穣を祈願する、全国でも類のない奇習とされています。
 おしろいの顔の付き具合で来年の「作柄」を占い、このおしろいは家に帰るまで顔を洗ったり落としてはならず、火の中に入れると火事になり、帰って牛馬の飼料に混ぜて飲ませると無病息災だといいます。
 当日は14時頃から宮座が始まり、宮司のお払いがあり、祝詞が奏上されます。拝殿で氏子全部が宮座の膳につき、座元の人達は大きな鉢にしとぎを持ち出して宮司の顔から塗り始めます。」

この「女の神様」が誰なのか? それはここ大山祇神社では分かりません。

 

久留米地名研究会・古川清久氏の研究成果を読みますと深い歴史が隠されているようです。(詳しくはひぼろぎ逍遥をご覧ください)以下に赤字で要約し書き出します。

 

2016年の熊本地震により一部破損した熊本城。

その本丸御殿大広間には多くの部屋がありましたが、なかでも一番格式の高い部屋が「昭君の間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋です。この部屋には、中国の漢の時代に、胡の国に送られた絶世の美女、王昭君の物語が描かれていました。

熊本城は加藤清正が徳川家康との決戦を想定して築いた城で、大坂夏の陣で死んだ豊臣秀頼を迎え入れるはずだった熊本城最深部になぜ王昭君の絵があったのか?

かつて豊臣秀吉を超有能マスオとして採用した北の政所ネネ。その生家・杉原家(広島県の尾道市、福山市に集中する)の一族が、王昭君の流れを汲んでいたのではないかと百嶋先生は話しておられました。

天御中主と金海伽耶・金越智との間に生れた大山祇。その三人の子が、神大市姫、大己貴、木花咲姫です。彼らのルーツが、遠くモンゴル高原の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)と王昭君の流れを汲んでいた、と百嶋先生は考えられていたようです。
その一族が、朝鮮半島を経由し、ごっそり日本(久留米市田主丸町…他)に入って来ているらしいのです。
 百嶋先生は、大国主命はトルコ系匈奴に嫁いだ漢族と融合した一族と考えておられたようです。
 ただ、このことは全くの秘密にされていたようで、今後、徐々にですが、田主丸のサンヤ様=オシロイ祭などの周辺調査を始めたいと考えています(この一帯に王昭君の末裔が大量に入って来ているようなのです)。

 

このような古来の神として当たり前にあったものが、半島由来であるという理由で表から消さざるを得ない時代があったのだが熊本城・昭君の間はそれを敢えて表に出している。家康との最終決戦に向け覚悟を決めた清正が自らのルーツ・アイデンティティをむき出しにしたのですね。

 

話を大山祇神社に戻せば、かつて半島からここ九州にまで移住してきた王昭君の末裔が王昭君の故事を伝える儀式がおしろい祭だった、と想像できますね。

 

人間、至る所青山あり。