223(前) 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ① | ひぼろぎ逍遥

ひぼろぎ逍遥

http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

223(前) 内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共同掲載

20150627


久留米地名研究会 古川 清久


今年の久留米大学 公開講座九州古代史 2015 において、常連の内倉武久(元朝日新聞記者)が「南九州の考古学 熊襲を中心に」という講演が行われました。

ところがこの講演の最後で、最新情報として驚愕の仮説が提案されたのです。

元より、九州王朝論の中で磐井と継体の問題は極めて重要なテーマであり、北陸の出身とか言われる継体がわざわざ九州まで足を延ばして土豪とする磐井を征伐したという話も奇妙な上に、たった一つの屯倉の引き渡しで話が着いたというのも奇妙奇天烈です。

当初、磐井の乱ではなく継体の反乱ではないか?いや磐井の乱そのものはなかったのではないか!とか、利権構造に胡坐をかく畿内説論者の嘘つき学者どもは別として、古代史を真面目に追及する側でも混乱を重ねていました。

これについては、十年前ぐらいから、「筑紫王朝」に対して「豊前王朝」の兄弟王朝が、「近畿大和王朝」の前身として存在したという大芝英雄による「大和朝廷の前身 豊前王朝」(同時代社)、室伏志畔による「日本古代史の南船北馬」(同時代社) 楕円国家論、福永晋三氏も独自の視点から豊前王朝を提案する(後に真実の仁徳天皇」/不知火書房を後に出版する)など、九州王朝内部の内乱であったが故に、屯倉一つをやり取りするぐらいで手打ちが行われた“といった説が提出され、研究はさらに進められてきました。

一方、継体天皇陵については、考古学会が高槻市の今城塚古墳を、宮内庁が茨木市太田茶臼山古墳としています。


223-1

 長田大塚古墳 


223-2

俗に「磐井の乱」(石井)と言われる「継体の乱」を起こした継体の墓は、今回の集合場所である連水車の里あさくらの直ぐ北(山田パーキングエリア南)にある長田大塚古墳ではないかと言いだしたのです。

地名で言えば、御陵者三嶋之藍御陵也の「三嶋」も「藍」も地名としては揃っている。…


以下「古事記」…。


此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也


『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王 (彦山は直ぐ裏ですね… 古川)、母は垂仁天皇 7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀 』では省略されており、辛うじて鎌倉時代 の『釈日本紀 』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)若野毛二俣王大郎子(一名意富富等王 乎非王 汙斯王(=彦主人王)乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。

「ウィキペディア」による。

その継体天皇陵については、現在、学会あげて今城塚古墳(郡家本町)としているのですが、宮内庁はいまだに太田茶臼山古墳(茨木市)=三嶋の藍の陵を継体天皇陵とし続けています。

223-3

下座(げざ)郡 甘木(あまぎ)市・三奈木(みなぎ) 上座(じょうざ)郡 朝倉町比良松(ひらまつ)・杷木(はき)町 御笠(みかさ)郡 大野城(おおのじょう)・四王寺(しおうじ)山

上座郡・下座郡は「和名抄」に次のように記録されています。
筑前国 下座(しもつあさくら)郡 

馬田(むまた)・青木・鍛饗(くはへ)、三城(みなき)・美嚢・城邊・立石
 同  上座(かむつあさくら)

      把伎、壬生(にぶ)・広瀬・柞田・長淵・河東(何東)・三嶋

「明治15年全国小字調査」によれば、大字藍野、藍の澤、藍…四股名レベルでも藍がある。


この場所で高速道路が不必要に曲げられているという印象は山田パーキング・エリアを利用している人(進入路がかなり無理な勾配になっている)は誰も持っていると思うのですが、現地の話では、何故か古墳を所管する文化庁ではなく、宮内庁からの横やりでコースが変更されたと言うのです。

恐らく、これが本物の、若しくは、引っ越した後(前)の継体天皇陵であることを知っているのではないかと思うのですが、たまたま、春に井上悦文氏の案内で同行した内倉、古川ともども考えているところです。

 もしも、この古墳が継体天皇を葬ったものとしたら、福井県(若狭)出身の応神天皇五世の孫が天皇になり、筑紫国造たる磐井を征伐したと言うトンチンカンな話も一気に真実味を帯びて来るのです。

 正しく、継体もこの周辺にいたのであり、まさに、九州王朝内部での覇権争い、若しくは下剋上であった可能性が出て来たのです。

 福井については、糸島半島の西の旧二丈町に福井、福井白山神社があり、以前から福井と言う地名も海士族が移動した際に持ち出した地名ではないかと考えていましたが、お膝元の福井は知ってはいたものの山中のため見過ごしていました。

 筑後川を挟んだ反対側に磐井の領域があったことになりますし、その福井も杷木町の裏、現東峰村(旧法珠山村)の中心部に福井があるという事まで揃っているのです(日田市の入口にも石井集落あり)。

 磐井の乱も、実際には九州王朝内部の内ゲバに近いものであったようなのです。

 なお、現地には謎解きの手助けになりそうなある墓がありますので、皆さんに是非見て頂きたいと思います。

 また、蛇足ながら、井上悦文氏(久留米地名研究会)の説では、山田は邪馬台国の中心地になります(「草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝」梓書院刊)


※画像クリックで拡大表示されます
223-4

今のところ、古地名だけの符合ですが、学会通説にしても、所詮、決め手は地名程度のものなのです


※画像クリックで拡大表示されます
223-5

彦山の南麓、旧宝珠山村の中心地が福井地区福井 三島 藍と三つ揃う所はそうはない