ひぼろぎ逍遥

http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

太宰府地名研究会 (神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに

すでに、綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」というブログが良く読まれ、神社への関心の高まりにまでも貢献していることは良く承知しています。
同女史は、九州大学の航空工学の助教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星拾遺」他をヒントに神功皇后を追い求めておられます。
これに対抗しようという意図はさらさらないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。
ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。
これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。
詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。
また、このブログには太宰府地名研究会の伊藤正子女史外からも投稿が行われますので、実質的には、複数以上のライターによる小論、短論が掲載される場合もあります。
知見豊かな方であることから、私はただの編集員になってしまいそうですが、神社考古学、民俗学、古典文学、考古学、雑学満載の企画です。
あくまでも、緋色のボロ着は古川だけの事ですので、悪しからずご容赦。

201712

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475 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 ① “福岡県うきは市 賀茂神社から”

20150623


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


475-1

うきは市 賀茂神社


多少、遅れ馳せの感がありますが、本物の豊玉彦(ヤタガラス)を主神とする神社をご覧に入れます。

久留米市を流れる筑後川を遡ると、左岸にうきは市があり、日田市に至ります。

このうきは市から日田市にかけては物部氏、大幡主(賀茂族)、ウガヤフキアエズの匂いがするエリアです。ついでに言えば、日田市に玉川地区があるのも関係なしとしないのです。

この大幡主、その子豊玉彦(ヤタガラス)のエリアには「隈」地名があることは何回か書いていますが、ここも同様で、東隈、西隈があり、隈上川が流れ、上流には笹の隈があり、隈地名が直ぐに拾えます。

「隈」地名は、熊本から大幡主の一族が地名を持って筑後川流域、博多周辺に展開した痕跡なのです。


カーナビ検索 うきは市浮羽町山北1


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まず、この神社は“美しい”の一言に尽きます。

殷の鳥居の変形ではないかとも思える荘厳な門と立派な参拝殿、水路を巡らした庭園風の庭、神社の性格とか祭神云々の話に入る前に、その荘厳、神秘性に圧倒されてしまいます。

また、羅針盤状の暦盤が天井に置かれているのも印象的です。

この一族が、星(天文)を観測し航海を行い、暦を創り司る人々であった事が分かります。

博多の櫛田神社(大幡主の本拠地=熊野の出戻り本山)にも暦盤が置かれていますね。


475-4

これが京都の下賀茂神社のルーツではないかとお考えになる方がおられると思いますが、その方向で考えられて構いません。間違いないと思います。

まず、友好blogの「ひもろぎ逍遥」(もっとも、先方はこちらを「迷惑biog」とされていますが)の綾杉女史のコメントから見ましょう。なお、文中のくじらさんは久留米地名研究会の事務局次長のO氏です。


「山北」は福岡県浮羽市にあります。まずは、くじらさんのコメントの概要。これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/ 賀茂神社_(うきは市))境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。

くじらさん、こんばんは。「山北」ですね。それなら知ってるかも (^-^)物部氏はかなり古いですね。想像以上。あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。何々、アジスキタカヒコネですか。この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?興味津津。早速ウィキペディアを引用してみましょう。


縁起 当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)

祭神 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))う~む。宇佐から山北へ。そして八咫烏となった。これは奥深い伝承ですね。いつかチャレンジしたい…。


そもそも、このうきは市一帯には、千束、千足(チツカ、センゾク…)、姫治(ヒメハル:紀氏が治めるの意味かも)、内ケ原(ウチノシコオ?)、白土(もちろん白川伯王=の系統の方々が住む土地の意味ですね)という物部氏、白族系統の地名が拾えます。

さらに言えば、日田市にも隈地名(星隈など3隈地名が…)があり、豊玉彦を意味する玉川地名まで存在しており、この古代筑後湾の湾奥好地が、大幡主と豊玉彦の支配下にあった事が分かるのです。

注目して頂きたいのは、この二つ葵の神紋です。重要なので次回以降に廻すことにして、まずは、この秀麗かつ気品に溢れた本物中の本物のヤタガラスの神社の画像をお見せします。

ただし、前述1651年の旧記による「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあるのはそのままでは受け容れられません。

日向から東征したのは、藤原が第10代とする贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)の事であり、もしも、ここが降臨した地であるのならば、賀茂大神ことヤタガラスは肥後から浮羽はに入り、後に博多に入ったのかも知れません。

 ただ、神武とヤタガラスとは同時期に活躍していますが、宇佐を基盤にした崇神が本物の神武やヤタガラスに出あうはずはないのです。

少なくとも、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)とヤタガラスに関係のある重要な神社であるとまでは言えると思います。 


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474 筑後にも長脛彦を祀る神社が存在していた “福岡県うきは市吉井町熊野神社”

20170419


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2017414日~16日に掛けて往復1100キロを二泊三日の行程で 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社調査を行ってきましたが、その過程で長脛彦の別名である天香香背男(アメノカガセオ)、星神香香背男(ホシノカガセオ)、香香背男(カガセオ)祭祀が出雲にも存在している事に気付きました。

 そこで、改めてネット検索を試みると、これまで天津甕星祭祀は北関東のものとの認識でしたが、それが日田市の隣町のうきは市吉井町の賀茂神社にあり、九州でも福岡、佐賀、熊本に三ケ所、大分県に二ケ所存在している事に気付いたのでした。

なぜ、これがそれほど重要かを知って頂くためには、まず、長脛彦を認識してもらう必要があるでしょう。


長脛彦

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

ウィキペディア(20170419 0720による


島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1284 湯野神社

祭神 大己貴命、少彦名命、迩迩藝命、事代主命

合祀 三保津比賣命、大年神、御年神、若年神、香香背男命、素盞嗚命、國常立命、國狹槌命、豐斟渟命、武甕槌命


474-2     敬愛する
474-1 による


香香背男を祀っている神社

福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358 熊野神社摂社三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神
佐賀県鹿島市大字三河内丙1  三嶽神社 「廣國押建金日命 合 星神ほか」
熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364  冠神社 「阿蘇大神 合 大年神、星神」
大分県佐伯市大字鶴望2421番地  星宮神社 「香香世男大神ほか」
大分県佐伯市大字守後浦44番地  産靈神社 「天香香背男神」

頻繁に利用させて頂いている474-3 による


 この長脛彦祭祀については、本物(神武僭称崇神ではない)のカムヤマトイワレヒコと衝突した、スサノウと櫛稲田姫との直系長子という栄えある逆賊の痕跡だけに、注目せざるを得ないのですが、三光神社が大阪の真田丸跡地にあることから、もしかしたら幸村贔屓により関西から持ち込まれた可能性もあり慎重に考えるべきかも知れません。

 現在、この長脛彦祭祀については、南薩摩の坊津の船戸神社と北薩摩の出水市(旧野田町)の熊野神社を発見しており、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の二本をお読みください。

坊津の船戸神社の「船戸」は岐神(クナトノカミ)のクナトの置換えですね。


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福岡県神社誌中巻252p


 「福岡県神社誌」によれば、祭神はイザナミ、速玉男命(大幡主)、事解男命(金山彦)、大山祗命ということになり(イザナミはイザナギと別れ大幡主のお妃となっています)紛れもない熊野神社です。

 さて、懸案の長脛彦です。


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そもそも1776年になぜ勧請されたのかが不明ですが、とりあえず起源が新しいとすれば、天加賀世男が元々は祀られていなかった事から一応謎は解けたことになります。

 この三光宮という摂社を勧請した人々が、この天加賀世男神に所縁のある人々だったのかです。

 神武天皇に対立した富の長脛彦を奉斎する人々は、スサノウと櫛稲田姫との直系の一族の後裔になる訳で、付近を見ると、福富小、中学校(福富:しこ名)があり、富永(吉井町)という集落がある事に気付きます。また、「福岡県神社誌」中巻213pの「賀茂神社」を読むと富郷が書かれており、古くは富郷と呼ばれていた事が分かります。

ここでは筑後で那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古を探る基礎調査の一環をお知らせした事になります。


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百嶋由一郎「三宝荒神系譜」神代系譜


そもそも櫛稲田姫は金山彦(瀛氏)と埴安姫(大幡主系白族)との間に産れていますから、長脛彦は瀛氏の正統後裔氏族であることが分かります。

その民族対立の結果、列島王権が成立していく事が分かります。

勿論、その氏族は中国や半島のように根絶やしにされる事は無く共存が図られていったのです。


研究目的で百嶋由一郎氏の資料(音声CD,系譜…)を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

 
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473 山口県美祢市厚保の神功皇后神社

20170417

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


高速は関門橋周辺のみの利用で、往復1100キロを二泊三日で走り抜き 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社の調査を終えて九州に戻る途中、JR美祢線の厚保(アツ)駅、中国自動車道美祢西ICに近い神功皇后神社を見せて頂きました。


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下関の忌宮の勧請神社でありそれほど古い神社ではない事は直ぐに分かりました。

 それは、境内に古い神様が残されていない(摂社、末社、分社…)事からも明らかです。

 ただ、神殿脇に天満宮が残されている事だけが気になります。

菅原道真はスサノウ(実際には長脛彦)系と大幡主(実際にはヤタガラス)系の本家同志により産まれていると百嶋由一郎氏は話されていましたが、この一帯には後者に関連する地名がかなり拾えることから、この天満宮が先行して存在していたところに忌宮の神々が持ち込まれたものと思われます。

当の忌宮も、本来は忌=瀛(イン)部の神社なのですが(九州王朝最後の天皇である若宮も祀られている)、その構造がそのまま持ち込まれ、とりわけ道真を祀るとする天満宮が神殿脇に摂社として残されたもののように見えるのです。

この神社自体にはこれといった謎はないのですが、この神社の前には古代官道が通っていたと考えられます。


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詳しく触れるつもりはありませんが、恐らく九州王朝の古代官道の延長と思われるものが、この地から東と北に延びていたようです。

 これについては、ひぼろぎ逍遥446450で概略を書いていますが、この山口県下にもその痕跡があるのです。

 一つは九州で筑後から肥後に掛けて数多く拾える古代官道地名の「車路」「車地」に対応する「車地」がそのまま国道2号線に存在するのです。

 このことは、国道2号線は九州王朝の古代官道をベースに造られている可能性があるのです。

 美東町の「鞍掛」も官道地名なのですが、これは時代もコースも異なるようです。

 そこで、JR美祢線の厚保(あつ)駅に置かれた掲示板をお読み頂きましょう。


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話が拡散して申し訳ないのですが、どうも気になるのでコメントを加えておきたいと思います。

「阿」は湿地の意味で「津」は交通位置を示す地名であったあったようだ。と書かれていますが、「阿津」(アツ)自体が湿地を意味していると考えます。

 関東に、世田谷、渋谷、保土ヶ谷、日比谷…と「谷」と書き「ヤ」と発音する地名が数多くある事はどなたもお分かり頂けるでしょう。関東の台地の浸食谷の湿地がヤツ、ヤチなのですが、この厚保も厚狭川の氾濫地であり「ヤツ」と呼ばれてもおかしくない地形です。「阿」ではなく「阿津」が湿地なのです。

 この「谷」(ヤ)地名は、本来、「ヤツ」「ヤッ」「ヤッツ」「ヤチ」「ヤト」…と呼ばれるもので、後に「ツ」以下の部分が省略され脱落したものでしょう。

 ただ、「ヤツ」(YATU)が「アツ」(ATU)と発音されていたもしくは転化(変化)したものに思えるのですが、「アツ」→「ヤツ」なのか?「ヤツ」→「アツ」なのか?は、なお、不明です。

 それは、関東の「ヤツ」地名が鹿児島でも拾えるからです。


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一例ですが、 鹿児島県出水市野田町下名の「屋地」(ヤヂ)です。

 島津氏には下向説、土着説もあり、関東系の敗残者が島津に墜ちた可能性もあるのですが、鹿児島県のヤツ、ヤチ…地名はそれほど少ないものでもなく、むしろ南から北、東へと展開した可能性も考える必要性があるのです。

 この「厚保」の隣には「伊佐」(鹿児島県伊佐市)という地名もあり、薩摩との関係も意識せざるを得ません。そもそも、美祢市の「美祢」も佐賀県の旧「三根」郡に対応しますし、九州との関係は濃厚です。

 10世紀の延喜式に「阿津」(アツ)とあり、厚保」となったのは後の事である。「保」は公地の行政単位の庄、郷、保とあり、その保で後に「厚」を後で加えものであるという。

も違和感が付き纏います。

福岡県小郡市大保に「大保」があり、飯塚市「大分八幡宮」があり、大分「だいぶ」と読み太傅(天子の師傅となる官)の事である。すなわちここは天子の養育に携わる府が置かれた場所である(「大伝府」)。

 太宰府は言うまでもない訳で、大保(オオホではなくオオフと呼んでいた可能性もあるのです。

仮に「保」が行政用語としても、「厚保」の「厚」は「阿津」の「阿津保」では三文字になるため、所謂、好字令により「阿津保」は「厚保」と換えた可能性を考えてしまいます。


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JR美祢線厚保駅は「あつ」駅と呼ばれているのです


 九州の「車路」地名をご紹介しておきましょう。勿論、これ以外にもあります。


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PP「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ”から(上) 宇部市の2号線「車地」(下)


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