ひぼろぎ逍遥

ひぼろぎ逍遥

http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


はじめに

既に、綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」というブログが良く読まれ、神社への関心の高まりにまでも貢献していることは良く承知しています。

これに対抗しようという意図はないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。

ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。

これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。

 現在、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)との合計のアクセス数は日量10001200件(年間4045万件)まで上がっています。

 同時に、連携する研究者によるblog20近くまで数を増やしており、全体では年間100150万件近いアクセス数を持っているものと思われます。

 当blogには九州王朝論から百嶋神社考古学へと向かわんとする多くの研究者、記録者、bloger…が参集されています。

 年に10回、10年でも高々100回程度の研究会でも大半は教育委員会関係者から学芸員といった利権まみれの方々通説を拝聴し心服するような、研究者亡き研究会は全く何の価値もないものであり、そこら辺りの既存の郷土史会、史談会に行かれ、村興し、町興し、世界遺産登録に尾を振れば良いでしょう。

しかし、私達は真実の探求へと向かう人々への道標と成ろうと思うものです。

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ビアヘロ079 人吉盆地に奥深く鎮座する熊野神社の正体を見たか?“熊本県あさぎり町岡留熊野坐神社”

20181120

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は重要と考えますので、ビアヘロ版079として先行掲載します(予定では掲載が15か月程度先になりますので)。2018111718日に掛けて「宮原誠一の神社見聞諜」の誠一先生に随行し人吉盆地に踏み入りました。

と、言っても、八代から球磨川を溯上したのではなく、宇土市と八代市の中間の旧小川町から山を越え五木村から相良村に降り下り晩秋の人吉盆地に入ったのでした。

暫く前からネット上で遭遇した「ひろっぷ」というブログをお書きの聡明な女性と頻繁にメールをやりとりしておりました。

このため、誠一先生も含め、まずは、直接お逢いしてお話ししたいと思っていたのです。

以外と早くこの思いが叶い、静かな人吉盆地のご自宅を訪問し数時間に亘ってお話しさせて頂き、一旦青井阿蘇神社の付近の安宿に戻り翌朝から、あさぎり町と多良木町を中心に神社を見せて頂きました。

私は十数年前から天子宮調査で延二十日間は入っていましたので、ある程度の土地勘を得ていましたが、地元の方のご案内を頂くと全く違う世界が広がるもので、新たな知見が幾つも飛び込んできました。

この間研究会内部では不思議と橘一族の後裔が集まり始めており、静かな広がりを見せています。

既に56人の橘一族の後裔によるネット・ワークが形成されており(ブロガーだけでも4人の5ブログがあり、それに宮原姓をお持ちの「ひろっぷ」様が加わって頂ける事になりそうです。

実は、私も橘一族の後裔として末席を汚していることが最近になって分かり、当方の二本のブログに加え、百嶋神社考古学256のブログの中に、


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高知の別役(一応伏せますが)まで、56本のブログが揃う事になるのです。

早朝から宮原誠一先生に青井阿蘇神社をご案内、その後ひろっぷ様から十社ほどの神社をご案内頂きました。

私にも初見の神社がいくつもあり、非常に興味深く見せて頂いたのですが、その中から今回は一社だけをご紹介したいと思います。

人吉盆地内の神社については、これまで、雨宮神社(相良村)、十島菅原神社(人吉市)、大宮神社(多良木町)、槻木四所神社(多良木町)白水阿蘇神社(水上村)、…などこれまで10社程を書いていますが、まだ、それほどの深入りはしておりません。それは、まだ人吉盆地内の神社群の全貌が見えていないからです。青井阿蘇神社をそのまま阿蘇系神社と考える様に単なるガイド・ブック的な話をするならばいざ知らず、私達は、覆い隠された古代の真実を探り、出来れば相良入府以前の世界までも解き明かそうとしている訳で、部分的に試みてはいるものの、中々、おいそれとは踏み込み難かったからでした。


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岡留熊野神社座神社 カーナビ検索 熊本県あさぎり町免田西1582

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熊本県には熊野坐神社、熊野神社…が訪問や通過までも加えれば、知っているだけでも二十社程度はあるようです。勿論、人吉盆地内でも他に数社は拾えます。

特に、「坐」(います)を付す神社は古いようで、この神社(「座」としてはいますが)もその一つになるのでしょう。

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同社由緒 御祭神 伊邪那岐 伊邪那美 速玉之男神


まず、神社ウォッチャーの方ならば大体お分かりだと思いますが、イザナミは祀るものの、イザナギを祀らない神社が非常に多い事にお気付きだと思です。

事実、熊野三山には、本来、イザナギは祀られてはいないのです。…以下簡略化して説明します。


熊野本宮大社  アカルヒメ=ヤタガラスの姉でスサノウのお妃で姫島に逃れている(市杵島姫を連れ)

熊野速玉大社  豊玉彦=ヤタガラスの父神 大幡主=カミムスビの神(造化三神)神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命とされる

熊野那智大社  イザナギと別れた後、名をクマノフスミと名を変えたイザナミ


「古事記」神話と違うではないか…と猛然と抗議される方がおられると思いますが、その根拠を問えば神社庁が言うからとのことなのです。この手合いには、ご自分でお調べ下さいとしか言うしかありません。

一例をご紹介しましょう。人吉市から球磨川を少し下ると、球磨郡球磨村神瀬甲820の巨大鍾乳洞内に鎮座する熊野座神社があります。

ここでも、イザナギは祀られていないのです。以下は、その熊野座神社の御由緒です。


ひぼろぎ逍遥 でも取り上げています。

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イワツバメの大群が飛び交う巨大鍾乳洞に鎮座する熊野座神社


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速玉男命 死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男

敬愛する「玄松子」様より引用

一書のとおりイザナギとイザナミは分かれた後、大幡主のお妃となられているのです。

ここでは、事解之男を採用されていますが、百嶋神社考古学では熊野速玉神社は速玉男命とします。

従って、後代の追加による例外はあるものの熊野系にイザナギが祀られる事はないのです。

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百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜(部分)クマノフスミこそイザナギと別れた後のイザナミなのです


ここで、話を岡留熊野座神社に戻しますが、念のために「熊本県神社誌」でも確認しておきましょう。

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「熊本県神社誌」262p(部分)左は境外摂社 ご覧のとおりイザナギが入っています


私には明治の村社昇格に絡んで、通り良く「記」「紀」に沿うように祭神が入れ替えられた(イザナギが挿入された)様に見えるのですが、無論、これは推定でしかありません。

ただ、この事が、同社の参道階段右手に置かれた境内摂社によってある程度の推定ができるのです。

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一言で言えば、本来神殿に祀られていた神様がごっそり祀られているようです。

窪権現(権現は神仏混合時代=江戸期以前の神仏名ですが…)の窪の意味は不明ですが、熊野大神とされている事からこの神様こそが元々鎮座されていたイザナミの後の夫となられた大幡主=造化三神のカミムスビの娘(ヤタガラスの妹)であるアカルヒメ(熊野本宮大社の主神)の事なのです。

この大幡主が神殿から下の摂社殿に降ろされているのです。

イザナミが神殿に残された以上、この岡留神社の基層には、前述の神瀬(コウノセ)の熊野座神社が金山彦を掲げる様に金山彦(イスラエル)系の神が祀られていたことになり、これを祀った人々もその系統の人々だったことになるのです。

菅公は良いとして、と言っても、こちらも大幡主系と金山彦系の本家同志で成立したのが菅原家ですからここでも消された二系統が大切に祀られている事が分かります。

ただ、人吉盆地でも散見される八王子は十年来の謎でまだ分かりませんのでパスします。

二宮は阿蘇神社の二宮の意味ではなく、健磐龍を祀る阿蘇神社に対する二宮、つまり、高森の草部吉見神社のヒコヤイミミの事であり、この草部吉見と宗像三女神の市杵島姫との間に産れたのが左端の阿蘇北宮(ここでは北嶽と書かれています)国造神社の大山咋(オオヤマクイ)=現地では速瓶玉命の事なのであり、後の日枝山王権現、日吉神社、山王神社、酒の神様松尾大社、佐田神社(出雲)、の佐田大神(断じて猿田彦に非ず)…となるのです。これらの話は幾らも書いているのでネット検索で確認してください。

池王社を飛ばしましたが、これも大幡主の子(母神は言うまでも無くクマノフスミと名を改めた金山彦の妹イザナミ)豊玉彦=ヤタガラスとなるのです。

何故、池王と呼ぶかは多少の見当が着くのですが話が逸れますのでここでは止めておきましょう。

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そう考えていると参拝殿の横にヤタガラスの掲示がありました これでは丸わかりですね


そして、この神社の宮司家は尾形(緒方)ですから大雑把に言えば阿蘇神社の系統になるでしょうが、大神一族ですね、そう考えると、ここに雨ノ宮姫が祀られている事にも納得がゆくのです。

何故なら、この雨の宮の雨宮姫から事実上の阿蘇家初代の阿蘇惟人(コレヒト)が産まれるのです。

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百嶋由一郎 018阿蘇系譜①-2 神代系譜(部分)


してみると、左の雨の宮殿の中に置かれた3体の男神像は、阿蘇氏初代の惟人と高橋+速日と考えられそうです。ここまで考えてくると、少し面白い事に気付きました。

ご迷惑になるといけませんので、あくまでも可能性の範囲とご理解いただきたいのですが、このあさぎり町には、白岳酒造があります。

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人吉盆地にも百済=旧多良木の人々が入っているようです。だから錦町はあさぎり町とは別なのです。

 あさぎりはどちらかと言えば百済ではなく新羅の多羅伽耶から入った人のような気がします。

それは山の名を見れば分かります。

 白髪岳、小白髪岳、白髪野、陀来水(多羅を見る)と半島の東南部を偲んだ名が残されているのです。

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白岳酒造があさぎり町の南の高峰白髪岳から名を取っている事は明らかでしょう(高橋が新羅と言う意味ではないのでご注意を)。

白岳がそうだとして、そこに高橋酒造が在ったとしたら、再度申し上げますが、阿蘇高森の草部吉見ヒコヤイミミと宗像三女神の市杵島姫との間に産れた阿蘇国造速瓶玉(大山咋、日枝山王権現、日吉大社、佐田神社…)は、酒の神様=松尾大社でもあるのです。

相良村の雨宮神社や市房山神宮の境外摂社雨宮姫(岩野)は元より、熊本市内などにも数社存在する雨宮(阿蘇ツ姫の娘)が大切に守られ、今尚「白岳」を造る高橋酒造とは、この阿蘇国造と雨宮姫の直系の一族であるかも知れないのです。してみると、上の三体の神像のうちの二体のどちらかが高橋神であり、速日(速瓶の子)と思われ、高橋酒造から焼酎を奉納し祀られる価値があるのではないかと思うものです。

そして、「岡留」(元寇期までは辿れるとの事)という地名が気になっていました。何とも違和感のある奇妙な地名だと思っていましたがようやく見当が着きました。下の神殿に降ろされた筆頭の神が熊野大神ならば、それは熊野本宮大社のアカル姫のはずなのです(隠れ菊池一族の米良の銀鏡神社の主神でもある)。その消されたアカル姫の「アカル」の置換えが「岡留」(オカル)なのではないか…と考えるのです。今後の課題ですね。消された理由も分かります。アカルヒメは金山彦の妹のイザナミの娘であり神武天皇に背いたナガスネヒコに繋がるから慎重に神殿から外されたのです。簡単に言えば神祇官対策ですね。

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最期にこのフクロウが気になるのです。ヤタガラスとフクロウと言えば、茨城県の鳥子山上神社が頭を過ります。ヤタガラスの子である鳥の子と言えばトリノコ山上神社に繋がるかはこれからの課題です。

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雨宮姫については幾つか書いていますので、関心をお持ちの方は ひぼろぎ逍遥+雨宮姫で検索を…

また、フクロウについてはブログ「ひろっぷ」で興味深い話を書かれておられます。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

20180728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ~大山祗~大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


無題.png中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。

写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。

 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗~大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 無題.png当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。

参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。

勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は今尚中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。

恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。

きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。


 その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。


石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988113日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。

清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。

石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。

ウィキペディア(20180730 1515による


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戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

ネット上の「旅行日記」による

「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。


写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。

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次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。

これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「~茶馬古道をゆく~ 宝山石頭城」からご覧ください。


麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。

その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。

長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、

城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。

宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。

当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、

この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。

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次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。

百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。

 解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。

以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。

非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、云南省河哈尼族彝族自治州と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くにもあるのでしょう。

パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。

 従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞もべつになります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。


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百嶋手書きメモから


中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。


プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46  | 中国のこと

 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。

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事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。

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倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。

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石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。

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上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。

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廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。

 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。

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百嶋由一郎手書きスキャニング・データより

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ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

20160614

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


625日に田神様を主軸に据えたトレッキングを行いましたが、大国主を祀る筑前町弥永の大己貴神社からほど近い場所に日隅宮(ウズノミヤ)があった事が、筑前町弥永にある田神社の縁起(旧縁起)から読み取れたのでした。

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現在、このあまりにも巨大な事実にたじろいでいるところですが、以前から書いてきた「出雲神話」の舞台は九州であるという仮説の証拠にも成りうる痕跡をその小字地名として発見した事になるのです。

なぜならば、大国主の国譲りに絡んで、高木大神が新しい社を建て直してやるとしたのが「日隅宮」だったからです。

その「日隅宮」という小字が大己貴神社が鎮座する筑前町大字弥永にあったのですから、両者に関係がないとは考えられない上に、「日隅」を現地では「うず」と呼んでいる事も、その信憑性を物語っているように思えるのです。

通常「日隅」と書いて「うず」とは読みません。しかし、福岡市南区には「日佐」と書き、「おさ」と読む地名があるのです。

そこでお考えください。「九州では大事をしでかした…」「ウーゴトばしでかした…」と言いますね。

これもそれと同様で、「日佐」は古くは「うさ」と読まれ、中央語の影響を受け、現在は「おさ」と呼ばれていた可能性を否定できないのです。

栂を「ツガ」「トガ」と「フウヅキ」を「ホオヅキ」と読み替えている事と対応するのです。

「日隅宮」を「うずのみや」と呼んでいる事自体が古い表現を留めている事を意味しており、近年のそれではなく相当に古いものである事にただならぬものを感じるのです。

作業はまだ始まったばかりですが、まずは、現在消されているとしても、この小字「日隅宮」がどこにあったかを探り出さねばなりません。

しかも、「日本書紀」には仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まらず、大三輪社を建て刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあることから、その舞台が現出雲の国でないことは明らかなのです。違うと言われるなら説明をお願いします。

まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとはおっしゃらないとは思いますが、日向の一の宮が高千穂とか霧島にはならず、何故、都濃町の都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

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日向一の宮都濃神社


また、熊本市西里に大己貴神社があり、薩摩は吹上浜に、大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思います。

一方、宗像大社の本当の祭神は大国主命との説も飛び交っていますが、宗像の隣町遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座しています

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現在は失われた大字弥永の田神神社の旧縁起


一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。


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地理院地図


現在、日隅宮は福岡県筑前町(旧夜須町)の弥永に田神社(天神社)とも呼ばれ鎮座しています。

この境内に日隅宮も置かれ、実際には日隅(ウズ)宮とも呼ばれているのですから、甘木、朝倉、杷木の一帯を明け渡した大国主系の人々が、明け渡した故地を偲ぶかのように東を向いて鎮座しているのです。

「奈良」という地名もご確認ください。この地名についても故)百嶋由一郎氏は、奈良に持ち出されていると言われていました。

奈良と言う古代に於いても重要な地名がこの地から持ち出されているのです。

思えばこの山手の夜須高原一帯(夜須川も流れ降る=天の安川ですね)には大山祗神社が数多く拾えますし、平野部は田神社(タノカンサー)が朝倉郡内に60数社拾えますし、一社を除き無格社に落とされているのです(「福岡県神社誌」)。

この地こそが高木大神から明け渡す事を要求された出雲の地なのです。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかをひけらかすような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる始末なのです。

百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界であり、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今もなお後を絶ちません。情けない限りです。