イヤハヤ…
一部好事家の間で有名な、鳥取県青谷町にある青谷上寺地遺跡にいって参りました。
■青谷上寺地遺跡・・・〒689-0501 鳥取県鳥取市青谷町青谷
日本海に突き出たちょっと特徴的な長尾鼻の西側の根元
日置川と勝部川の合流地点の近くです。
地形を見ていただくと一目瞭然ですが、ここもかつて海が大きく入り込んでいた場所だとわかります。
ごらんの通りの場所です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190516/23/tabineco7/68/e8/j/o1008075614411103593.jpg?caw=800)
紀元前300年~紀元1700年の村の遺跡だそうです。
弥生時代なんだけど海産物を食べてたようです。水田もあったようです。
祭祀を行う専用エリアがあり、猿・犬がいけにえとされていたようです。
また土木工事も行われ水田用灌漑水路もありました。
遺体についても説明がありました。
遺跡の東側から、埋葬されたのではなく無秩序に5200点の人骨が見つかり、中には傷を負ったものもあったということです。
これについては戦闘によるのかそれ以外なのかよく分かりません。ただ、弥生後期のものだということでここに住んでいた人々が消え去ったことと関係あるかもしれません。
ここは白兎神社にも近く、時期的に大幡主の全盛期とも考えられます。そこから想像するに、大幡主の先兵として大国主が、日本海沿岸に先に入植していたコロニーを潰したり傘下に入れたりしてゆく過程での出来事と考えることはできます。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190516/23/tabineco7/a5/34/j/o1008075614411103656.jpg?caw=800)
遺跡から近い場所に展示館がありました。以下は展示物の写真です。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190516/23/tabineco7/78/e9/j/o1080072314411103748.jpg?caw=800)
かつては現在より海水面が高く、古青谷湾とあるように内陸にまで海・湿地が入り込んでいました。
中心域とあるのは遺跡の中心部です。この写真からは分かりづらいですが、遺跡は左右から合流した二つの川の二股の部分にあります。上流からの水害をモロに受けない立地です、
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190516/23/tabineco7/34/34/j/o1008075614411103814.jpg?caw=800)
こんなところで安彦さんに出会うとは!
ファーストガンダム、言葉で表せないほど影響を受けた作品でした…そういえば安彦さんは日本神話もののマンガを描いてました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190516/23/tabineco7/b5/b5/j/o1008075614411103873.jpg?caw=800)
青谷上寺地遺跡の年表がありました。
人が住み始めたのが紀元前600年頃、集落が出来たのが紀元前200年頃、卜占(ぼくせん、動物の肩甲骨などを焼いてひび割れで吉凶を占う古代中国の占い、殷の時代に盛んになる)が始まったのが紀元前50年頃、殺傷痕ある人骨は150年頃、そして250年頃青谷上寺地遺跡は衰退してしまった…という内容です。
卜占をやってるということは中国人かな?
中国からの難民はいつやってきていてもおかしくありません。卜占がここで行われたのが紀元前50年、漢の混乱期です。
殺傷痕ある人骨は西暦150年、弥生時代の終わりですね。弥生時代は渡来人が多くのコロニーを作る中で交易権を巡って争っていた時代で、百嶋系譜では海洋王・大幡主の活躍する時代です。日本海沿岸では血の雨が降ったことでしょうね。
そして古墳時代に入ると青谷上寺地遺跡は衰退してしまったということですね。
この遺跡が有名になった理由に人骨があります。墓に葬るのではなく、人骨がまるで捨てられたかのように集積しているのです。
地下の水に浸かって空気と絶縁されたものの中には脳が残っているものもあります。
久留米地名研究会の古川清久氏の調査によれば、海洋民族は亡骸を海辺で海水にさらす葬り方をしていて、そんな場所にはアオ、アボといった地名が名付けられるそうです。
青谷という地名とのつながりを感じますね。
巷の説では大量虐殺された人々の死体を海に放り込んだんじゃないのか…などという話もありました。
真相は分かりません。
虐殺があったのか、自然災害だったのか、水葬だったのか…
ただ、水葬は日本の水辺で一般的にあった風習で、縄文時代に広く行われていた再葬墓も水葬した後洗骨して骨壺に収めたものです。
参考話ですが、
この遺跡の北に日本最大級の墓場があります(名前はありません)。これは水葬→洗骨という伝統的な葬送を嫌った鳥取藩が火葬を強制した結果出来上がったもの、だそうです。
卜占をやっていたということは、ここに住んだ人々は古代中国の末裔かもしれません。
遺跡が衰退したのは津波や土石流といった自然災害の可能性も考えられますね。
木を切り倒すのは石器でもできるでしょうが、加工となると鉄製道具は絶対必要だったと思います。そして弥生時代では鉄資源は貴重なので作って使って傷んだら、また鋳つぶして再利用したのでしょう。鉄製道具が出土しないからと言って鉄製道具を使っていなかったとは判断できないと思います。
これ分かりにくいですが模様から隼人楯だとわかります。
中国大陸から渡ってきた人のものではなさそうです。では一体…
日本に住んでいる人間は100%外来で、しかも日本へやってきた時期・ルーツ・規模はバラバラです。彼らは思い思いの場所にコロニーを作り、必ず交易します。
自給自足のみで人間が生きることができるというのは単に理屈の上だけで、実際は何かを誰かに売って、誰かから何かを買います。つまり人間は本質的に商品経済を宿命づけられているというのが現実的な解釈だと思っています。
商品経済する上で発生するのがブランドです。これは現代のように意図的に作り出さなくとも商取引する中で自然発生します。「石見の銀」「伯方の塩」とかです。
日本列島に上陸しコロニーを作った当初から祖先信仰はあって、かつて自分たちを導いたヒーローを「我々の神様」として祭るようになるのは自然で、その神様が商品経済の中でブランドと結びつくのも自然だったでしょう。
どんな神社でも建設するには相当な費用がかかります。コロニーの中ではそれは氏子が負担しますが彼らも酔狂でやっている訳ではなく、商品取引でご当地の神様のネームバリューで儲けた資本を、神様ブランドを強化することにつぎ込み、さらに儲けようとしている…それが神社信仰の現実面だと想像します。
生きる時代・状況が変わっても人間は変わりませんので、その人間が生きる上での本質から考えればそうとしか思えない…と考えますがいかがでしょう。
青谷上寺地遺跡の人々も程度の差こそあれ祖先信仰があったはずで、その痕跡がないかと地図を見ていたのですがよくわかりませんでした。
彼らは彼らの信じる祖先神と共にどこへ消えたのでしょうか…