イヤハヤ…

2日間にわたる群馬神社巡りもここが最終となりました。

 

■碓氷神社・・・群馬県安中市松井田町五料2131

 

関東平野の北西のどん詰まりからさらに奥へと入ったあたりです。

碓氷峠、軽井沢へと続く細い谷間へと入っていきます。

戦国時代に信州の武田軍がいろんな方面に侵出してましたが、ここもそういう意味で軍事上の重要拠点で、武田軍は広くて豊かな北関東に侵出しようと狙っていたのでしょう。

榛名歴史民俗資料館の展示の中に武田信玄、武田勝頼、真田昌幸の名前が出てくる資料があったのはこういうことだったのですね。

ここも碓氷川の土石流に何度も襲われるような土地だったんだろうなぁ…

明治時代に富岡製紙工場で働くために山越えして人々が歩いた、曲がりくねった道がありました。こういう人々や日露戦争で亡くなった多くの兵士が近代日本の礎となったのは事実です。

 

ですが、そんな出来事も、過去から現在も未来にまで永劫に続く「ある種の動き」により引き起こされた表面的な事象にすぎません。かつて失われた命も、今失われつつある命も、将来失われる命も、形を変えてずっとずっと続いてゆくのでしょう。

それは決して神秘的で美しく豊かというだけでもなく、真逆でもあります。

 

3枚目の地図にあるように丘(河岸段丘?)のふもとに鳥居があります。

厳島式鳥居です。

 

碓氷峠の熊野神社の里宮として始まったとのことです。

ここも祭神が多いです。明治期に近隣の神社を統合した結果のようです。

内訳は、菅原神社、波古曽(はこそ)神社、諏訪神社、八幡宮、その他5社、だそうです。だから祭神がこんなに多いのですね。

信州から北関東に入る入口だったため碓氷郷一宮とされたそうです。

「碓氷峠熊野神社の御分霊」とあるので碓氷峠熊野神社HPを見ますと、祭神は速玉男命、伊邪那美命日本武尊、事解男命となっていました。明治期に統合される前の祭神が速玉男命、伊邪那美命事解男命として残っているのかもしれません。(ヤマトタケルが消えていますが)

波古曽神社については、ここから2,3km西の妙義山にある波古曽神社(妙義神社境内?)がヒントになりそうです。サイト玄松子の記憶の妙義神社記事がとても参考になったので以下に要約したいと思います。(赤字)

 

妙義神社は古くは波己曾明神と称し、『三代実録』『上野国神階帳』に記載あり。

妙義山の中の白雲山周辺の地は「七波己曾」と呼ばれ、山麓に波己曾神社が分布して、丹生津姫命(にうずひめのみこと)を祀っていたらしい。
本来、妙義神社も波己曾神を主祭神としていたが、いつの頃か別に妙義大権現が成立して本社となり、波己曾神は境内社に遷された。妙義神社の元の主祭神、地主神は丹生都姫命であるが、境内の由緒では豊受大神となっている。

妙義山の中の金洞山には倭建命を祀る中之嶽神社が
妙義山の中の金鶏山には菅原道真を祀る菅原神社が

(妙義山の中の白雲山には丹生津姫命を祀っていた波己曾神社が)

鎮座しており、妙義神社は妙義山の三山(白雲山・金洞山・金鶏山)の神々を合わせ祀った状態になっている。
ただし、現在、波己曾神社の祭神は倭建命(ヤマトタケル)なのだが。

 

丹生津姫命の丹生は水銀を指す言葉で貴重な地下資源です。

 

ここで、祭神について古川清久氏の解説を掲載します。(青字)

阿志奈都智(あしなづち)命、手奈都智命(てなづち)の表記が変わってる。

石長姫(いわながひめ)命はあまり見かけない。

火産霊(ほむすび)命は、榛名神社では金山彦だったがここでは金山彦じゃないかもしれない。天日明命かもしれない。

ここは細長い谷間なのでさらに奥には何かありそうな気もする。

速玉之男命は「玉」がついているから大幡主系なのは間違いなく、ヤタガラスの系統であるのも間違いはない。

↑島根県出雲大社・大社縁結図の左端部分、手書き文字解説は百嶋由一朗氏による。

この熊野速玉命とは和歌山県新宮市・熊野新宮大社の祭神です。

 

碓氷神社の祭神にイザナミが入っていてイザナギが入っていないのは大幡主系の証。だから櫛田神社の系統の神様だと考えてよいだろう。ここに書かれている神様は全て大幡主系の仲間。

阿志奈都智命は金山彦、手奈都智命は埴安姫(速玉男命=大幡主の妹)、保食神は伊勢神社外宮様(豊受大神)、大日孁貴は天照大御神。火雷神は普通は金山彦だが、最後に書かれている火産霊神が金山彦だとするとダブりになるので火産霊神は金山彦じゃないかもしれない。それに夫婦である金山彦と埴安姫だが、普通は金山彦を上に書くものだが火産霊神が最後に書かれているのがよく分からない。

頑張って神々を系譜上で抜き出しました。

古川氏が「碓氷神社の神々が大幡主系だ」と仰っているのが分かりやすいですね。

一見系図の右のほうが独立しているようにも見えるのですが、よく見ると大幡主の妹・埴安姫が大山祇と結ばれています。母方の力が強いのでここも大幡主系と言っていいのではないでしょうか。

また系図の右の方も一見大幡主から離れているようにも見えますが、埴安姫(草野姫)の娘・神大市姫がスサノオとの間に生み出した子孫なので、これも大幡主系と言えますね。

また、神大市姫の娘・辛国息長大姫を豊受大神、豊受姫としている(青字)理由はもう一つの系譜を見ればわかります。

青い四角の豊受姫を見てください。生年が1846になってます。

これは一つ上の系譜の辛国息長大姫と同じです。

 

ちなみに、この4桁数字の見方をお伝えします。

豊受姫の場合、2000-1846=154で西暦154年生まれ、という具合に見ます。百嶋神代系譜のルールです。

 

以下、古川氏コメントが続きます。

火雷神に「雷」が入っている。「雷」が入っているとこれは崇神(=上賀茂)。

合祀されたり分けられたりしていく過程で同じ神様が別名になったりダブったりしたのではないか。誉田別が入っている理由はよく分からない。天照と誉田別は系統が違うので除いて考えた方がいいかもしれない。

宮司の氏名が曽根なので金山彦系。

鳥居のそばにあった二十三夜講の石碑(右側)。

二十三夜、十三夜といった月を待つ講があった。関東は二十三夜が多い。九州は十三夜が多い。これらを「さんやまち」と呼んだ(大幡主系の催し物)。

碓氷という地名が気になる。「碓」は「臼」の旧字で、臼に氷が張っている寒い土地を表している。

九州筑豊飯塚に碓井という地名があり、「うすい」は碓氷と碓井しかなく関連があると思う。

九州筑豊地方

遠賀川支流・千手川の上流

碓井、臼井地名がある。

これは物部の移動を示す地名痕跡ではないのか。

 

階段は急ですが、周りの雑草の手入れはちゃんとなされています。

階段の踊り場にあったコレは何だろう??

拝殿

 

本殿は覆われていて見えません。

そばには…何の手掛かりもない。

拝殿前の石灯籠に柴刺。