三千万人の犠牲
そうした心理を想像する準備として、その歴史を振り返ろう。たとえば1812年6月のフランスのナポレオンはロシア遠征を開始した。優勢なフランス軍との勝ち目の薄い正面衝突を避けロシア軍は国土を焦土にしつつ後退した。家を焼き、井戸を埋めながらの撤退であった。フランス軍にロシアの国土を利用させないためである。そして首都モスクワさえ放棄した。
やがて冬になると「冬将軍」と呼ばれるロシアの厳しい寒さがナポレオンのフランス軍を襲った。補給の切れ動きのつかなくなったフランス軍をロシア軍が攻撃した。ロシア軍はパリにまで進撃した。ナポレオンの没落の始まりであった。
20世紀になってロシア帝政が倒れソ連(ソビエト社会主義連邦共和国)が成立した。このソ連を1941年6月ナチス・ドイツが奇襲した。ナイフでバターを切るようにと表現されたドイツ軍の快進撃が続いた。しかし冬になるとソ連軍が反撃に出てモスクワの前面でドイツ軍の進撃を止めた。その後、ソ連軍は多大の犠牲を払いながらドイツ軍を押し戻し、ついには1945年5月にベルリンを陥落させて第二次世界大戦の勝者となった。この勝利のために三千万人の国民が犠牲となったとソ連は主張した。こうした点については、一部に前の章で触れた通りである。
こうした経験がロシア人を安全保障に関して特に鋭敏にした。そのロシアと目と鼻の先までの西側の軍事同盟の拡大は賢明だろうかとの疑問が湧く。冷戦期の西側戦略は「封じ込め」という言葉に集約される。ソ連の影響力の拡大を押さえ、その変化を気長に待つ作戦であった。この封じ込め政策を提案したのはジョージ・ケナン(1904~2005)というアメリカの外交官であった。そのケナンは、晩年にNATOを拡大しないように訴えていた。
>>次回 につづく
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