横浜・根岸森林公園に歴史あり
横浜・根岸の丘の上にある「根岸森林公園」
広々として、起伏に富んだ野原の感じ
交通の便がよくないので、人が押し掛けるような場ではない良さがある。
ここの始まりは、1866年(明治維新の2年前)に開設された日本初の洋式競馬場である。
今も、写真のようにスタンドの一部が残っており、貴重な遺構だ。
ただし、このスタンドは関東大震災の後、建設されたもの
現在の皐月賞(3歳クラシックレースの第一戦)に当たるレースはここで開催されていた。
メモリアルレースにその名を今も残す三冠馬セントライトは、ここで栄光への第一歩を踏み出した。
現在の起伏のある遊歩道が、往時の競馬のコースの名残りをどの程度とどめているのか分からないが、戦前、この競馬場で騎乗した騎手が「根岸のコースは怖かった」と語っているのを雑誌でみて、なるほどと思ったことがあった。
その後、戦時中は海軍に、戦後は米軍に接収されていたが、1969年に接収解除となり、一時、競馬場としての復活も模索されたそうだが、結局、1977年に公園として開放されたというのが、この地の歴史である。
なお、一時代前の娯楽名作「あぶない刑事」にも、このスタンドが使われていたと記憶する。
由緒ある競馬場跡という経緯もあってか、公園の一角には「馬の博物館」がある。
名馬像もいくつか、遠くスタンド跡が眺められるところに置かれており、なかなかの風景だ。
ちなみに、写真は、無敗でダービー(1950年/昭和25年)制覇後、破傷風により病死した「幻の名馬・トキノミノル」
なお余談ながら、この競馬場のことやトキノミノルなどのことも、インターネットで詳細な情報が掲載されている。
毎度のことながら、ネットの威力と、世の中の多士済々、マニアックな連中のいることに驚嘆する。
公園の近くには、ユーミンの歌で有名なレストラン「ドルフィン」がある。
根岸森林公園は、横浜の中心部から離れ、交通は不便であるか、それが逆に、閑静で高級感のある雰囲気をつくっているように思われる。
ただ、ドルフィンは残っているが、周辺に昔あったレストランやカフェの類は、今はほとんどなくなっているのも確かだ。
それにしても、戦前、競馬開催時には、東京から数多くの人々が訪れたはずだが、鉄道が桜木町駅までで、自動車は余り普及していない時代に、どういうふうにして、この丘の上にたどり着いたのか、興味津々、不思議な感じさえする。
ただし、これは地域限定で、かなりマニアックな感慨だと思う。
代々木公園のある光景
冬の代々木公園
東京都心にあって、この自然
ときの流れを調べてみると
その昔 田んぼや麦畑が広がっていた。
(甲州街道、東海道、中山道といった街道から離れていたから、
相当の田舎であっただろう)
1909年(明治42年) 代々木練兵場となる。(ちなみに日露戦争は、1904~05年)
ここで、陸軍大尉が日本初の飛行に成功
1945年(昭和25年) 終戦/米軍接収、宿舎ワシントンハイツ
1964年(昭和39年) 東京五輪/その選手村
1967年(昭和42年) 10月に公園としてオープン/現在に至る
代々木公園には、ジョギングを楽しむ人が大勢いた。
その中に、障がい者と伴走をしている人たちもかなりいた。
都心で、このようなシーンを目にするとは想像していなかった。
いい光景だった。
通りと筋 ~大阪のみち~
KKRホテル大阪からみる大阪城と石垣
ここからの大阪城は絶景だ。
通天閣から見る大阪城は、背後に林立する大阪ビジネスパークの超高層ビルのおかげで、探すのに苦労するほどだ。(写真がなくて残念)
「通り」と「筋」 ~大阪のみち~
大坂の中心街を歩くと、大阪城に向かう(東西)と「通り」で、梅田か難波(南北のみち)の方に向かうと、歌謡曲にも唄われる御堂筋のように、「筋」というみちになっている。
これは旅行者には、なかなか便利である。
しかし、普通、みちには「通り」と名付けられ、「筋」というのは余り聞かないし、まして、現在の大阪のように、メインストリートが「筋」というのは、言葉的には不思議な感じがする。
しかし、江戸時代の大坂を考えると、不思議はないと思う。
交通は船が主流で、坂本龍馬も岩崎弥太郎も、大坂に来るときはもっぱら船で来ていたのだ。
海から船場など大坂城へ向かう東西の導線がメインだった。
日本一低い山・天保山の山頂に、今も二等三角点が在る(昨年6月に現地を確認した)のは往時の賑わいの証しのような気もする。
明治になって、鉄道の発展とともに、大阪は南北がメインストリートになったが、「通り」と「筋」という名称は、ひとつの「日の名残り」かも知れない。
余談ながら、主要線が東西から南北に変わっていくときに、それを見通していろいろ動いた連中もいたのだろうと、ふと思った。