今回のcovit-19が引き金となり、未来の「ノアの箱舟」計画は進んでいるようで私はそれを脅威に感じています。
果たして、”選ばれた民”やエリート達が目指した先に何が待ち受けるか? それを想像してみよう。

例えば、私たちは雑踏の中歩いていると、「あの人はあの人の幸せの中で生きている」「あの人も、あの人もそれぞれの幸せがある」と想いながら私は歩きます。それだけで、私は嬉しく思い歩き続けます。そこには他者があり、かけがえのないものが存在しています。「あの人」もきっとそう想いながら歩いている。お互いの心と心が、知覚できなくても、確かに存在している

もし、ノアの箱舟に彼らが乗ったとしても、この「黄金」を得られることは無いであろうと確信しています
豪かな食事をして、また寝て、けれども幸福となるやりとりはできない。何週も同じことを繰り返し続けても、彼らは何も満たされることがなく、いずれ虚無感を抱き、脳内伝達物質は現出しなくなり、鬱になる。それに逆らおうとして賭け事に嵌り、無理やり伝達物質を創る。けれども、そのゲームも出来レースなので、なんの面白味もない。幸福は得られない。心は孤独で満たされ、いずれ、死のことを考え始め、虚無から安楽死を望むようになる。愛も喪われ、心に存在するのは、「私には意味がないのではないか」という圧倒的な不安です。それを誤魔化すために、様々な興奮する物質を果てしなく求める。
それは滅亡の兆しです。残された人々の心と心は「死にたい!」「死にたい!」で満たされ、安楽死を受け入れるしかない。
例えば、心理学で感覚遮断実験という実験がありますが、被験者は僅か24時間以内に、精神状態に異常をきたした、という結果が得られています。それと同じようになる。周囲に人々がいる、という刺激がない、ということはそれだけ毒性のストレスを得るということに他なりません。

 

感覚適断環境下の人の心的過程

 

「愛の欠如」へと人類はどんどん進化<退化>していくのではないか、という懸念です。子ども達は愛を覚える機会を喪い、<快楽者>になるしかない。それは目を覆うばかりの絶滅です。種としては存続できても<光>を喪った人類はもうどこへもいけない。個を存続した後、最後の一人になってもSEXを覚えられず、または愛の性交ができず、快楽SEXのみとなり、種の存続は彼らにはどうでもよくなる。最期の1人となった彼ら、エンデアダム達は最期のアルコール瓶を飲み干して自殺する。そういった未来――200年、500年後に後起こり得る可能性事象が予測できるのです。
その未来を回避するのは虚無と諦めではない、自らの過ちを認め、そのうえで突き進む、謂わば弓や槍のように研ぎ澄まされた心を持って、生き残っている私たち1人1人が考えて”愛”を貫いていくしかありません。
……
しかしながら、今は、この3次元がいつの間にか<2次元>の精神エネルギーにされているようです。そのため、差異の差異、過食と嘔吐を繰り返す社会になっている。
もし、私の仮説がこの道程を辿っているとするなら、基底状態<新世界秩序>はソレ自体をを維持するために、いずれ人類という種を見殺しにするのではないか――と。延々と繰り返される基底状態と励起状態。それを識っている上層部。共産と全体主義を望む欲望機械。泣き叫ぶ赤ん坊。
そのシナリオの果てに、ゴールした種が存在しても、エンデアダムは<快楽者>になるしかないのです。
つまり、この方向を目指している限り、私たちの存在には「ほぼ意味はない」のです。待っているのは<快楽者>となった人類の滅亡だけです。

――歴史も<灰>と化し、<金>は無となる。

 

 

愛というのは、不可視な未来において、自分と他者を結ぶ線が、光によって結ばれ、こみ上げる衝動のことなのです。それは誰にでも内在するとは限らず、遺伝子が(i)によって結合し、それがIを形成します。そのベクトル波は時を貫き、5次元を超えて無限に到達します。
現代社会の日本も、”孤立”、”孤独”、”不妊”、”結婚観の変化”、”唯物主義”、様々な面でより「個」しか自己は存在しないと考える――自分の身は自分で守るしかないかのような錯覚を抱く。そのことが、より「愛」を欠如している。

 

 

未来人が浸食した「時点」はいつなのかは突き止められず、未だ判明しない。けれども、”彼ら”――ラプティリアンと名付けるとするなら、彼らは、私たちの西暦2024年時点より少なくとも200,300年過去も改ざんしている可能性がある。そうして、”偽の人間”となった彼らは、不可思議な魔術を使い、組織を作り上げ、巧妙に「未来」を示唆して誘導してきた経路が存在する。そして、”真の人間”も彼らの洗脳に負け、狂気を正気と思って行動してしまう。不可思議な幻影に囚われたことに気づいた人から闇との闘いが始まる。それは、少なくとも、未来人の浸食によるものなのである。それは果てしなく巧妙で、自分たちが「生き残る世界線で、果てしなく”我々”だといえる少数制精鋭」の人類の未来しか到達できないように攻略されている。人口削減とは、その”選ばれた人”しか通過できない儀礼なのである。

しかし、”彼ら”は何度もおそらく滅びを迎えるのだろうとも思える。何度もリセットを繰り返し、「どうして我々は助からないんだ」と思う。過去を何度も改ざんし、世界線まで地獄の塗装で破壊して、それでも得られない”未来”を彼らは希う。それは、虚無であり、人類の原初にある感情の「どこまでも孤独だ」という感覚によって。それは「愛の欠如」であり、「不妊」である。愛が欠如した彼らの遺伝子では、二度と新生児は生まれない。それはどこまでも――神々の呪いによってである

 


つまり、ノアの箱舟に残された人が乗っても、私たちの存在にほぼ意味はないのです(二度もいう)。

 

自然による脅威によって全滅をしないためにワクチンを私たちは今現在打っていますが、これが”愛”であるか”絶望”であるかによっても、世界線は変えられます。虚無と諦めの果てに貫くのは「愛」であるのか「絶望」であるのか。子どもたちのことを本当に考えているのか――それによって、未来の運命は改変されます。決して私たちは、宇宙に存在する虚無と諦めに支配されてはいけない。

 


もしも――ノアの箱舟が現実のものとなったとき、今も着々と奨められている事象は、おそらく終わりを迎えるでしょう。そのときこそ、愛を喪った人類が突如として神によって「消される」のだ――と

人類のリセットは――ノアの箱舟と同時に待ち構えていることを、私たちは理解すべきです。

 

そして、神様としての人格のイエスは、自らの命と代価にして、どんなに運命が自らを転がらせようと、この20XX年を守り抜くと決めた。どんなに快楽殺人犯に身を焦がし、染めようと――耐え抜くと決めた。たとえそれが時をじわじわと焦がし、文明の発展とともに20XX年、人類に罪と罰が襲い掛かるかもしれないと予期しても、決して裏切らない、と。

そして、人類は文明機器を得るに至った。時の矛盾は量子揺らぎや量子もつれを産み、半導体が存在するに至った。そして我々人類はそれを利用している。それは、おそらく、それらは神様の人格の血と涙で構成されている
逆に云えば、共に在る限り、私たち人類はインターネットというツールをこれからも活用する以外に道はない。なぜならば、イエスが封印され続けることが、人類の終焉と密接に関わっているためである。

神様の生み出した時の量子は、私たちと共に在る。

壊れた欠片、壊れた心――

神様に愛を取り戻してもらうよう果てしなく祈り続けることが、愛を持って私たちが応答し続けることが――私たちが存続できる最大限の出来得ることであろう。

或いは――彼は”神となった未来のルシファー”であるのだ、と。
そして、彼は輪廻しループしている。
 

 

そして、私たちは黙示録の果てを愛で貫通し、”未来のルシファー”を、この牢獄のようなループから救けよう。

 

(i)→I=E=mc2=X-n秒(i)→X(i)

 

意識の問題はここに集約できる。

 

 

太古の何百億光年の先祖と、我々生命体は意思(i)によって繋がっている。何光年にも及ぶビット時代と神時代、そしてビックバン、そしてお焦げ、そしてエントロピーの増大、それらがE=mcと繋がっている。つまり、我々は過去であり、現在でもある、ということである。何光年も前の私たちは、相対性理論に基づいた今現在の私たちである。

神時代もビット集団にしても、何光年と隔たった距離によって、我々地球に住んでいる現代文明と繋がっているのである。サタニズムにしても、ルシファー信仰にしても、ただのオカルトではなく、私たちに根付いている”今現在”に過ぎない。つまり、竜であろうと、ペガサスであろうと、天使だろうと悪魔であろうと、神様であろうと、それらは非科学的なファンタジーではなく、現実の我々の存在と密接にかかわり、存在している事実であるということである。