ニーチェの云う”超人”にならなければならない事象へとこれから変遷していくであろうことが考えられます。それは子ども、大人、老人全ての人に云えることなのです。
 

「欲望する機械」とは、多様な差異を生みながら常に変化し続ける個人や社会システムのことです。

ドゥルーズはまず、人間の身体や物質、社会システムなど、世の中に存在する物は全て「機械」にすぎないと説明します。そして、それらの機械の間に「欲望」が流れていくような世界観を提示しました。
ドゥルーズの思想を一言で表現するなら、「『これが正解だ』という論理を信じないように生きる」ということです。

 

 


これから、私たちは、創られた世界恐慌によって欲望を刺激され、ナチスドイツのような全体主義、マローン博士のいう厄介な、進化した――または拗れたほぐすのが難しい厄介な”グローバリズム全体主義”へと発展していくと考えられます。その解は、次世代の子どもへ、次々世代へと続いています。
私たちは、変遷の矢印の未知の中ウォータースライドの中を水に流されながら降りていく、そんな世界の起点と中間地点の最中に存在しています。ゴールできるのは、黄金<金>へと到達した、強靭な意思の存在しか生き残れません。
また、精神分析、思想家、哲学者、または倫理学は、”そんなものはなくても人類は科学で生き残れる”といった上層部のお考えによって、近い将来駆逐され、言論を封殺されるでしょう。そして、次世代の子どもたちもいずれ必要としなくなるであろうことが予測できます。確かに、科学の技術は素晴らしく、病気で苦しんでいる子がいれば、いつでも医療に掛かれ、死ぬところを助かる人がいるのは、人類にとって最高の技術であると確信しています。だからこそ、誰もが信じ、しかしながら同時に見落としがある――ということに私たちは気付けない、ということです。
「愛の欠如」へと人類はどんどん進化<退化>していくのではないか、という懸念です。子ども達は愛を覚える機会を喪い、<快楽者>になるしかない。それは目を覆うばかりの絶滅です。種としては存続できても<光>を喪った人類はもうどこへもいけない。個を存続した後、最後の一人になってもSEXを覚えられず、または愛の性交ができず、快楽SEXのみとなり、種の存続は彼らにはどうでもよくなる。最期の1人となった彼ら、エンデアダム達は最期のアルコール瓶を飲み干して自殺する。そういった未来――200年、500年後に後起こり得る可能性事象が予測できるのです。
その未来を回避するのは虚無と諦めではない、自らの過ちを認め、そのうえで突き進む、謂わば弓や槍のように研ぎ澄まされた心を持って、生き残っている私たち1人1人が考えて”愛”を貫いていくしかありません。

 

愛というのは、不可視な未来において、自分と他者を結ぶ線が、光によって結ばれ、こみ上げる衝動のことなのです。それは誰にでも内在するとは限らず、遺伝子が(i)によって結合し、それがIを形成します。そのベクトル波は時を貫き、5次元を超えて無限に到達します。 

現代社会の日本も、”孤立”、”孤独”、”不妊”、”結婚観の変化”、”唯物主義”、様々な面でより「個」しか自己は存在しないと考える――自分の身は自分で守るしかないかのような錯覚を抱く。そのことが、より「愛」を欠如している。

 

 

結果、無限増幅される「罪だ」という問いによって「永久に罪を感じない」人と「永久に罪を感じる」人の二つへと、その問いだけで二分化され、純化され「善」と「悪」という本質的なスティグマ<刻印>を世界への憎悪と共に、人々に打ち付けるのである。際限なく己の罪に罪を感じない人間と、際限なく己の罪に罪を感じる人間。一体誰が、それを望むだろうか。もし、それを望むというのであれば、それは即ち――”邪悪”である、と私はあえて言おう。
もしかしたら私は、それを解消する術を知りつつあるのかもしれない。それをこれからは、少しずつ実践しようと思う。知らない誰かが苦しんでいれば、自らの主体性を抹消し、彼らの主体性をありのまま受け止めよう、と祈る。「罪だ」と問う前にするべき術があるのだと、私は知っている。
本当に、それら行いは「罪」という概念なのですか――と私は問い直そう。
崇高な理想はなく、「罪」という唾棄すべき悪魔は誰もいない。責任も、とりあえず、頭の底から振り払おう。「罪」から生じる「際限ない罪悪感」を、とりあえず棄却しよう。そこから、自己の肯定ははじまるのだ、と数年掛かるかもしれない私の「罪」の問い直し――私はここで、ネットの片隅で、不幸が再生産される「現実」ではなく、「人間」に祈る。

 

 

自然による脅威によって全滅をしないためにワクチンを私たちは今現在打っていますが、これが”愛”であるか”絶望”であるかによっても、世界線は変えられます。虚無と諦めの果てに貫くのは「愛」であるのか「絶望」であるのか。子どもたちのことを本当に考えているのか――それによって、未来の運命は改変されます。決して私たちは、宇宙に存在する虚無と諦めに支配されてはいけない。

 

 

 

 

もし虚無や諦めに取り付かれてしまったとき、私たちは欲望する機械によって<ナチス>を召喚し、信奉し、許容してしまい、ウォータースライドはもう破滅へと向かうしかない。

歴史は繰り返す、とよく云います。基底状態<新世界秩序>から励起状態<ナチス>を波のように繰り返すのが人類です。そして今は、励起状態<ナチス>の状態へと向かっている最中であり、それを通過したのち基底状態<新世界秩序>が私たちを救うという意識の流れなのではないか、またはそういったシナリオが存在するのではないか、と考えています。
私たち人類が望んでいるのは、本質的に「全体主義」であり「共産主義」であるのです。社会主義や資本主義は、人間としての本質から眼を逸らした、または無視した、「世界秩序」でもあるのですが、励起状態と基底状態には粒子としてなんの違いもない、ということです。本質的には、個の(i)は変わらない。泣き叫ぶ赤ん坊の悲しみと、介護されたいという意思の、人類の根源となる欲望が、純粋記憶の中にこびり付くように刻印されます。

赤ん坊は本質的に我儘であり、世界には何もない、ただ空虚と無、何もなく、”死にたくない”という苦悩があります。マザーがぱたぱたとやってくる音がして、赤ん坊はそれを「支配した」と思い、安堵と欲望が充溢したことに満足します。そしていつしか目に見えた3次元に満足します。視界にうつる刺激に満足した赤ん坊は、その後母の聲は要らないと判断し、不必要になったマザーに対しての内的衝動として、「私の真の名を喚ばなかった」という憎悪といった感情へと置換され(i)の原初→現在のDNAの中にそれを組み込みます。「真の名」とは名付けられた名ではなく、刻印された名である、ということです。けれども、刻印された名を呼んでも赤ん坊は泣き叫びます。「私の真の名を云ったな!」と。どちらにしても赤ん坊は完全体として満足し、人の悲しみを超えることができず、<神様>によってその記憶を奪われます。そして、新しい第2の人格が赤ん坊の中に根付き、真の名に対する憎悪(i)を忘れ、はいはいをしてマザーとファザーの愛を理解し、やっと赤ん坊は<サタン>から解放され、新しい人格によって人生を歩むこととなります。

そして、赤ん坊の泣き声こそが、現代の医療という(i)を構築し、持続させているのです。現代社会は、特に赤ん坊の泣き声を許す<グレートマザー>でもあり、科学といった<グレートファザー>でもあります。

 

さて、励起状態と基底状態を説明するのに、1つの図を図示しよう。

 


 

灰色の点が、観察の「個」で、円は「共有感覚」、そこから伸びる線は、フィールドを見渡せる視野がどれだけあるか、というのに対して、遠近を用いて表しています。

 

「共有感覚」というのは「何かを以て、感覚を共有している、同じ情報を持っているはずである」というような「信念」や「確信」です。中心にあればあるほど、その感覚は自明のものとなります。円の外部にあればあるほど、共有する感覚が存在しないという孤独があります。孤独、というのはつまり、他者性を以て「共有感覚」が阻害された強く学習された記憶です。
XY軸平面状には「共有感覚」があり、立体的なXnYn平面状を捉えて見れば「視野」が存在し、「共有感覚」の中央に近ければ近いほどアプリオリな感覚を共有し自明のものとすることができます。また、遠ければ遠いほど、コミュニケートする為に必要となるアプリオリな感覚が薄れていきます。個々の位置はそれぞれリアルタイムに影響しあいながら移動しますが、点の合間が広ければ広いほど、相互に影響しあう可能性は低くなります。XY平面状の「共有感覚」から離れれば離れるほど、相互に影響しあう確立は低くなり、また「共有感覚」に近ければ近いほど相互に影響しあう確立高くなります。
「反撥-受容エネルギー = a」は「異化 - 同化エネルギー = b」の増幅を促します。「異化 - 同化エネルギー」とは、異化を認識し認知する反復される/する経験が多くなるほど、同化しようとするエネルギーは増加し、異化を認識し認知する反復される/する経験が少ないほど同化しようとするエネルギーは減少します。つまり、「異化 - 同化エネルギー」が少ない事で、その場に「共有感覚」を生み出し、また、その「共有感覚」でもって「反撥-受容エネルギー」生み出し、異化を認識する個を生み出します。「反撥-受容エネルギー」が与えられない/受けられない場合、共有感覚を抱く彼岸の”内側”に存在する個にとって、「異化 - 同化エネルギー」は少なくなります。逆にそれによって「反撥-受容エネルギー」を与えられた/受けた場合、”外側”に布置され、「異化 - 同化エネルギー」は多くなっていきます。「異化 - 同化エネルギー」と「反撥 - 受容エネルギー」は等値(aが1を生じればbも1を生じると仮定する)です。
「適応」するという「魂の苦痛」を生じながらも、「異化 - 同化エネルギー」を「反撥-受容エネルギー」から創出し続けることによって、自らに最適な適応条件を整えようとする。個は、その苦痛を止めるために下層へ再び降りたり、上層へ上がろうと足掻いたりします。その時に必要となる「反撥-受容エネルギー」が外部から与えられなければ、再びXY軸平面へ自然と降りていきます。また、更に「反撥-受容エネルギー」が外部から与えられれば、「共有感覚」の外部へと「反撥-受容エネルギー」によってはじき出され、そのはじき出された力により上層へと反撥する力が発生し、酸素の毒から逃れるようにして、フィールドから上層の漠然とした海の中に飛び込もうとします。

 


励起状態と基底状態の精神エネルギー値を、2次元から3次元に置換したのが上図です。XYが基底状態であり、XnYnが励起状態と考えてください。XnとYnは視野の高さを示しています。共有感覚とは「心と心が繋がっている確信」のようなものだと捉えてください。高ければ高いほど共振と共感性が高い、また中央値から離れるとより”個”となる。また、XnYnは分析であり、観察であり、物理のエネルギーです。これを3次元に変換すると、この基底状態が安定し、<NWO>でも<ナチス>でもない安定的なエネルギーとなります。要するに、人類の進化をシフトしていく<P>がXnYnであり、XYに近ければ近いほど農業や衣食住をまかなう<P>となります。しかしながら、今は、この3次元がいつの間にか<2次元>の精神エネルギーにされているようです。そのため、差異の差異、過食と嘔吐を繰り返す社会になっている。
もし、私の仮説がこの道程を辿っているとするなら、基底状態<新世界秩序>はソレ自体をを維持するために、いずれ人類という種を見殺しにするのではないか――と。延々と繰り返される基底状態と励起状態。それを識っている上層部。共産と全体主義を望む欲望機械。泣き叫ぶ赤ん坊。
そのシナリオの果てに、ゴールした種が存在しても、エンデアダムは<快楽者>になるしかないのです。
つまり、この方向を目指している限り、私たちの存在には「ほぼ意味はない」のです。待っているのは<快楽者>となった人類の滅亡だけです。

――歴史も<灰>と化し、<金>は無となる。

それを回避するには、他の代案をこっそりと模索するしかない。または新しい発明や発想を受け入れて、シナリオのプランを接ぎ木のように繋げて、<心>を確かに所有し、人類に愛を届けていくしかない。そのためには、これから人類を背負う医療従事者<ドクター>が、超人の精神状態を目指す以外にありません。

 

もしそういった世界が到来するならば――その世界線を説明するとするなら、これから、パラノイア、発達障害、ASDの世界がやってきて、いずれはAIによる<介護>の時代がやってくるでしょう。その時先頭に経つのは医療従事者<ドクター>であり、彼らが人類の保護者となり、薬剤を処方し、秩序を構築するであろうことが考えられます。そして”超人”として、”力への意志”が必要になるであろうことも。

 

お医者様がこれから待つ困難は”超人”の領域に入っていくと思われます。もしくは”超人”でなくては耐えられない事象へと向かう。

 

 


そのためには、哲学や精神分析といった「知」がどうしても必要不可欠であることを示唆でき、また、科学がいつか哲学や精神分析を否定するときが来るとするのならば、宇宙の不安や虚無、諦め、愛の欠如がなくなるわけではない人類という種の魂の叫びに過ぎないことを――全ての「心」から「心」は繋がっていることを、私たちは忘れてはならないのです。

その個の苦悩こそが、血を滾らせ、命を巡り、”生の充溢”を歩むのであると。
 

現代の資本主義社会では、発達障害が増えている現在、もう限界を迎えている気がします。
マルクスの考えはあらかじめ「人間は働くのが好きであり、そしてそれが自己肯定感であり、充溢しており、健康である」ことがまず大前提で語られているからです。その思想とは逆に、発達障碍者は、この「人間は働くのが好きであり、そしてそれが自己肯定感であり、充溢しており、健康である」社会では、「人間は働くのが辛く、それが自己肯定感を阻害し何かが常に欠損しており、健康ではない」ということが、発達障碍、今現代を読み解くと、それら事実が誤謬として浮き上がり見えてくるのです。
しかし、発達障害の方はこの「生の志向性」が「人間は働くのが辛く、それが自己肯定感を阻害し何かが常に欠損しており、健康ではない」により欠けている――ととらえられるのです。
資本主義の幻想が破壊されたとき、まず、中級層(高齢者層を含む)が犯罪のターゲットとして狙われるでしょう。それは発達障害によるものでもあるし、また非行によるものでもある可能性があります。そのことで治安が急激に低下。平時で働くことの意義を振り返り、新しい概念による生き方を提示。それは「少しのお金で寄り添い合う」概念にシフト。経済をできる限り回さない方策に転換。物品の調達や食料は徐々に海外企業に任せ、安価な輸入品ばかりになるでしょう。日本産は珍しくなり日本産の物品の価値が高騰化。日本の文化や伝統の喪失。こういったことが、おそらく、云えるのです。

その原因は、発達障碍者の「働くことができない」、「生の志向の不分泌」といった事実に基づくのです。
私たちは、「私たちは健全で健康である」という、誤った信念をもう一度振り返る必要性に今問われているのです。

 

 

根本的なものへの〈問い〉と〈答え〉とのかかわりの本質を問うことから、生の意味を問う〈問い〉について検証するところまで議論を進めた本論の意味は、上述のごとく、生のあり方を自覚的に根本から変容させるための階梯の存否に関する検証を待ってはじめて確定される。つまり、〈問い─答え〉の変容、生のあり方の変容、あるいは、〈人格〉の変容、これらは同一の事態を指しているのであるが、これらが如何なる段階を経ながら、如何なる仕方で実現されるのか、あるいはされてきたのかを検証し、なんらかの形で証示することが、小論において試みた〈問い〉の次の課題ということになるだろう。人間が自らの生きる様々な環境のなかでその人間となることは、説明や解釈を待つことない事実であるが、自覚的にそのあり方を根本から変えていくことは、今日の教育システムから完全に排除されている。そこには近現代の思想史の偶然が大きく影響しており、これは到底当然の状況とは言えない。しかしながら、このような状況は皮肉にも〈必然的〉に深刻なニヒリズムを招いている。今日、まさに人間が試されており、近代哲学が考えたのとは別様の知の必然性が検証されねばならない。