インターステラーを2回観ました。何度見ても、親子の愛に感動して涙が出ます。

 

 

今、まさに絶望の危機に私たちは立っているのと同義です。自然の脅威による緩慢な死によって、宇宙に旅立つ計画を立てるしかない人類、それは今の”夢”ですが、この作品では”絶望”を描いています。いずれ、マン博士のように裏切りによってさらなる絶望へと進むしかない人類――という必然ともいえる選択を振り切り、クーパーは”愛”によって試練を成し遂げます。

 

マン博士はいわば、人類が”できる限りのことをしても成し遂げられない絶望”であり、8割の人が”真実を知らされた時”抱く当然の感情なのですよね。だから、マン博士を誰もきっと責められない。しかしながら、自分だけ逃げて、その後に、「人類のため」といいながら、人工的に子どもを作ったところで、彼らは”愛”をきっと覚えることはできない、と私は思います。

 

そして、クーパーが、テッサラクトに誘われる直前に、自らの命と引き換えに、犠牲を払ってまでガルガンチュアの中に独り飛び込むとき、思い浮かんだのは、地球に取り残された子どもたち、またはその子ども、そして孫への無限に存在する”愛”でした。

 

自然による脅威によって全滅をしないためにワクチンを私たちは今現在打っていますが、これが”愛”であるか”絶望”であるかによっても、世界線は変えられます。虚無と諦めの果てに貫くのは「愛」であるのか「絶望」であるのか。子どもたちのことを本当に考えているのか――それによって、未来の運命は改変されます。決して私たちは、宇宙に存在する虚無と諦めに支配されてはいけない。

 

つまり、猫が「死んでいる」か「生きている」かといった問題は、猫の自力での努力によって運命を回避する、といった方法しか成り立ちません。世界線といった概念がありますが、これも「猫」当人が観測者を更に観測する、メタ観測者といった対置、対比によって変化します。つまり、「猫」当人が世界線を変更する鍵である、といった結論になるのです。この時、「猫」は自分自身で世界線が変動する感覚を感じ、自分の力次第で運命や世界線が変動するその様を感じられるのかもしれません。つまり、観測者はメタ観測者を超えられないこととなり、観測者が観測するたび、メタ観測者はその対比によって存在(あ)りつづけることになります。


また、「死んでいる」か「生きている」の2者選択しかないと思われる場合、「猫」は「死んだふり」をしているとも思えます。つまり、「猫」は外界の観測者が「引き金をひかない」ことを予測していた、もしくは観測者自身が逆に死んでいた、とも思えるわけです。つまり、猫は、観測者が「引き金をひけない」ことにより、「死」も「生」も同時に自分で決めていることになり、このことから、「猫」が「引き金」を引く、ということにもなりえます。そこでは、観測者が「二重スリット」であり、「猫」こそが「引き金」だったのだとも云えるのではないでしょうか。つまり、「猫が観測者を操った」という結論になります。

もしかしたら、これが 縁寿のいう「黄金の言葉」の原点なのかもしれません。

 

また、私たち読者が「1986年の10月に六軒島の18人は死亡している」などといいながら密室トリックを暴いたり、「事実」を突き詰めたりしたとき、戦人やベアトリーチェの世界は崩壊するのです。それを描いたのがep8なのでしょう。

けれども、知的好奇心と知的強姦者という名前でいうエリカのような気持ちが私にないわけではありません。真実を知りたいという気持ちもあります。そして他のブログなどを拝見して、ある程度の事実に限りなく近い答えを見たい好奇心を抑えられません。けれども、私たちは戦人とベアトリーチェの「生きている」世界で「平和」な世界を守らなければなりません。その場合、私たちは密室トリックを暴くのではなく、逆転して「守らなければならない」のかもしれません。

私は、この作品の中で生きる魔法の世界を守りたい。その思いが「黄金の言葉」なのだと思います。

 

 

ロシアとウクライナの戦争が始まったときは、絶望の世界の始まりでした。これから”愛”がなくなれば、もっと被害が増える。人間が”消える”ことも不可思議ではない事象へと変遷しています。

その時、最後の意思が、世界を貫く”愛”なのだと私は思います。