木下英範のブログ -29ページ目

海外面白CM

語録

肉体と精神は二つの異なるものではない。同じことを二つの異なる形で知覚するというだけのことだ。
同様に、物理学と心理学も、我々の体験を系統的な思考によって結合させようとする二つの異なる試みに過ぎない。
(アルバート・アインシュタイン)

クリック探索ゲーム - StoneAge Sam

仲のいい鹿とウサギの映像

「省エネ」「エコ」なんのためにやるのか

間違ってはならない。
「省エネ」とはエネルギーを使わないことではなく、「効率を上げる」ということである。「エコ」とは、我慢するということではなく、「循環させる」ということである。我々は資源の有効利用と文化的発展の両方を成し遂げなければならない。そうしなければ成功しないだろう。


また、地球のあらゆる生物よりも、人間が一番大事であること。こう言うと人間のエゴのようであるが、人類が滅びてまでも護るべきものがあるだろうか。人類の永遠を願うからこそ、地球環境が大事なのである。

ともすれば環境保全が目的になってしまいがちであるが、それでは本末転倒である。手段が一人歩きしてしまっては、方向を間違えたり、良かれと思ってやったことが裏目に出たりしてしまう。なんのためにやっているのか。これを常に意識しなければいけない。


まず、第一の目標は「人類の発展」。それは環境の持続性を必要とするものであるから、「環境保全」が超重要。という順番で考えなくてはならない。これを満たす施策だけがうまくいくと思う。

自然と共存するということ - 人類の抱える矛盾と向き合う

自然とはなんだろう。
Wikipediaによると以下の定義がある。
1. 人為が加わっていない、あるがままの状態、現象、およびそれによる生成物
2. 1の意味より、山、川、海など
3. 1の意味より、人間を除く自然物および生物全般
4. 1の意味より、ヒトも含めた[1]天地・宇宙の万物
5. 意識(意図)しない行動


公園に行くと自然があるという。それは完璧に管理された自然だ。郊外に行くと自然が豊かだという。そこの森では、木々が良く生い茂るように間伐をし、キクイムシを防ぐ手段を講じている。これもまた人間によって管理された森である。


日本において、管理されていない森はどのくらいあるだろう。自然の定義を
「人為が加わっていない、あるがままの状態、現象、およびそれによる生成物」
とするならば、人々が自然だと思っているものはもしかしたらほとんどが偽の自然なのかもしれない。


自然にとって、人類の存在はどういうものだろう。もし自然に意思があったとしたら、人類をどう思うだろう。邪魔な存在だと思うのだろうか。毒だと思うのだろうか。それとも、役に立つ存在だと思うだろうか。もし、人類が地球上からいなくなったら彼らは喜ぶだろうか、悲しむだろうか。


少なくとも人類の側は自然を必要としている。必要としているということは、人類が存在する以上、必ず自然に影響を及ぼし続けるということだ。


人間の活動は、木を切ったり、石油を燃やしたり、化学物質を作り出したりして営まれている。なんらかの影響を及ぼす以上、自然をそのままにとどめるには、反対方向から力を加えざるを得ない。なんらかの悪影響を与えた場合には、それを除去する施策を施さなければ悪い方向に傾き続けてしまう。


よく管理された森林は、健康的であり良く生い茂るという。しかしこの場合の「健康」とは人間が考えた一方的な「健康」だ。


綺麗に手入れをされた公園は気持ちがいい。だから毎日清掃員が落ち葉を掃除している。しかし落ち葉を虫やダニが食べて堆肥になることも事実である。本当の自然は落ち葉や倒木を完全に土に還す能力を持っている。落ち葉の布団をもぎ取られた木にとっては迷惑なことだろう。


しかし、多くの人は生い茂るままの自然の中で暮らしていくことに我慢はならない。落ち葉は掃除したいし、雑草は除去したいし、家の中に虫が入ってくることを許さない。多くの人は自分たちで手入れをしたレプリカの自然を愛する。これからも人類は管理された自然と共存していくだろうし、私もそれを望む。あるがままの自然は受け入れがたいと思う反面、あるがままの自然を残そうとする。なぜなのだろうか。いつでも人類はこの葛藤と戦ってきたように思う。


だが翻ってみると、自然界のあらゆる動植物は「自然を護ろう」なんてことはこれっぽっちも考えていない。たまたま自然の食物連鎖の中でうまいこと均衡しているだけである。すきあらば自種の勢力を広めようと、自然を破壊することに容赦はしないであろう。人類もその中のひとつであったのだが、人類は知能という最強の武器を手に入れたことにより、自分たちの力を自分たちで管理していないと暴走してしまうところまで来た。


地球上ではあらゆる生物が自分の種を広めようと、それぞれの武器を持って切磋琢磨している。人類の選択した、知能という武器はたしかに最強だ。しかし生存競争において本当に最強なのだろうか。やがて、自分たちの首を絞めることになりはしないだろうか。そのとき、細菌やウィルス、その他の小動物や植物に比して、人類の選択は失敗だったということになる。


だからといって賢くなるということに対して、自らを抑制することは人類にはできない。人類はこれからも知識を蓄積し、賢くなっていくだろう。その先に、知の勝利があるのか、知の暴走による滅亡があるのか。広い宇宙を見回しても知的生命体の存在は今のところ確認されていない。カール・セーガン博士が言ったように、知的生命体は宇宙に進出するまで生き延びることはできないのだろうか。人類最期の時があるとしたら、そのほかの生物も巻き込んで華々しく散るのだろうか。それともフェードアウトしていくのだろうか。その後に残った細菌は、消えていった人類を振り返ってなんと言うだろう。


自然と共存するというのは、人類にとって絶対必要なことだし、同時に絶対的矛盾を含んでいる。だから我々はこれからも自然を加工し、破壊し、修復し、なんとか共存しようと七転八倒していくだろう。完璧な答えは無い。しかしベストを尽くすことはできる。知の勝利を信じるしかない。


環境サミット伝説のスピーチ - 1992年6月 リオ・デ・ジャネイロ

環境サミットに集まった首脳陣を前に堂々と語る、セヴァン・スズキ。若干12歳である。



語録

常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。
(アルバート・アインシュタイン)

カメラガン

カメラガンで瞬間をハックする。

Coolである。


http://wiredvision.jp/news/200807/2008070123.html

骨から系