要望すれば毎年補助金が増えていく時代は終わり、大幅な削減もあるかもしれないという中で、広域連携や合併が検討される時代になりました。

25年前のことです。

手をこまねいていて、合併するしかない商工会にしてはいけない。

 

 

単独でも行けるが合併も良いかもしれない、どちらを選ぶかは小規模事業者や地域が自ら考えるべきだ、ならば、まずは合併しないでもやっていける強い商工会にしなければいけない。

そのためには補助金に頼らない財政的に強い商工会にしようと考えました。

 

従来からの収益事業である「商工貯蓄共済」「役員福祉共済」「記帳機械化」の推進はもちろんですが、独自の収益事業が必要だと考えていて、最初に形になったのが「宮田ビジネス学院」です。

平成12年12月だったと思います。中小企業庁から社長向けのIT事業の通知がFAXで届きました。パソコンなどの機材の購入などに6割補助をする、2月末までに講習会を1回やらないといけないという内容でした。年度の終わり近くになってこんなこと言われてもね、6割補助はうれしいけど4割の自己負担をどうするか考えないといけないから無理だよと考え、回覧に回しました。

いや、待てよ、なんか書いてあったぞと思い、通知を読み直したところ、「補助事業を実施するとき以外は、購入した機材を何に使ってもよい」の一文がありました。

 

これだと思いました。

商工会に入職したころに感じた疑問、商工会館の二階の大広間が使われずに年間わずかの事業の為に空けてある無駄を解消して収益事業にできるのではないか。

社長向けの補助事業はもちろんやるけど、対象者を会員企業の従業員に広げ、村の住民に広げ、さらには隣接する伊那市、駒ヶ根市などに広げていけばどうか。

 

すぐに事務局長に話し「会長に相談してみろ」との言葉を得、その日のうちに会長に面談し了解を取りました。その日の夜は補正予算を作成。

その後の理事会では「年度末近くに自己負担の予算はとれるのか」との意見が出ましたが、補正予算を作ってありますから、すんなりと決定したわけです。

 

 

平成13年9月の理事会に大量の提案資料を理事会に出したのですが、

 

この中に「商工会株式会社構想」というものがありました。

 

 

この資料で訴えたことは、民間の考え方で商工会を運営しようよということです。

 

 

商工会の会議の中で、

 

「事業計画に書いてあるからやらなければ・・・」

 

「予算を使い切らないと来年付かなくなるから使わないと・・・」

 

「こんな事業をやったらいいと思うけど、計画にも予算もないからできない・・・」

 

たびたび、こんな発言がされました。

 

 

私は理事会で、「商工会株式会社構想」という資料を配って、

 

「効果がないと思う事業は年度途中でもやめたらいい」

 

「予算を無理に使うべきではない」

 

「必要な事業は補正予算を組んですぐにやりましょう」

 

「役員さん方は会社の経営者です。ご自分の会社で、事業計画にあるから必要ないけどやらなきゃとか、予算を消化しなければとか、年度当初の計画にないからできないとか言っているでしょうか」

 

と言ったのです。

 

 

役員さん方の反応は以下のようなものでした。

 

「よく言った。その通りだ」

 

「自分の会社ではない、商工会だからという遠慮があったが、前から疑問に思っていた」

 

「職員からこんな話が出てきたのはとてもよいことだ」

 

 

商工会は、法制化されて補助金をもらうようになってから、

 

行政の仕事のやり方を真似るようになりましたが、どうなんでしょう。

 

補助事業は簡単に「や~~めた」というわけにはいきませんが、

 

一般事業は、フレキシブルに考えるべきだと思います。

 

 

実は、私は商工会が会社を作ることを考えていました。

 

しかし、まだ、この理事会では胸に秘めていました。

 

画像は、宮田村の「こもれ陽の途」

 この記事は、2009年9月26日に以前のブログに書いたものです。

 

 

 昭和30年代にできた商工会法によって法制化され、特別法による認可法人になりました。このことから、商工会は国が作ったのだと思っている人もいるのかもしれません。
 しかし、それは間違いです。早いところは明治時代に商工会が組織されていますし、我が宮田村でも大正時代に商工会が活動していたと、村の歴史書「村誌」に書かれています。
 その村誌には、それまであった業種組合などが一緒になって設立されたとあります。その当時、設立について行政が関与したかどうかについて私は知りませんが、村誌によると、商工会の活動があって、その後、村が補助金をつけたとありますから、設立とその後の活動は商工業者による自主的なものであったと推測されます。

 昭和30年代の法制化と多額の補助金が交付されるようになったことは、地域の小規模事業者と商工会にとって、とても有り難いことで、これによって商工会の組織は安定し日本中の小規模事業者が一定水準以上の支援を公平に受けることができたのです。
 しかし、法制化前の商工会と後の商工会は別のものではありません。商工会を作ったのは地域の小規模事業者であり、自らの意思で作ったのです。
 このことを、改めて確認したいと思います。

 

 画像は伊那谷から中央アルプスを望む風景

商工会という業界に入ったのは、私が29歳の時で昭和59年2月です。

統一経営指導員試験に合格して長野県の下伊那商工連に補助員として配属されました。新任まもなく、下伊那郡のとある商工会の講演会のお手伝いに行きました。100人近く集まる大きな事業で机を並べたり受付に立ったりしたのですが、驚いたのは二階大広間の広さです。公民館のようにステージがあって緞帳が付いています。

 

 

「すごいですね~」と言うと、先輩が「たいていの商工会にはこんな商工会館があるよ」と言うので、「へ~~~」ってなりました。

 

「この大広間は何に使うんですか?」と聞くと、「今日のような大きな講演会、年1回の総会、従業員表彰式・・・」などと10個くらいあげました。

「えっ、それだけ。365日のうち10日使って、あとの355日は?他の日は使わないんですか?」「総会のような大事な事業で使えなかったら困るから空けておくんだよ」

「へえ~~~」

という会話でした。

 

空けておくなんてもったいないよ。何かに使えるんじゃないか。と考え続けて17年。

平成13年2月の宮田ビジネス学院開校につながります。

当時、補助金が削減されるかもしれないと言われていました。

そうすると、事業は縮小、職員数も縮小になり、単独の商工会では活動できなくなるかもしれません。

活動全体が小さくなって魅力のない商工会にもなってしまいます。

 

 

そうならないためには、独自の財源をもって補助金に頼らない商工会にしていかないといけません。商工貯蓄共済、役員共済、記帳機械化など、全国の商工会組織を挙げての収益事業はありましたが、これだけでは足りません。独自の収益事業を起こす必要がありました。

 

その後、立ち上げ実施した事業の主なものは、パソコン教室や公共職業訓練を実施した「宮田ビジネス学院」、旅行業「みやだ旅サロン」、弥生会計を使った独自の記帳機械化事業、アクサ生命を入れた生命保険事業、簡易ホームページ作成事業「わいわいクラブ」などです。