収益事業を原資にして、この引当金を創設しました。

 

平成15年頃だったでしょうか。だんだん増やして、私が退職する平成22年には300万円か400万円くらいあったと思います。

最初に理事会に提案したときの名称は「危機管理引当金」でした。当時の会長から、こんな後ろ向きな名前は良くないと標記の名称に代えられましたが目的は危機管理です。

 

県連のある方から「危機管理というけどたとえばどんな危機だ」と言われて、私は「会長がゲリラに拉致されて身代金を要求されたとか」と答えました。「そんなことがあるわけないじゃないか」と言われましたが、そりゃあそうです。冗談です。当時、企業のTOPが南米のゲリラに誘拐された事件があったからそう答えたのです。しかし、100年に一度起きるかどうか分からないことだから危機だし、何が起きてもすぐに何かしらの行動を起こすためのお金なのです。

 

実際考えていたことは突然の大幅な補助金削減です。これが起きると、これまで実施してきた事業ができなくなり、職員にはまともに給料が払えなくなるかもしれません。商工会は開店休業です。

そこで、1年間は引当金を取り崩してこれまで通りの活動をするのです。そしてその1年間の猶予の中で対策を考え実行すれば会員や地域に迷惑を掛けずに事業を続けられます。

 

でも、それほどの大きな補助金削減はなかったようです。

しかし、コロナ禍が起きましたね。

全国商工会連合会の「18のアクションプラン」に危機感を覚えて、会長との話し合いを毎週行うようになり、理事会にも商工会改革の議題を毎月出すようになりました。

宮田村商工会自らどうあるべきかを考え、行動していくために独自の改革プランをつくることを決めました。

 

 

「18のアクションプラン」の中の15か16番目くらいに商工会の合併・広域連携の項目があったと記憶しています。まあまあ後ろの方だったのですが、それでも、このまま指示を待っていたら合併するしかない商工会になってしまうと思いました。

さらに懸念がありました。

長野県商工会連合会の「商工会4大改革」です。全国連のプランは平成12年2月、県連のプランは同年4月から6月くらいの時期だったと思いますが、項目だけの骨子が発表になりました。

今度は4項目の一つに「合併・広域連携」があったのです。4つのうちの1つです。今は項目だけだが詳細が発表になった後に宮田のプランを作ると、「長野県下全商工会で統一してこの方針で動こうとしているのに、何を勝手な方針を出しているのか」となります。どうしても先に発表する必要がありました。

 

県連の詳細版は平成13年4月だろうと見当をつけて、その前の3月に製本版の配布、もう1か月前の2月には全会員や村当局に暫定版の配布をしたのです。

宮田村は一度、昭和29年に駒ヶ根市と合併して駒ヶ根市になっています。

このことを議会が承認したのですが、村の人たちとの十分なコンセンサスが取れていなかったのか、

怒った村人たちがむしろ旗を立てて大行進をし駒ヶ根市役所を包囲したといいます。

そして昭和31年に駒ヶ根市から分村して宮田村に戻ったのです。

私は、この話を会員さんたちから何度も聞いていましたし、宮田村史を読んで勉強もしていました。

 

 

村の合併と商工会の合併は別のものですが、おそらく商工会員の多くが商工会の合併に反対するだろうと思いました。

ならば、合併するしかない商工会にしてはいけないと考えたのです。独立してやっていける強い商工会を作ったうえで、合併の是非を問うべきなのです。

 

私は収益事業を意識的にPRしましたが、そればかりやったのではありません。

事業の拡大、職員数の増加、村人や周辺への広報などでも随分思い切ったことをやりましたので、だんだん紹介していきたいと思います。

前回の記事で、この「宮田村商工会5つの改革プラン」について書くつもりでしたが、

 

内容が合っていませんね。

 

改革を志した平成12年より前の取り組みから書き出して、

 

下書きの途中段階で間違えてアップしてしまったのです。

 

 

平成10年に先輩指導員が退職されたことで、

 

それまで抑えられていて通らなかった意見が通るようになり、

 

事業や運営について思い切ったことも始めていました。

 

しかし、平成12年全国連の「18のアクションプラン」を読んで、

 

本当に商工会が変わっていくことを実感しました。

 

 

これからどんな商工会にしていくのか、何をしたらよいのか、

 

行政や上部団体の指示を待って、盲目的に従っていくことでよいのだろうか。

 

いや、どういう商工会であるべきかについて、自ら考え行動すべきではないかと

 

考えました。

 

 

そして、個別の事業や運営方法の前に、

 

役職員が同じ方向を向いて改革を進めるためには、

 

その指針が必要ということで、プランの作成を始めたのです。

 

 

執筆は私がしましたが、内容は皆で考えなければいけません。

 

役員や職員にアンケートを取り、各委員会などでもさまざまな意見を聞き、

 

これらを取り入れて作成したのです。

前回の記事で収益事業のことを書きました。

パソコン教室事業(宮田ビジネス学院)、旅行業事業(みやだ旅サロン)のような、全国初の先進的な事業を盛んにPRしたのですが、収益事業ばかりやっていたのではありませんし、平成12年からいきなり始めたのでもありません。

 

 

スタートは平成10年でした。中心になっていた先輩指導員が退職されて、補充されたのが私よりずっと若い方だったこと、上司の事務局長が何度も交代されていたことなどから、私の意見が通りやすくなったのです。

それまでは意見を出しても通らなかったので、やる気をなくして夜はパチンコ三昧だったのですが、「よお~~し」てなもんで、これまで考えていてできなかったことを次々実行に移しました。

 

一つは、毎年5月下旬に開催していた総会を4月半ばに開いて、新年度すぐに新規事業に取り組めるようにしたこと、総会資料も、それまでは30ページ弱だったものを100ページ以上にしてアピールしたこと、商工会報を作ってFAXで全会員に送ることもこの頃始めました。

財政に関しては、商工会費の大幅増額、研修会の有料化、記帳機械化や決算指導の値上げなども提案しました。しかし、これら値上げは通りませんでしたね。