昨晩は深夜からジーコジャパンの対ウクライナ戦をみるためにテレビをセットした。

いつもはテレビの無い部屋なのだけど、サッカーの時は棚の上に保存してある、14インチで蛍光ピンクと蛍光グリーンのツートンにペインティングされてしまった悲惨なテレビを引きずりおろし、アンテナを接続して見たりする。

雨の試合を見るのは、なんか辛いねぇ。
こちともしんどくなる。

最後終了1分前のPKでフェイントのキックにやられたときは、かなり脱力したけど、ロスタイムでの大久保の登場はなんかかっこよかったす。


サッカー終わってからは、久しぶりのテレビが珍しく、チャンネルをバシバシ変えて見た。相変わらずだね。お笑いは面白いし。やっぱ根っからのお笑い好きにはテレビはほんとドラッグだわ。
NHK教育のグッチ祐三の人形と絡むなんとかいうやつも、かなりおもろかった!これいつもいつもほんとクオリティ高いなぁ。エンターテイナーとはこういう人のことを言うんだね。

ほんとテレビ番組って面白いのがあると思うわ。ネットコンテンツやっててテレビ番組にはいつもかなわないって思うことが多いし。ま、全然違うもんだけど、歴史を重ねている分だけ、コンテンツ製作に職人を感じます。(サリエリっぽく!)



でもね、ほんと「無くてもいい」もんなんだよね。



おっともう4時だよ。
この時間泥棒は、また棚の上にしまいます。おやすみなさい・・・
今日は渋谷でパーマカルチャーのセミナーに行って、終わってから歩いて帰りました。
どこか適当なところでタクシー拾えばとか考えるのですが、渋谷から新宿御苑までの距離はある程度まで歩いてしまうと、タクシーに乗とうとする発想が萎えることに気付きました。
外苑西通りまで出てしまうともう一本なのでタクシーに乗っても「すぐそこ」になってしまうからです。
でも「パーマカルチャーな人がタクシーなんて乗っちゃダメ!」と言われたので、そうなんかなぁとか思いながら歩いてました。
ある程度のところまでは表参道とかを経由するため、結構飽きないのです。

iPodに仕込んだGOAMIXをヘッドホンの音が割れるすれすれのところまで音量をあげて踊りながら!?帰りました。

すこし肌寒いけど、歩いていれば適温になりとてもキモチイイ
ほどほどの疲労感がキモチイイ



なんかいろんなこと考える。

ひとつひらめいて帰った。

宇宙っぽい。

世の中、宇宙っぽい。
今朝 朝ご飯を買いにでかけた。
早朝5時くらいだったので、どこもやってないのでファミリーマートに行った。

そうすると、カツ丼と天丼がセットになった弁当が売っていた。
一度で2度おいしい、って感じだけど、
一度で2倍のジャンキーさ加減に、世も末か・・・



買ってしまった。



食べた。



おえー >_<;



朝からやっぱ強烈だわ、カツ丼&天丼弁当は・・・


カツはねとねと
てんぷらはぎとぎと
ごはんはかさかさ
で、なぜかサイドにやきそば・・・


最近そういいもの食ってないんだけど、
久しぶりにひどく後悔した食事でした。
今日は新宿は大久保の韓国料理店に行きました。
オンリーワンクルーという秘密結社!?の面面とともにシモネタを聞く会のような集まりでした(笑)

大久保通り沿いにあるハンナムというお店だったけど、
中ジョッキのビールが200円でとても安かったです。

いつもそうなんだけど、深夜またもや大久保から歩いて帰った。
45分くらいかな。
最近散歩ずいてます。
今日はお昼に一瞬晴れた。
昼飯どきに外出していたので、一気に暑くなった事務所への帰り、そのまま新宿御苑に行ってみた。

とにかく寒くなってくると公園どころではなくなるので、こういう暖かいチャンスには御苑に行ってまったりしたくなる。

ちょっとばかり仕事がたまっていたのだけど、プライオリティは御苑に軍配があがってしまったわけです。
昨日雨が降ったせいか、木々や草草はどこか元気があり、秋の雰囲気はまだまだというところ。芝生も緑で元気あり。まぁ、風が少し秋っぽい。太陽が雲に隠れると一気に涼しくなるから。

歩いていると、なぜか妙に小さい花々に気を引かれてた。
細く長い茎に、先端に小さい花。まるで花々が浮いているようでその立体感覚な風景はとてもサイケデリシャス。そんなところが秋っぽいのかもしれない。

自分のなかで今ひとり→「祭り談議」に浮かれていて、その感覚とフィルターで物事を観察している最中、このまったりした御苑も祭りの一部であったことの再認識がとても面白く、この公園のまったり感的虚像を認識しながら楽しめるようになった。



そのまま、モンゴルゲルの本を探しに四谷図書館に。
なるほどゲルの構造はなんとなく把握したぞ。安く手に入るよというモンゴルの知人からのお知らせにあわてて実際にお勉強してみたのです。どこまでを購入してどこまでを自分で作るのか、その切り分けを考えたかったのです。

自分なりには床の構造を若干高床式にして工夫したいと思いました。
薪ストーブを置いて、壁は一周タペストリーで飾りたい。太陽光を入れるにはどうすればいいのか・・・いろいろ本棚の前に座り込んで考えていたのでした。

足、超しびれた~
マインドリゾート~ロハスの窓口~で展開しようとしている、ロハスに移行するということはどういうことだ。

ロハスとかロハスグッズ、そしてパーマカルチャーや自然生活、田舎暮らしと様々な情報がたくさんある。そしてテクニックや知恵は、いたるところで紹介され、ワークショップが行われ、それにアンテナを張っている人は、本当に恵まれてる~とか感じることも多くないだろうか。
そこにいくと、同じ価値観を持った人と出会うこともできるし、目から鱗の知恵を教わることもできる。

しかし実際、本格的に取り組ん自らパラダイスを作り出そうとすると、都会生活者ほどこれまた意外と敷居の高い話なのだ。
いざ、日常生活に帰ってきてみると、経済的な問題とか、家族との同意であるとか、将来の不安だとか、様々な障害がのりかかってくる。


「今」とその「ロハスな将来」の間に介在するこの障壁とは何か?


それはきっと、ココロの問題なのです。
って片付けられても困るので、実務的な行動も含めて、ではどのようにその障壁を乗り越えるのかということは、百姓な知恵やパーマカルチャーを学ぶと同時進行で進めないと、せっかくの素晴らしい将来が、現実逃避だけのものになってしまいます。

自分的には、いくつかの条件や経験しておいたほうがいいようなものを知っているつもりです。それらを踏まえて今の生活を送っているからです。


今の生活の危機感よりも、
もっと楽しくエキサイティングなものを見つける。

逃げるのではなく、捨てる。

一瞬で変わる。

放出する。

お金の計算方法を変える。

探さないで準備する。

絵を描く。



コトはおそらく一気に進む
今日は、大阪のまだま村のご子息夫妻と飲んだ。ずっと東京で働いてきたけど、こんど大阪に帰ってまだま村を拠点に何かをはじめるそうだ。

もう一人の大阪出身の友人も呼んで引き合わせておいた。
彼女も大阪に帰るらしい。帰ったら一緒になにかしましょうってことになっていた。

まったりやっておくれ。

そんなこんなで少し飲み足りない気分もあったけど、さよならまたねをしたあと、どうも帰ろうにも元気になってしまい、、しかし一人で飲みに行くイキツケもない渋谷では寂しいので歩いて帰ることにしてみた。

渋谷から四谷4丁目まで

といってもそんなに遠くなかった。タクシーだと1500円くらいの距離なんだけど、表参道~千駄ヶ谷~四谷四丁目~って感じ。

歩くのって、、暇だな~・・・

いろんな人に電話してみたけど、友人Kは中国上海に仕事で当分行くってちょっと寂しくなるし、友人Cは上がりすぎててちょっときっついし(笑)、友人Fは落ちてるってんで中途半端になぐさめておいて、友人Aと長電話して、事務所についた。


約45分くらい。


歩けるやん。


退屈しなければ、結構歩ける。


そやねん、歩くの退屈やねん。


でも時間の流れをスローに感じると、歩くのも退屈ではなくなりそうだ。
自分は自己実現のようなものをコツコツと達成してきているように思う。振り返ってみると全部がつながっていて順番にある目標のようなものを通過してきている。

その経験則で思うところは、何かが欲しいときや、何かを見つけたいときや、何かを達成したいとき、それぞれが達成されるときは、そこに呼ばれていく。単純に偶然的に、そして必然的にそれは即達成される。

自分はとあるところに行くのが大好きなんだが、そこは呼ばれていくときと、探してがんばっていくときでは、充実感や経験の度合いが違うように思う。呼ばれていくと次に繋がる何かを得て帰ってくるような感じ。
呼ばれていないと感じる時は、そこに行けないとか行くのに苦労してるとか。


では、この呼ばれるという感覚というのは、、


準備ができているかどうか、ということに思う。


その準備ができていれば、おのずと向こうからやってくるし、呼ばれていく。

小さなことでも、呼ばれていくと、それは必要なものであり、それは真の目的に通じる過程であることのように思う。そう感じる。

直感として、そこにあるのは、必然であり、それが成功とか失敗とか、幸せとか不幸とかも含めて必然である。


だから、何かを求めているときは、探しはじめたらダメだ。

まず、必然的に手に入る準備をしなければならない。
心も体も環境も、準備を怠らない。

準備とは「計画の遂行」も含まれるだろうけど、なんとなくそれだけではない。。そういう段取的な行為とはまた違うように思う。
ここが難しい。


だから、「準備」をがんばればいい。
そうすると、呼ばれますよ



経験則的にこれは真実だと思っている。
でもそれがうまくできないことも多い。準備がへたくそなのだ。
準備が上手になれば、きっといいところに行けそうだと、いつも思っているのだけど。



小さな小さなことなんだけど、
昨日もいくつかの偶然が重なって、、、
ふと、こんなことを思い出した。
一番好きな映画は多分「ミナミの帝・・」じゃなくて「アマデウス」

モーツァルトにも、彼を殺したとされるサリエリにも、同じクリエイティブな人種としてとても共感するからだ。

その中で一番こころに残っているセリフは、


「僕は下世話でだらしのない人間だ。でも僕のつくる音楽は違う!」


魅力のない人であっても、すばらしいものを生み出せたらいいなぁ。
魅力のある人であっても、中途半端なものしか作れないってのはやっぱ嫌だなぁ。
魅力のない人で中途半端のものをつくってる僕だって、いつかはそんなセリフを言いたい!のです。


自分=肉体を持って現世に影響を与えれる存在を通して、神=自分の本心からひらめく発想を、現世に公開する。
自分が生み出すものは、自分達みんなで生み出すことに近い。自分の本心とはみんなが共通のものであるような気がするから。

あなたとかわたしではなく、みんながわたし。
これ一人称と二人称だけど、二人称のない言語ってあるよな。
関西弁?

ほれ、相手のこと「自分」っていうやん。これ関西の人だけらしいで。
すごいな関西人って悟ってるわ!
自分はきっと、自分の欠点や嫌なところを受け入れてくれる人がいるならば、きっとその人を生涯大切にするだろう。

相手の欠点や嫌だなと思うところを受け入れたなら、きっと相手は自分を大切にしてくれるだろう。


嫌なところとか、欠点とか、やけに目に付いてうざい!し、
それを受け入れるなんて結構しんどい行為だし辛いだろう。
どうしてもそんなこと出来ないこともある。



ん?本当に、、、?
辛い?
無理なんかな?


それできたら、なるようにハッピーになるんちゃうん!

しかもあまり高い壁でもなさそう。

だって完璧なんて望めないことくらい誰でもすでに知っているのに・・・

キライなところが好きになったり、
好きなところがキライになったりするわけだから、
キライなところが好きになるほうが将来的にはイイね。



お互いではなく、どちらかが先に壁を越えると、きっとハッピー!

きっとハッピー!