【再掲】詠み人 平野國臣(4)「捨てはてし 我身の上は思わねど 心にかかる君の行末」 | 隠居ジイサンのへろへろ日誌

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九州北部の街で、愛するカミさんとふたり、ひっそりと暮らしているジイさんの記録

2021年6月21日付け投稿記事を加筆・再掲。

 

福岡の勤皇志士・平野國臣の歌詠みとしての話を続けます。

↓ 前回までの話。

詠み人 平野國臣(1)「我が心 岩木と人や思うらむ 世のため捨てし あたら妻子を」

詠み人 平野國臣(2)「いと愛しみ 悲しむ餘り棄てし子の 聲立ちききし 夜もありけり」

詠み人 平野國臣(3)「よの中の 人数らしく成りぬるは 大人の教えによりてなりけり」

 

4首目

捨てはてし 我身の上は思わねど 心にかかる君の行末

 

幕末の京都、勤皇僧・月照のお世話をしながら薩摩入りした従僕(下男)・重助のお話です。

30歳で福岡藩を脱藩した平野國臣は、知り合いの薩摩藩士からの依頼で、安政の大獄により京を追われた清水寺成就院の元住職で勤皇僧・月照を従僕の重助とともに薩摩藩へ密入国させます。

当時、月照は、薩摩藩主・島津斉彬の命をうけた西郷隆盛と朝廷工作(斉彬の養女・篤姫を徳川家定へ嫁がせ、一橋慶喜を次期将軍にする工作)をしていました。

↓ 月照が住職をしていた京都・清水寺の成就院。

(2018年11月25日/筆者撮影)

 

しかし、薩摩藩のために働いていたにも関わらず、薩摩藩は入国した月照の庇護を拒否しました。

それは、ちょうどその直前に、改革派の薩摩藩主・島津斉彬が亡くなり、藩内情勢が激変、幕府から睨まれることを恐れたためです。

ひと足先に帰藩して、藩の重役に月照の庇護をお願いして回っていた西郷さんも、まだそんなに偉くなってはいない時期でした。月照を藩外へ追放するよう藩の首脳部から言い渡された西郷さんは、月照や重助、密入国を先導した平野國臣らと日向(宮崎県)にむけて錦江湾へ船を漕ぎだします。薩摩藩での「日向送り」とは、藩境で始末せよとの暗喩とも言われています。絶望した月照と西郷は、夜陰に乗じて船上から錦江湾に飛び込みます。

同乗していた國臣らが二人を引き上げたものの、月照は絶命してしまいます。西郷は息を吹き返しますが、藩からは死んだものとされ、後日、種子島に島送りになりました。

以上が、月照の薩摩入りと錦江湾入水事件の概要です。

 

↓ 月照と西郷が入水事件を起こした錦江湾の現場付近(鹿児島市吉野町)。むこうは桜島。

(2020年10月7日/筆者撮影)

 

↓ こんな感じだったのでしょう。右上が月照と西郷。赤丸の中が國臣。重助もこの船に乗っていました。國臣の下の絵が重助でしょう。

 

月照の薩摩入りの当時、重助は、丹波国綾部村高津(現・京都府綾部市高津町)から下男奉公をするために京都に出てきて、成就院に勤め始めて半年ほど(異説もあり)。事件当時は20歳前後の若者でした。

重助は田舎育ちで世事にも疎く、頭の回転も早くはなかったようですが、正直で、小賢しいところがなく、労を惜しまず働いたそうです。そんな重助を月照はとてもかわいがりました。

 

こんなエピソードが残っています。

薩摩藩への逃避行では、京都から大阪へ下って瀬戸内海を西へ、下関(山口県)を経て博多(福岡県)へ入ります。

博多では、お由良騒動(薩摩藩主の跡目争い)で福岡藩へ亡命していた薩摩藩士・北条右門の居宅に潜みました。

到着した日の朝のこと。(以下、引用)。

・・・北条の家の近くに、北条と親密な交際をしている医者の原三信(※1)という人がいました。朝早く起き出して銭湯に行こうと思い、手ぬぐいを提げて北条の家の前を通りかかると、入り口の路地の左側に見慣れぬ両掛け(※2)が置いてあるのが目につきました。

もしかしたら昨夜、北条が帰って来たのではないかと立ち寄ってのぞいて見ると、入り口の右側に、下男の恰好をした若者が、汚れたままの泥足を路地のほうへ投げ出して、グゥグゥとイビキをかいて寝ています。北条の家の中に入って尋ねると、きょうの明け方に帰り着いたということでした。

原は、入口に寝ていた若者が、僕(しもべ)の重助であったのを、後になって知り、泥足のまま入口で熟睡するほど、昼夜兼行で急いで来て、随分と難儀をしたのだなと思ったということです。

(「月照物語」春山育次郎(夏汀堂/1927年)78ページ。文中の一部を現代文に置き換えています。)

※1 原三信:福岡藩の藩医。現在も「原三信病院」として博多区大博町で開院している。

※2 両掛け:江戸時代の旅行用品運搬具。箱やつづらを棒の両端に掛け肩に担いだ。

重助は、疲れ果ててはいても、月照上人と同じ部屋で寝るのは憚られ、担いでいた荷物といっしょに外で寝ていたのでしょうね。

旅の途中、みんなが疲れ果てて黙り込んでいた時も、自分の故郷の風景や暮らしぶり、子どもの頃の話をして、みんなを和ませたということです。

月照上人のお世話をしながら、京都からはるか遠い九州の南端・薩摩までやってきて、敬愛する月照上人を亡くした重助。月照が西郷と入水した船にも同乗しており、上人が亡くなったときは、幼い子どものように大声で泣き喚いたという話が伝わっています。

 

捨てはてし 我身の上は思わねど 心にかかる君の行末

(意訳)なにもかも捨ててきた私の身の上は思い煩わなくてもいいが、重助くん、心配なのは君の行く末だ。

故郷も妻子も捨てて藩を飛び出し、自分自身が追われる身になった國臣ですが、それは自らが蒔いた種です。ひとり残された重助の身の上を案じて、國臣はそう詠みました。

 

入水事件のあと重助は、薩摩藩の預かりになり、福岡藩から探索にきていた盗賊方に引き渡され、腰縄・足かせをはめられて、京都奉行所の捕り方が待つ肥後・水俣まで護送されました。

京都への道中、逃避行でお世話になった太宰府の薩摩藩定宿・松屋に立ち寄り、松屋主人にお礼を述べ、薩摩入国の経緯と月照上人の入水事件などを伝えたということです。

京都へ送還された重助は、半年間、六角獄舎へ投獄されます。取調べの結果、本人に罪はないとされて釈放。いったん、故郷・丹波に戻ったものの、敬愛する月照上人と信海上人(月照の弟。成就院を継いだが逮捕され獄死)の霊を弔うため、再び京都に戻り、清水寺の境内で茶屋を営みながら月照と信海の墓を守ったということです。

茶屋を開くにあたっては、重助の忠心に心動かされた薩摩藩士と清水寺が資金面で支援してくれたとのこと。重助が営んでいた茶屋は「忠僕茶屋」として、清水の舞台下の参道でいまでも営業を続けています。

(2018年11月25日/筆者撮影)

 

月照が住職をしていた成就院は、清水寺の北総門を出た先にあります。北総門は、かつては成就院の正門でした。その北総門を出たすぐ前に西郷隆盛と月照、信海の歌碑(辞世)が建っていて、数メートル手前に「忠僕重助」の顕彰碑が建っています。

 

↓ 右奥が3人の偉人(西郷隆盛・月照・信海)の石碑。

左手前に、遠慮するように重助を顕彰する石碑があります。

(上2枚はGoogleマップからお借りしましたm(__)m)

 

碑銘の「忠僕重助碑」は、西郷従道(海軍大将/西郷隆盛の弟)の筆、碑文は海江田信義(有村俊斎/貴族院議員・枢密顧問官)の起草。両者とも幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩出身のビッグネームです。

海江田は、安政の大獄のとき、西郷隆盛とともに月照主従を京都から連れ出した人でもあり、重助とは京都から博多までいっしょに逃避行をして、よく知っています。

(碑文)

大槻重助丹波国何鹿郡綾部村字高津人自少事清水寺月照上人上人愛其忠実樸
直毎奔走王事出入縉紳常従其後安政戊午上人與予及西郷南洲倶走西国重助亦従焉時年二十及上人與南洲相抱投海重助帰京下于六角獄半歳餘見赦厥後居于上人碑側守香火者三十有餘年如一日以明治二十六年四月六日歿享年五十六越八年南洲弟西郷侯及予與同志謀建石於成就院内以表其忠侯自書碑面字使予記于碑陰嗚呼重助一寺僕耳遭遇変故大節毅然出入死生操持益堅自少至老事死如生世所罕見可以大伝也当時同事之士前後凋落殆尽而予白首頽然猶存于万死之餘俯仰今昔不禁感慨涕零也乃略敍事由以*後人
明治三十二年四月

枢密顧問官正三位勲一等子爵海江田信義撰

淡海弘書

(碑文の大意)

大槻重助は丹波国何鹿郡綾部村字高津の出身。若いころから清水寺の月照上人に仕えました。上人は、重助の忠実素朴な人柄を愛して、身分ある人に接触する時には、いつも重助を従えていました。

安政戊午の年(安政の大獄の年)に、上人と私、西郷南洲(隆盛)が九州へ落ちのびた時も、重助は上人のお世話をしながら付き従いました。

あの時、重助はまだ二十歳の若者でした。

上人と西郷がともに入水したあと、重助は京都へ送られ、半年ほど六角獄舎に入れられました。釈放後は30年以上、月照上人の墓を守り、供養を絶やしませんでした。

明治26年4月6日没 享年56。

重助の8回忌にあたって、西郷南洲の弟で侯爵・西郷従道とわたしは、同志とともに重助の顕彰碑を成就院内に建て、彼の忠節を顕彰しようと企画しました。西郷侯に碑銘を書いていただき、この碑文はわたしが筆を執りました。

重助は寺の僕(下男)ではありましたが、維新という変革の時にあって、節を守り毅然として危難にあたり、節操は堅固なものでした。加えて、上人の最期を見送った青年時代から亡くなるまで、まるで生者に仕えるように上人の供養を続けました。世にもまれなる忠義者です。その事実を私たちは後世に伝えなければなりません。

維新の同志は皆、世を去ったのに、髪がまっ白になってもなお、わたくしは生きております。あの頃のことを思うと涙を禁じえません。

ここに重助の生き方を記して、長く後世に伝えるものであります。

明治32年4月

枢密顧問官 正三位 勲一等 子爵 海江田信義

 

・・・月照上人と重助を庇護できず、上人を死なせ、重助というひとりの若者をひどい目に合わせたという負い目もあったのでしょうね。

人間に貴賤はないといいますが、僕(下男)だった男の顕彰碑が建っているのは珍しいことではないでしょうか。

風化した小さな石碑にもたくさんの物語があります。もし、あなたが京都・清水寺に行く機会がありましたら、重助の碑を見て、ひとりの男の誠実な人生を偲んでいただけないでしょうか。

 

明治以降に大槻姓を名乗り、大槻重助と称す。

1893(明治26)年死去。享年56。

 

清水寺の墓地に建つ月照上人、信海上人の墓碑のそばで、重助は、「誠光院忠岳義道居士」として、愛する妻とともに静かに眠っています。

人は、誠実に、いっしょうけんめい生きれば、だれかがどこかで心にかけてくれるということですね。

いい人生やったね、重助くん。

 

(参考資料)

・「月照物語」春山育次郎(夏汀堂/1927年)
・「月照/人物叢書」友松円諦(吉川弘文館/1972年)
・「平野國臣/西日本人物誌17」小河扶希子(西日本新聞社/2004年)

・「博多に生きた藩医/原三信の四百年」原寛(石風社/2014年)

 

(追記)

重助は、京都に帰ってから清水寺で茶屋を始め、妻帯した。

妻は「いさ」という。