福岡の勤皇志士・平野國臣の歌詠みとしての話を続けます。
3首目
よの中の 人数らしく成りぬるは 大人の教えによりてなりけり
↓ 前回までの話。
詠み人 平野國臣(1)「我が心 岩木と人や思うらむ 世のため捨てし あたら妻子を」
詠み人 平野國臣(2)「いと愛しみ 悲しむ餘り棄てし子の 聲立ちききし 夜もありけり」
2度の江戸勤務で、世の中の動きと諸国のありさまを実見してきた國臣は、自分がいかに不勉強だったかを羞じました。郷里に帰った國臣は、武術を修め、漢学・国学・書道・和歌・有職故実などを学びました。また、自らの楽しみとして横笛なども習得しています。
↓ 平野國臣の書。(太宰府天満宮宝物殿/撮影許可済み/筆者撮影)
國臣
けふのみと さだめてみれば 眼に見るも 耳にふれるも 浅ましくのみ
↓ 國臣が愛した横笛(太宰府天満宮宝物殿/撮影許可済み/筆者撮影)
↓ 「生野義挙」を起こした但馬国生野(兵庫県朝来市生野)に残された横笛(生野書院蔵/撮影許可済み/筆者撮影)。
國臣の父・平野吉蔵能栄は、足軽ながら福岡藩の神道夢想流・杖術武術師範。門弟が1000人いたといわれています。國臣も父に教えを受け、杖術の免許皆伝を受けています。体は大きくはありませんでしたが、すばっしっこくて、近所でも評判のガキ大将だったようです。
漢学(中国伝来の学問)を亀井鉄次郎、さらに、国学(古事記や日本書記をつうじて日本古来の道を学ぶ学問)、書道、和歌、有職故実などを学びます。「有職故実」は、あまり聞かない学問ですが、古来の朝廷や公家・武家の行事や制度、風俗や法令、儀式・装束などの研究をする学問のこと。
漢学の師・亀井鉄次郎の祖父は藩の儒医・漢学者で、志賀島(福岡市東区)で出土した「金印」(国宝)の研究で知られる亀井南冥。南冥は、福岡藩の学問所・甘棠館(かんとうかん)の学長も務めています。父の亀井昭陽も、日田の広瀬淡窓の先生だった高名な儒学者です。
足軽だったため、正式な藩校へは通っていないようですが、亀井家は國臣の家の近くでした。
↓ 亀井家の墓がある浄満寺(福岡市中央区地行)。國臣の家から歩いて5分ほどの所にあります。(筆者撮影)
↓ 浄満寺にある亀井南冥の墓。家族のお墓もこの一角にずらりと建っています。
↓ 南冥が学長をしていた藩の学問所・甘棠館(西学問所ともいう)があった場所(福岡市中央区唐人町)。いまは、住宅街の中の駐車場。
さらに、近所に住む幼友だちで1歳上の正木昌陽という藩校・修猷館の陽明学者にも教えを請いに通ったようです。
↓ 正木昌陽が私塾を開いていた「不狭学舎跡」(福岡市中央区今川)。この石碑は「正木」という表札が出た民家の庭先に建っています。もしかしたら、子孫の方かもしれません。
次の歌は、国学・有職故実の師で、10年近く師事した富永漸斎(65歳没)の逝去の報を聞いて詠んだもの。
よの中の 人数(ひとかず)らしく成りぬるは 大人(うし)の教えによりてなりけり
(意訳)世の中で、一人前の人間として数えてもらえるまでに成長できたのは、ひとえに先生が教え導いてくれたおかげであります。
平野國臣に関する本や資料を読んでいると、國臣が詠んだ和歌がたくさん出てきます。いまの新聞の読者歌壇などの短歌は、理解するのにむづかしいことはありませんが、國臣の歌は、むかしの言葉で書かれたものですから、なかなか意味がつかめません。上の歌などは、比較的わかりやすい言葉で書かれたもので、長年師事した師に対する感謝の気持ちが伝わってくる印象的な歌です。
一人前の人間に育ててくれてありがとうございました・・・亡き恩師に贈る、最上の謝辞ではないでしょうか。
つづく。