詠み人 平野國臣(2)「いと愛しみ 悲しむ餘り棄てし子の 聲立ちききし 夜もありけり」 | 隠居ジイサンのへろへろ日誌

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九州北部の街で、愛するカミさんとふたり、ひっそりと暮らしているジイさんの記録

福岡の勤皇志士・平野國臣の歌詠みとしての話を続けます。

2首目

いと愛しみ 悲しむ餘り棄てし子の 聲立ちききし 夜もありけり

 

↓ 前回の話。

 

詠み人 平野國臣(1)「我が心 岩木と人や思うらむ 世のため捨てし あたら妻子を」

 

養家である小金丸家の三女・菊と結婚し、江戸勤務や長崎港警備などの藩務をこなしながら國臣は、文武両道の修行に励みます。

普請方として宗像大社で働いていたとき國臣は、薩摩藩主の跡継ぎ争い「お由良騒動」で薩摩藩を追われ福岡藩に庇護されていた島津斉彬の側近・北条右門(木村仲之丞/村山松根)と知り合います。北条は、その時すでに西郷隆盛らと藩を改革するため活動しており、日本を取り巻く現状や世界情勢にも通じていました。國臣がこののち討幕活動を決心するのは、この北条との出会いが大きく影響していきます。後年、國臣が脱藩して京都に上った際、北条から西郷隆盛ら、薩摩藩の活動家を紹介されています。

北条からの刺激を受け、國臣は、自らの不勉強を羞じ、さらに勉学に励もうと決心します。もう、居ても立っても居られない気持ちになったんでしょうね。

2度の江戸赴任、長崎警備などにより、自分の進むべき道を模索します。

長崎から帰国後、藩を辞し、有職故実や国体論を研究し、論文にまとめました。

安政4年正月、30歳で、養家である小金丸を去って実家に戻り、「国の臣」=藩ではなく、国に仕える者=平野國臣として起つことになります。※養家にいたときの本名は「小金丸種徳」。

 

↓ 平野家の旧宅。

(下写真は「平野二郎國臣」(平野神社/平成21年3月29日)からお借りしました。)

 

↓ 上の写真の場所は、現在こんな感じになっています。(福岡市中央区今川)

 

国の改革にこれからの自分の人生を賭けると決心しても、自分の子どもは愛しいものです。

夜中に、妻子が住んでいる家まで行き、家の外から子どもたちの声を聞いたのでしょう。

こう詠んでいます。

 

いと愛しみ 悲しむ餘り棄てし子の 聲立ちききし 夜もありけり

(意訳)子どもらを棄てた悲しみのあまり、子らが住んでいる家の外で、いとし子の声を立ち聞きした夜もあるのです。

 

親も子も、どちらも哀しいですね。

 

つづく。