詠み人 平野國臣(1)「我が心 岩木と人や思うらむ 世のため捨てし あたら妻子を」 | 隠居ジイサンのへろへろ日誌

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九州北部の街で、愛するカミさんとふたり、ひっそりと暮らしているジイさんの記録

引き続き、福岡の勤皇志士・平野國臣の事績を追っています。

國臣は子どものころ、母親に百人一首などを子守唄がわりに聞かされて和歌の素養を身につけ、生涯、日記のように和歌を詠んでいます。

脱藩・逃亡中に下関の廻船問屋・小倉屋の白石正一郎邸に潜んでいた時、預けていた行李の中に歌の原稿がたくさん残っていたそうですが、捕り方に押収されて処分されたとのこと。それを差し引いても、現存する歌だけで650首を超えています。

西公園(福岡市中央区)に建つ平野國臣の像/筆者撮影

 

幕末の尊皇攘夷の志士らしく、歌の内容は、日本の将来や皇室を詠った社会的・思想的な歌が多く、幕末という激動の波の中で意気軒昂しつつも、思いどおりにならない社会に歯ぎしりして生きていた青年・國臣の息吹が感じられます。

一方、脱藩して藩の捕吏に追われながら生きていく自分の心象風景や、活動にかかわった人たち、故郷に残した家族に向けた愛情あふれる歌もあり、そういう歌にはしみじみと心惹かれるものがあります。

 

歴史作家の海音寺潮五郎は、史伝「幕末動乱の男たち」の中で、國臣の

君が世の 安けかりせばかねてより 身は花守となりけんものを

(意訳)いまの時代が平穏な世の中であったら、わたしは花守=花を愛で、花を守る人=になりたかったのだけれど・・・。

という歌を念頭に置き、藩の後ろ盾もなく、「討幕」という社会革命を夢想して奔走した國臣の人となりを評して、「國臣の本質は詩人である。もし平和の世に生まれあわせたなら、彼は文学者になる人であったろう」と書いています。

残された650首以上の歌の中で、わたしの琴線に触れ、印象深かった歌を数首選んで紹介します。

 

 

平野國臣は、今から約190年前・・・明治維新(1868年)の40年前・・・1828(文政11)年3月、筑前国の地行下町(現・福岡市中央区今川)の足軽長屋で生まれました。

14歳のとき、足軽だった父の友人で、藩の足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子となります。

(資料:福岡城下町古図/九州大学付属図書館/著作権フリー)

 

 

↓ 上の古図を現在の地図に置き換えるとこんな感じです。

(下地図はMapionからお借りしましたm(__)m))

 

↓ 古図の中の國臣旧宅があった足軽屋敷付近を拡大。

國臣は、地形下町で生まれ、その後、三番町へ移りました。

※「地形」→現在は「地行(じぎょう)」と表記されています。

 

旧宅があった地形下町の三番町付近。

「あしがる屋敷」と表記されています。

 

18歳で藩に出仕し、太宰府天満宮の普請(土木営繕)方に着き、その後、江戸藩邸に赴任。3年後に帰国し、21歳で彦六の三女・菊(16歳)と結婚しました。

その後、宗像大社(福岡県宗像市)の普請役、2回目の江戸藩邸勤務、長崎港の警固(経理掛)などの役職を務めます。その間、各地で欧米列強の文明に触れ、海外情勢を知るにつれて、この国の行方に危機感を持ちます。

妻子を持って安定した生活をしながらも、憂国の情は捨てがたく、30歳のときに小金丸家に妻と子(妻・菊25歳・男児1人・女児2人)を残し離別、平野家にもどりました。これは、後日、自分が脱藩しても妻子が罪に問われないようにという配慮のためであったとか。

そんな國臣も人の親。

離別した妻子を思って詠んだ歌が残っています。

 

我が心 岩木と人や思うらむ 世のため捨てし あたら妻子を

(意訳)世直しのためとはいいながら、大切な妻子を捨てたわたしの心を、世間の人は、心を持たない岩や木のようだと思うのでしょうね。

 

まあ、そやな。

 

つづく。