地中海沿岸ではキリスト教文化とイスラム教文化が融合するより対立していたような印象があります。アヤソフィアもその一つですが、スルタンアフメト公園を見てきたので、キリスト教はイスラム教文化を破壊・略奪しているのに対して、イスラム教はキリスト教文化を受け入れなくても破壊はしなかったことが分かります。


アヤソフィア
アヤソフィア エキゾチックな雰囲気のアヤソフィア
 1時33分に、スルタンアフメト公園の右奥にある、
アヤソフィアに着いた。

アヤとは「聖」ソフィアは「叡智」の意味であるから「聖なる叡智の神殿」となる。

ここは、ユスチニアヌス帝の時代に、キリスト教の小さな教会が立てられ、コンスタンチヌス帝の時代に大きな教会に拡大されたが、1354年にオスマントルコの時代にモスクとなり、1934年にアタチュルクによりアヤソフィアになった。

モスクだった時代にアフメト王は4人の子供をあらわし4本のミナレットを立てている。

オスマン帝国の王は、アヤソフィアのキリスト教のモザイク画を壊さず、その表面に白い漆喰を塗ることによって見えないようにしてしまった。

1946年以後、その漆喰を剥がし始め、現在もその作業を続けているが、そのおかげで、中世のキリスト文化が復元されている。キリスト教は直ぐに破壊略奪するのだが・・・。

入り口ゲートで手荷物検査をされて、37分に入場した。

キリストに跪くレオン6世 キリストに跪くレオン6世

その天井に金箔が貼られた前廊下の上壁には、キリスト、マリア、コンスタンチヌス、キリストに跪くレオン6世を描いたモザイクがある。レオン6世は一夫多妻をしていたので破門され、キリストにそれを謝罪している様子だという。これらの壁画に描かれた人々は実に無表情である。ギリシャローマの人物像の躍動感とは比較にならない。

アラー ラクダの皮に書かれたアラー

そこから内部の大ホールに入ると、天井にはイスラム世界が描かれ、周囲にはイスラムの神や偉人達の名前が掲示されていた。正面右のアラーから左廻りにマホメド、エブベキュル、アリ、オスマン、アラーから右廻りにファティ、スレイマヌ、ウメルと書いてあるという。それらの名前は、直系が2m以上のラクダの皮を丸く切って黒く染め、その上に金箔で書かれているが、アラビア文字なのでどれがどれだか分からない。

カディルさんが、ムハンマドゥやマホメットという発音はまちがいで、マホメドが正しいと言っていたのは驚きである。

アヤソフィアの2階への通路はスロープになっていて、王族が馬に乗ったまま上がれるようにしてあったそうだ。その2階に上がった時は2時20分だった。

漆喰で隠されていた宗教画 漆喰で隠されていたキリスト教の壁画

2階は、回廊形式になっていて、下のホールが見下ろせるようになっている。壁にはところどころにキリスト教の宗教画がモザイクで描かれているが、漆喰を塗られていたので、それを剥がす作業が続けられている。ここは元来モスクだったので、建物内に余分なものがないのがよい。

再び別のスロープから下におり、柱に空いた穴に親指を入れてぐるりと回してアヤソフィアを出たのは2時22分。アヤソフィアの花壇には、トルコが原産であるチューリップが5cmくらいの芽を出しているのがかわいい。トイレを済ませて戻ってくると、韓国ソウルからの人がいて“アンニョンハセヨ”と挨拶して2時30分に出発。

このころだったと思う。カディルさんのスマートフォンが無事戻ってきたという連絡があり、皆さんで拍手。


アヤソフィアの花壇にはチューリップが芽を出していました。トルコ原産ということを知ると、その小さな芽にも「トルコだよな!!」という気持ちを抱いてしまいます

1096年に始まった十字軍遠征は1272年まで9回行われた。トルコにもその遠征の影響を受け、スルタンアフメト公園にもその証拠を見ることが出来ます。

それはキリスト教徒による略奪の痕跡だったのです。


スルタンアフメト公園

 中華料理店のすぐ下が、スルタンアフメト公園。ここは、オスマン帝国のスルタン、アフメト1世が1609年から7年間かけて、モスクを建設した地区の一部で、公園はモスクの北西側にある。この公園の一部は、ビザンツ時代に作られた競馬場の跡で、現在は舗装されている。その形は、幅50m長さ350mの長方形である。
スルタンアフメト公園のオベリスク   スルタンアフメト公園のどうの灯明台

オベリスク          銅製の灯明台
道路側に、
オベリスクがある。このオベリスクには銅板がはめ込まれ、頂上には銅像があったが、それらの銅は十字軍が盗んでベニスへ持っていき貨幣に鋳造された。

その隣には、競馬場の照明として銅製の灯明台が作られていたが、上半分が欠けている。その銅も、十字軍がへし折って持っていったためである。

エジプトから持ってきたオベリスク エジプトから持ってきたオベリスク

さらにその奥隣には、紀元5世紀にエジプトから持ってきて建てられたオベリスクがある。一番下の台座はギリシャのパルテノン神殿から持ってきた大理石、その上に青銅の台を置き、その上に鉛を置き、その上に花崗岩のオベリスクを建ててある。

台座の大理石には、ユスチニアノス帝の像が彫られていたが、十字軍が来てその顔を削っていったので、その顔の部分がなかった。青銅の台と鉛は塩害と地震対策のために挟み込まれている。オベリスクには、エジプトのヒエログリフが彫られていた。

ここには、十字軍の蛮行ばかりが証拠として残されているだけだ。1時27分。


ここには、世界史の教科書に大きく取り上げられている歴史の証拠が普通に目の前にあるのです。

次はこのオベリスクの向こうに塔が見えるアヤソフィアへ行きます。

団体で海外旅行をすると、必ずと言って良いほど1度だけ中華料理店での食事になります。それだけ中国人が世界の津々浦々にまで進出しているのかも知れませんが、中華料理をスケジュールに組み込んであるのはなぜでしょう。

現地の旅行企画会社は、日本人と中国人の区別が付いていないのかも知れません。アジア人はみんな中国人なのでしょう。そういえば、海外で訪ねられたときは大抵「アーユーチャイニーズ」でした。

しかし、「ノー。ジャパニーズ」と答えると、相手の顔が緩みます。


離陸・着陸・イスタンブル

機体はエアバス330-300,TK2127便、座席は27GFで55分に着席していた。機内を見回すとほぼ満員だ。東京・大阪便のようなドル箱線なのだろう。

その代わり、乗務員は大忙しだ。機は、10時08分にスポットを離れ、22分から35秒の滑走で離陸をした。その3分後の38分に軽食が配られてきたが大丈夫だろうか?
国内線の機内食 10時30分に配られた機内食
メニューは

サンドイッチパン(キュウリ、トマト、チーズ、レタス)、カステラ、サラダ(キュウリ、トマト、オリーブ)、水

このサンドイッチは美味しいのだが、7時の朝食、10時のサンドイッチはちょっとお腹に来るものがある。10時55分終了。

すると10時58分に、機は既に降下を始め、あと10分もすれば着陸をするようだ。そして11時05分にイスタンブルのアタチュルク空港に着陸し、13分に停止した。21分にタラップを降りてバスで空港ビルに移動、30分にターンテーブルで荷物を受け取り、38分にはビルを出た。外気は15度と暖かい。今日は2月18日の冬なのに・・・。

49分にバスが来て、左側の前から8列目に座って出発。運転手さんはフェイジさん。

中華料理店チャンチェン(中華長城飯店)

 アタチュルク空港はヨーロッパ側にあり、ボスポラス海峡の南側から南西に15kmほどの所にある。バスがマルマラ海の沿岸道路に出ると、左手には競馬場が見えてきた。12時05分。前方には、イスタンブルの旧市街や、ユスチニアヌス帝の城壁が見えている。この城壁は79kmあったそうだが、現在は9kmが残っている。12時15分、右手に魚市場、左手の丘の上にはブルーモスクのミナレットが見えている。

中華長城飯店 イスタンブルの中華長城飯店

ここでUターンをし、右折してブルーモスク南西側のレンガの急坂を登っていくと、ブルーモスクから200mの所に昼食レストランの、チャンチェンがあった。

12時26分、チャンチェンに入ろうとすると、アザーンの声が響き渡ってきた。

この中華料理店の店内には、10人掛けの円卓が9つも置かれているのでとても狭く感じる。奥の席に座ると、40分頃から次々に料理が運ばれてきた。

2月18日昼食1   2月18日昼食2

白湯スープ          餃子・チャーハン・肉野菜炒め

2月18日昼食3   2月18日昼食4

焼きそば・肉野菜炒め・キャベツの甘酢炒め  揚げバナナ

メニューは

1.スープ  白湯にほうれん草、ニンジン、ジャガイモ、玉子が入っている。

2.餃子 3.チャーハン 4.肉野菜炒め(牛肉・ズッキーニ・ニンジンのあんかけ)

5.焼きそば 6.肉野菜炒め(牛肉・シシトウ・タマネギ)7.キャベツの甘酢炒め

8.揚げバナナ

なぜトルコに来て、中華料理を食べなければいけないのだろう。この国は中国の植民地ではないはずだし、トルコの人は日常生活で中華料理をそんなに食べているのだろうか?

アジアから来て毎日トルコ料理ばかりだから、旅行業者が気を利かせてアジア繋がりで中華料理を組み込んだのだろうが、いらぬお節介というものだ。外国で食べる中華料理に意味など何もない。

アジアの料理はその温度が高いので、食べているうちに汗が出てくる。味は悪くない。

1時09分終了。14分出発。


食後はいよいよアヤソフィアとブルーモスクの観光です。

今の時代は、世界どこでも携帯・スマホがなければほとんどの人は生きていけません。特にビジネスをしている人にとっては、携帯・スマホが全てと言ってもいいでしょう。カディルさんはそれを紛失したのですから大パニックです。


2月18日(火)

朝食

 旅でこんなに眠れたのも珍しい。しかし5時には目が覚め、起き出した。やがて、5時30分のモーニングコールが鳴り、アザーンが聞こえてきた。

6時には荷物の重さを目分量でチェックして廊下に出し、レストランへ向かい、15分から食べ始めた。
2月18日朝食2  2月18日朝食1

相変わらず健康的な朝食   ミツバチの巣・味は最高
メニューは

キュウリ、トマト、レタス、ほうれん草?ソーセージ3種、チーズ3種、レーズン、牛乳、ヨーグルト、玉子、ハチミツ

野菜は相変わらず美味しいし、新鮮でみずみずしい。ソーセージも塩分が少なく、チーズもマイルドでよい。今日のレストランの目玉は、ハチミツだった。ミツバチの巣をそのままセットしてあり、スプーンで切り取ってくるものだった。濃厚で強い味がするし、6角形の巣がそのまま付いているので、なおさら自然でよい。

6時42分終了、58分に部屋へ戻った。

骨を折った人 骨を折った人

レストランを出る時のことだった。ふと見ると右腕を吊っている女性がいた。そうです。この方が、パムッカレの足湯のところで転倒して骨折をした方です。腕を吊っている状況から見て、その後はずいぶん不便な旅行をされたことと思われる。この後どうやってスーツケースを持って旅行を続けていくのだろうか。

出発

 7時10分を過ぎたので、ロビーへ降りることにした。チェックアウトをして19分にバスに乗っていると、カディルさんがバタバタしている。何をしたのか聞き耳を立てていると、洗面所に携帯電話を忘れたらしい。カディルさんにとって、携帯電話は命の次に重要なものだ。それがなければ全く仕事が出来ない。そんなに大切なものを忘れるというのも変だが・・・・。とにかく必死になって捜している。

すると、ほかの日本人旅行団の人が、その携帯電話を拾って持ったまま、バスでイスタンブルに向けて出発していることが分かった。カディルさんは、何でホテルのカウンターに届けてくれないのかと、怒り心頭だ。毛束さんが、そちらの添乗員と連絡を取ってイスタンブルで落ち合うことなり、まずは一段落をしたが、それでもカディルさんは収まっていなかった。

ちょっと遅れて、21分に空港に向けて出発。外気は7度と暖かい。

毛束さんが「皆さんおはようございます。ホテルにお忘れ物はございませんか。パスポートは大丈夫ですか。カメラ貴重品は大丈夫ですか。運転手さんのムスタファさんとシャダンさんとは、この移動でお別れになります。ムスタファさん、シャダンさんギュナイドン」と挨拶をした後、これより空港に向けての移動となります。旧市街から空港までは30分程度の距離なのですが、朝の渋滞が起きますとそうはいきません。それでは、トルコ語の勉強をしましょう。今日は“お元気ですか”です。ナッスルスンといいます。」と、今まで習ったギュナイドン、メルハバ、ティッシュクレ、ジジババ、ジジベベ、ケチ、ギュゼル、タマン、ブーネカザルを復習してから、1つを加えた。この辺りになると、脳がオーバーフローをし始めている。

出発して10分後の位にバスは体育館の脇を走っている。するとカディルさんが「皆さん、右側に見える塔は、朝鮮戦争の時に戦死したトルコ兵の慰霊塔です。韓国政府がここに建てました。なぜトルコ人が朝鮮戦争に従軍してたくさん戦死、しなければならなかったのか疑問です。その時トルコ兵は721名が戦死し、その他を含めて770名死んでいるんです。」と話していた。

アンカラ空港

おかげさまで、渋滞もなくアンカラのエセンボガ空港には7時56分に着いた。

トルコでは、空港ビルに入る時に1回目の手荷物チェックが行われる。8時05分。スーツケースまでチェックされるのだが、バタバタと全員が通過。

その後カディルさんが航空会社のカウンターでまとめてチェックイン。

面倒だが、この後もう一度手荷物チェックが行われる。

時計、メガネ、ベルトをはずしたのだが、それでも検知器がピーッ!!と鳴る。もう一度ゲートを通ったら今度はセーフ。8時50分。搭乗ゲート107へ移動し、そこのロビーで待つが、9時30分からなのでもう少しだ。ところが、フライトが15分遅れて、ようやく9時50分に搭乗が開始になった。


旅先での病気とけがはとてもつらいはずです。自分だけではなく同行者にも大きな負担が生じますので、十分に注意をしなくてはいけません。

盗難紛失ももちろん注意をしなければいけません。

ホテルの部屋を出るときには、必ず2度3度と注意をするのですが、それでも物を亡くしてしまうのは人間だからです。

トルコのホテルでプールがあるといっても、それは日本的感覚のプールではないようです。英語の辞書を調べたら、プールとは水たまりのことで、水泳用のものはスウィミングプールと言うのだそうです。

だから、ホテルにプールがあると書いてあったことは正しかったのです。


スルメリホテル


スルメリホテル スルメリホテルの正面入口とバス

 4時19分にホテル到着。実に早いチェックインだ。
毛束さんが「今日は早いチェックインでした。明日は飛行機でイスタンブルまで行きますので、手荷物には注意して下さい。明日の予定は、モーニングコール5時30分、朝食は6時から、荷物出しは6時30分、出発は7時30分です。

今日の夕食は7時からこの階です。6時55までにこの場所に御集合下さい。NHKは映りません。水は各部屋に1本ずつ置いてあります。私は409号室ですので、電話は7409にかけて下さい。」と言うことで、405号室のカギをもらい、プールがあるというのでその場所を受付に聞いてもらったが全く要領を得ない。地下にあると言うことは分かったので、探しに行くことにした。しかし、その場所が分からない。近くにいたホテルの従業員に聞いたのだがどうも要領を得ない。ようやく何とかたどり着いたら、暗がりの部屋の中に円形のプールとは言えないものが冷水をたたえていた。人は誰もいなかったが、脇にカウンターがあったので、確かにここがプールのようだ。こんなところで泳げるはずがない。

4時50分に部屋に着いたが、しょうがないから、6時45分までベッドでごろごろしていることにした。外からは町の喧噪が聞こえてくる。

テレビをつけてみると、トルコ語ばかりだからなんだか分からない。それでも、イスタンブルでテロ事件があり爆発物が爆発して人が死んだことと、エチオピア航空の旅客機がハイジャックされたことはなんとか理解できた。

夕食

 6時45分になったので、レストランへ行くことにした。席を確保していると7時から食事が開始になった。ところが、2人の人が来ない。毛束さんが電話をしたのだがそれにも出ないので、ひょっとしたら外出したのではないかと思われたみたいだ。

すると、13分遅れで2人の人が来た。部屋のフロに入っていて電話には出なかったようだが、とにかく合流。

2月17日夕食1  2月17日夕食2

豆のスープとチーズパイ、パン  鶏肉のロースト

2月17日夕食3 大量なデザートのプリン

メニューは

1.豆スープとチーズパイとパン

  スープは、味がはっきりとしないので、塩・胡椒で調整して食べ

  た。チーズパイはやや硬めだ。

2.鶏肉のローストとご飯、ポテトフライ、ゆで野菜(グリーンピー

  ス、ニンジン、セロリ、トウモロコシ)添えご飯は少し硬い。

  鶏肉は量が少し多いので女性は残している。

  全体に量が多いので少し食傷気味になってくる。

3.デザート、プリンのココナツがけ

  冷たいプリンで砂糖の甘さが目立っている。

  味が変わって美味しいが、これも量が多く、容器は内径10cm

  深さは3~4cmあった。

7時50分終了。

このとき、ソチ冬季五輪のスキー団体で日本が3位になったと知らされて部屋に戻り、本当にゆったりとした気持ちでシャワーを浴び、眠りについた。明日はイスタンブルだ。

405号室

スルメリホテル405号室 エクストラベッドとトルコ放送

 この部屋は広いのだが、大きな欠点があった。それは、1つのベッドがダブルで、もう一つが鉄パイプのエキストラ(簡易)だったのだ。

窓からは、すぐ目の前に坂道の道路が見えるので、自動車の音や人の大声が聞こえて来てしまう。ほかは特に大きな問題がないので良かった。


生まれついての貧乏人とはこんなものです。大きなベッドよりエキストラベッドの方が何か安心してしまうのです。

トルコは北を黒海、南と西を地中海に囲まれた半島の国です。その地域を大きく「アナトリア」と言います。地名としては日本では有名ではないのですが、漠然と全体を表す時に使われることがありますので、トルコでは当たり前に使われています。


アナトリア文明博物館

 坂道を降りて左折したところに、博物館があった。2時32分。

ここは11~19世紀まで隊商宿(キャラバンサライ)だったところだそうだ。

1923年の革命後、アタチュルクはここをハマム(トルコの風呂)にしたのだが、その後博物館に改装されて今に至っている。訪れた時、博物館は修復中だったため、展示品は仮に別の建物に置かれていたので、全体を見ることは出来なかった。
樹間の甕棺  博物館のトルソー
松林の中の甕棺       博物館内のトルソー
敷地内の松林の中には、甕棺がたくさん置かれていたが、甕棺に死者を埋葬するには、ミイラ化の処置をしたそうだ。死体から脳みそや内臓を全て取り出し、亀の下側に入れ、その上に板を敷き、その上に死体を体育座りにさせて入れ、フタをしたそうだ。建物の中に入ると、そこにはローマ時代やヘレニズム時代の大理石の像が何体か展示されているが室内が薄暗い。頭が取れた像が多いのは、昔の泥棒が頭だけを盗んでいったためである。2400年前のお金なども展示されていたが、パンフレットもなく、トルコ語の説明だからその内容が良く理解できないままに外へ出た。トルコはこういった文化政策が進んでいないような気がする。いろいろな言語のパンフレットがあればよいのに。

トルコ全体は博物館のようなもので、どこを掘っても古代遺跡が発掘できるようなイメージがある。それらの遺跡には、昔から西欧諸国が乗り込み、重要な文化財を発掘して持ち帰っているから、トルコには重要なものがないのかも知れない。

3時04分に、あちこちのモスクからアザーンが聞こえ、何とも言えないエキゾチックな気持ちになってくる。3時20分、バスで博物館出発。

アンカラ市街

アンカラ城  パン売りおじさんと子供たち

アンカラ城         パン売りおじさんと子供たち

 バスが坂を下りていくと、その斜面には家がびっしりと建っている。この辺りはアンカラの旧市街地で、各家の作りは赤い屋根、白い壁、木造が共通点になっている。

アンカラは3500年前にヒッタイト民族が居住したことが始まりという歴史を持ち、その後2200年前にローマ帝国の領土となって、アンカラ城が作られ、その地位が確立したようである。さらにバスは坂を下り、谷底の道を走ってから小学校の隣で停車した。

そこから振り仰ぐと、アンカラ城がよく見える。

学校が終わった子供達が、ニコニコして近づいてきた。子供はどこの国でも同じだ。

パンを頭に乗せて売っているおじさんもやってきた。ここで城や、運転手さんのムスタファさん・シャダンさんと写真を撮って出発。

アタチュルク廟

アタチュルク廟 外から見たアタチュルク廟

 3時56分、アタチュルク廟に着いた。

アタチュルクは、ムスタファ・ケマル・アタチュルクと呼ばれるが、パシャという称号を付けて、ムスタファ(選ばれし者)・ケマル(完全)・パシャ(軍人の称号)とも言われる。

オスマントルコ帝国の軍人だったが、陸軍大学を出て戦功を上げていた。第一次世界大戦でオスマントルコが破れ、その領土は連合軍に分割されようとしていたが、アタチュルクは軍を組織してそれを防ぎ、1923年にそれまでの王制を廃止して共和制に変更し、初代大統領になった。その後王族を国外に追放して、イスラム教を政治から排除する世俗主義を取って政教分離をはっきりとさせた。そのことからトルコ国民にとっては、国を守った英雄として尊敬を集めている。4時01分写真を撮って出発。


アタチュルクはトルコの英雄です。どこの町に行ってもアタチュルクと名付けられて建物や通りを見ることが出来ます。

もちろん紙幣の肖像は英雄アタチュルクです。

トルコはどこの都市に行っても、同じような近代的な集合住宅が建てられています。トルコの郊外も同じような建物が建てられていました。


首都アンカラ

 1時03分、アンカラの東の外れに入ったようだ。大都市の郊外の姿よろしく、この辺りはかつてのスラムになっている。急な崖に、吹けば
アンカラのバラックと集合住宅
アンカラ郊外のバラックと近代的集合住宅
アンカラのハティポルレストラン ハティポルレストラン
飛ぶようなバラックがたくさんへばりついている。しかしそれらは、発展を続けるトルコに吸収され始め、再開発地域となっていた。崖下の平地には近代的な集合住宅が建てられているので、開発が進んでいるとはいえその差が激しい印象だ。やがて道路の右側にトルコ陸軍の基地が現れた。間もなく高速道路を降りたバスは、旧市街の狭い道を登り、1時30分にハティポルレストランに着いた。このレストランは、かつてアンカラにいた軍の司令官が宿舎として建てたものだったが、1923年の革命以後、それをレストランに改装して営業しているそうだ。

周辺は雑然とした住宅地で、すぐ下には小学校がある。高台なので景色はよいが、建物が古いので板張りの床は良く軋み、傾いてさえいる。
2月17日の昼食1  2月17日の昼食2
新鮮な野菜サラダ      トマト味のスープ
2月17日の昼食3  2月17日の昼食4

ギョズレメ         サチュカブルマと茹でジャガイモ
2月17日の昼食5 牛乳プリン

メニューは

1.サラダ

  トマト、レタス、キャベツ、ニンジンなどの細切り、塩揉

みキュウリのスライス、パセリ

それをフォークで食べるのだから、実に食べにくい。

オリーブオイルかレモン汁をかけ、塩・胡椒で味を調えて食べた。

2.スープ

  トマト味で、何かのトロ味が付いている。

トルコではこのスープが良く出される。

テーブルパンを浸して食べたのだが、それはテーブルマナーに違反

するらしい。塩・

胡椒で味を調整しないと、ぼけた感じの味付けになっていた。

テーブルパンはお代わり自由。

3.ギョズレメ

  小麦の薄い板を8枚重ね、間にチーズ・パセリを挟んで

オリーブオイルで焼いてある。

味はちょっとという感じだ。

4.サチュカブルマと茹でジャガイモとバターライス

  サチュカブルマは牛肉の鉄板焼きで、牛肉とマッシュルーム、

タマネギに香辛料を入れて焼いてある。

味はあっさりとしてパンチがないが、そのようなものなのだろう。

5.デザートは牛乳プリン

  カラメルソースがたっぷりかかり味はよい。

しかし、その盛りつけが実に汚らしい。

デザートを食べる楽しみが大幅に低下したことは言うまでもない。

2時11分終了。24分にレストランの前に出ると、左下にある小学校が放課後になったようで、生徒が三々五々帰っていく。この後、アナトリア文明博物館に向けて坂道を徒歩で下り始めた。歩き始めたところに
乾燥果物屋さん 乾燥果物屋さんとおじさん
乾燥果物や豆などを売る店
が10軒ほど並び、日本では見ることの出来ない乾燥果物も売っている。ケチボイルというものは強壮剤でもあるそうだ。


トルコは果物が豊富ですが、どこで生産しているのかよく分かりません。しかし乾燥果物はとても多くて甘くて美味しいです。

内陸の雨がほとんど降らないカッパドキアですが、豊富な水を湛えた大きな川があります。この水はどこからきたのでしょう。


アヴァノス陶器の土

 陶器や磁器を作るためには、土がもっとも大切になる。ここで使われている土は、この町の北側を東から西に流れる“クズルウルマク川”
クズルウルマク川 カッパドキアのクズルウルマク川
いう全長1350kmの黒海へ流れ出る大河から得ている。この川には、雨期になると周辺の山から、赤土が大量に流れ込み、川の水が赤くなるという。その赤土を採取してアヴァノス焼にしているようだ。この赤土は、周辺の山から供給されるのだが、ローズバレーに見られたようにカッパドキア全体に厚く堆積しているピンク色の地層が浸食されて流れ込んだものであろうか。そうしてみると、この土は無尽蔵にあると考えられる。少なく見ても半径10kmの地域に厚さ10m以上は堆積しているはずだ。

アンカラへの道

 9時48分バスはアンカラへの道を進んでいく。

中部トルコの内陸部は1000m程度の高原地帯のため乾燥が激しい。そのため自然の土地に木がなく、冬になると気温低下も重なって緑は全くと言って良いほど無い。

10時ごろになると道路はなだらかな丘陵が連なる荒野になってきた。既に、カッパドキアのテーブル上の台地を見ることは出来ない。時々斜面の畑に小麦の緑が数cm伸びているのが見える。ブドウ畑の面積はとても小さいので自家用だろうか、手入れをしている人の姿もたまに見られる。

しばらく走ると、モスクのない村が出てきた。カディルさんが「この辺りはイスラム教でもアルビー派の人たちが住んでいます。アルビー派の人たちはモスクを作りません。歌を歌うことがあり、礼拝は各自の家で行っています。アルビー派というのはムハンマドゥの直系であるアリの流れを信じているのが特色です。ただ、シーア派とは違います。」

標高も少し低くなってきたのだろうか、畑の植物も多くなり、遙か彼方まで一面の麦畑になっている。いずれカッパドキアも浸食が完了するとこのような景色になってしまうのだろうが、それは何万年も後のことだ。

10時23分、道を左折した。北西に向かっていたバスが西に向きを変えた感じがする。右手後ろの山の尾根には、風力発電の風車が40以上も立てられ、風を受けてその羽を回転させている。

丘から谷へ降り、谷から丘に登る、を何度繰り返したことだろう。谷は遠くの山から刻まれたものだが、周辺に樹木は一本もなく、谷筋には一滴の水も流れていない。全てが涸れ川のワジだ。10時54分、“クズルウルマク川”を離れてから始めて川を見た。その谷は幅が数kmもあるものだが、谷底の川の幅は10mほどしかない。川岸に木は植わっているが葉は無い。たまに見える木はポプラの植林で、山にも木はない。

ドライブイン休憩

 11時00分、ドライブインでトイレ休憩を取った。トイレに入ると、手洗いだけでなく足洗い場があった。女子用の方にもあったそうだ。出先で礼拝をする人のためだろうか。売店で水1.5リットルを買うと、1.5リラだというのでお金を出すと、1.2リラを取っておつりをくれた。日本円で60円と安すぎるのだが、ひょっとすると0.5リラだと思って出したお金がユーロ硬貨だったのかも知れない。陳列棚には“1.5TR”と書いてあったんだけれど分からない。トルコ経済にユーロが入り込んできているのだろうか。18分出発。

車窓観光

 依然として数分刻みで谷、丘、谷を繰り返し、バスはアップダウンをしている。時々谷底に水が流れているの見るようになってきたが、それでも川幅は2~3m程度だ。

12時09分、クルッカレという町を通過した。西に向かっていた道はいつの間にか北西に向かっていたが、この町ではっきりと左折しアンカラに向かって西に進路を取った。外気温は13度になっている。だんだん湿気と気温が高くなっているのだろうか明らかに緑が濃くなってきた。それとともに“クズルウルマク川”が見えてきた。この川はアヴァノスから200km近く流れてきているのに、その川幅がほとんど変化していない。

12時25分、道は山間に入ってきた。山間地と言っても少し傾斜が急な丘が繋がっている感じで、そこの上り下りを繰り返すたびに耳がつんとするから、結構上下をしているのだろう。エルマダーグ山(950m)に向かっていく。この辺りは火山地帯なので、その辺りに露出している岩は火成岩と言うことになる。イオウ鉱山もあるという。鉄道も走っている。土地は相変わらず乾燥しているが、流れる川の水量は明らかに多くなっている。

道路沿いには、時々ポツンとガソリンスタンドがある。その廻りには人家はほとんど無いが、ガソリンスタンドには大抵スーパーマーケットとカフェ、レストランが併設されていた。

畑が見えると石ころが目立っている。

12時43分、アンカラまで40kmになり、山間地から丘陵地帯になってきた。

畑のモグラ塚 はっきりしませんがモグラ塚の列

最初のころから気がついていたのだが、トルコの畑にはモグラ塚が連なっている。明らかに、その下にモグラが掘ったトンネルがあることが分かり、塚はほぼ等間隔で畑に並んでいる。と言うことは、モグラのエサがあるのだろう。と言うことは、農薬などはほとんど使っていないのだろう。ミミズなどが生きられる環境が保たれていることになる。

次々と通り過ぎる町には、ミナレットが目立つモスクがいくつも見える。丘や斜面には木が生えてきた。しかし、松やヒマラヤスギなどしかないので、人工植林をしたものに違いない。アンカラに近づくに従って、道を走る車が多くなってきた。


アンカラへ向かう道から見えるものは、実に単調ですが、それをじっと見ていると何となくトルコが理解できる感じがしてくるのです。

真実は地味な平凡な単調な中にあるのではないでしょうか。

カッパドキア最後の観光です。


創造の谷(デブレント)

 その間に、バスは昨日見切れなかったカッパドキアの観光名所に向かって進んでいった。

畑はぐっと冷え込んだために一面の霜で真っ白になっている。外気は2度。

ブドウ畑は冬枯れて、樹高は20~30cmしかなく何本かの貧相なつるを伸ばしているが、一見すると荒れ地にしか見えない。顔を上げると朝方見えた熱気球がまだゆらゆらと飛行を続けている。これだけ多くの気球が浮かんでいるとお伽噺に紛れ込んだ気持ちがしてくる。既に着陸した気球も見えている。

カディルさんが「気球のパイロットのほとんどはイギリス人とオランダ人です。最近はトルコ人もいます。気球にぶら下がっているカゴは、6人、12人、24人乗りのものがあります。」と言っている。バスは、左手に昨日のローズバレーを見て、台地から谷へ降りていく。7時40
三姉妹の岩   ラクダの岩

三姉妹の岩          ラクダの岩
分に、
「三姉妹」の奇岩について写真をパチパチ。53分出発。

この辺りは、標高1350mの高原地帯だから気温は低くなるが、谷へさらに降りていくと1度とぐっと冷えてきた。再び台地に上り尾根道を左に曲がり、創造の谷(デブレント)へ入っていくと「ラクダ岩」の奇岩に着いた。8時03分。野良犬の親子が、朝食中。売店のおじさんがエサをあげているのだろう。そういえば、エフェソスには野良猫がたくさんいたが、その他の観光地は野良犬が多い。それらは人になれていて、危険性は感じない。ここでも写真を撮って直ぐに出発し、アヴァノスの町に向かった。

アヴァノスの陶器工房

 アヴァノスの町は陶器の製作で成り立っているようだ。

地図を見ると、ネヴシェヒル(西)、ユルギュップ(東)、アヴァノス(北)という3つの町が作る三角形の中が、カッパドキアの奇岩観光地になっている。その中心が、台地上にあるウチヒサルと谷底のギョレメだ。

8時22分に陶器販売店の「セラミック アヴァノス」に着いた。

店内に案内されると、陶器製作のデモンストレーションを見せられ、ハッサンさんという陶芸師がろくろの実演をして、トルコ風の砂糖壺を見事に作り上げ、日本にも何度か来て陶芸の技術を磨いたのだと紹介された。

チューリップを描いたアヴァノス陶器   絵付け作業中

チューリップの絵柄の皿    絵付け作業中

アヴァノス焼は、造形・素焼き(800度)・絵付け・色付け・釉薬・本焼き(1000度以上)の行程で作られている。トルコの陶器ではチューリップを使った絵柄のモチーフが多いようだ。チューリップで父母子孫を表現し、幾何学模様を描いたものなどが主なもので、イスラム国なので人物を描いたものは全くない。色付けは青色を用いたものが有名で、高級なものには水晶やラピスラズリ、トルコ石などを使用している。ヒッタイト様式のワインボトルも装飾品として売っている。

2階へ上がり、陶芸の先生と弟子の作品を鑑賞すると、作品は25%値引きで売っているという。また夜光塗料を使用した作品もあったが、これは放射性物質ではないのだろうか。作品のいくつかの表面がでこぼこしていたのは、絵具に水晶などの鉱物を使用しているためだと言っていたが、生活用には使いづらいだろう。と言うことはここの陶器は生活用ではなく装飾用、芸術用として生まれたものなのだろうか。

単純な青の絵付けなら生活に使えるだろうが、その価格を見ると、とてもそうとは考えられない。皆さんも結局のところ1000円程度の鍋敷きなどを買っているようだった。

店員さんは女性が3人、男性が8人であまり積極的に売り込んでいる様子は見られない。9時33分出発。


アヴァノス陶器は生活陶器ではなく、芸術陶器になっていました。

イスラムのモスクから早朝に流れてくるアザーンは何とも言えません。

心に響いてきます。それを聞いたときに「ああ、ここはイスラムの国なのだ」としみじみ思うのです。


2月17日(月)

朝のアザーン

 朝5時に目が覚めてしまったので、起きてしまった。するとどこかのミナレットから、朝の礼拝の「アザーン」がかすかに聞こえてくる。時計は5時10分を指していた。

ベランダに出ると、その声は、日の出前の冷気に乗って、スチームで暖められた部屋の中にも入ってきた。カッパドキアの谷にもその声が流れていくのが見えるようだったが、5時35分にモーニングコールが鳴り、幻想的な世界から現実に引き戻されてしまった。

気持ちの良い時間とは短いものだ。

朝食

 6時が近づいたので、荷物を廊下に出してから食事に行くと、既に10人近い人がレストランの開くのを待っていた。時間が来たので、中に入り、カッパドキアの谷が見える席について、食べるものを取りに行った。
2月17日の朝食 新鮮でとても良いと思っている朝食
メニューは

キュウリ、パセリ、トマト、チーズ6種、ソーセージ3種、タマゴ半分を2つ、ヨーグルト、牛乳、オレンジ、パイナップル

ゆっくりと食べていると、東の方に見える中央トルコの最高峰エルジェス山(3916m)の南側のすそ野から太陽が昇り始めた。

エルジェス山の日の出  カッパドキアの熱気球

エルジェス山の日の出    カッパドキアの熱気球

そのころ朝靄の中をカッパドキアの台地や谷から、次々と熱気球が上り始め、やがて20機ほどが、空にふわふわと浮かび始めた。天候は快晴無風。レストランのベランダに出ると手すりには真っ白に霜が降り、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。

6時40分に食事終了。食事中の毛束さんに「ギュナイドン」とご挨拶。

部屋に戻りベランダから外の景色を眺めると、このホテルは谷の傾斜地を削って造成した土地に建物を建ててあり、前庭にはプールが作られている。プールの向こうには、昨夜の夜景観光で見たウチヒサルの「尖った要塞」や熱気球が浮かんでいるのもよく見えた。

出発

 ホテルの前はツタに覆われた石垣で、道は狭くバスが1台通過できる幅しかない。今日の座席は右側の後ろから3番目。7時30分には全員がそろって出発。

毛束さんが「ギュナイドン!!」と元気の良い挨拶。「皆さんお忘れ物はありませんか。パスポート、貴重品、カメラ大丈夫ですか。運転手さんは今日もムスタファさんとシャダンさんです。ギュナイドン。」みんなで「ギュナイドン」「それでは今日もトルコ語を1つ覚えましょう。まずは復習から、おはようございます」「ギュナイドン」「こんにちは」「メルハバ」「ありがとう」「ティシュキュレ」「かわいいおじさん」「ジジババ」「かわいい赤ちゃん」「ジジベベ」「美味しい」「ギュゼル」「OK」「タマン」「じゃあ山羊は」「ケチ」(笑)「それでは、今日の言葉です。“いくらですか?”は“ブーネカザル”です。では一緒に言ってみましょう。」と朝のトルコ語学習が始まった。


カッパドキアの朝霞の中から浮かんでくる熱気球は幻想的です。機会があったら乗ってみたい気持ちになります。