エホバの証人の教えは、ひたすら自分の願望を抑えるよう教える。
思えば、何一つ、自分の願望は
組織の中で叶わなかった。
本当の望みを、諦めなくちゃならないから、心の底では、イライラしてるんだけど、
そういうフラストレーションとかを
「感じないよう」個人研究や黙想によって、訓練される。
そして、それを強化するために、野外奉仕や、集会に行かせる。
自分の「本当の気持ち、感情」に、気がつかせないため、忙しくさせ、情報を遮断する。
頭で考えた正論を善、
自分の気持ちや感情を悪
と、教える。
これが洗脳の主要システムなんだろうけど、これを真面目にやればやるほど、人は病んでいくんだよ。
生きていくための仕組みとしては、
人は、うつ状態や無力感から、怒りへと自然に移行し、徐々に力を蓄えていく。
しかし、そういう怒りは良くないと、教わっているからね。
自分の感情を信じないし、否定する。
そうすると、また無力感とうつ状態に陥り、また怒りに移行するという
無限ループから抜け出せなくなる。
だから、怒りを、覚えるということは、進歩したってことだ。
うつ状態や絶望から、罪悪感、喪失、不安を抱くように(感じるように)なったのは、進歩だ。
そして、怒りや復讐心を感じるのも、進歩してるってことだ。
次から次へと湧いてくる負と言われる感情を感じ切る。
それが怒りであっても、復讐心であっても、それを感じきり、表現する。
抑圧が激しすぎる人は、犯罪になっちゃったりするから、そうじゃない仕方で表現する。
泣き叫ぶ。
頭の中で、「親の首絞める、
憎い長老を殴り飛ばす、、」等々、
そうすると、怒りの感情が次第に消化してきて、もう少しマシな感覚に移行していく。
感情を出して、自分の悲しかった、
辛かった気持ちを表現しないと、
その置き去りにされた「わたしの感情」は、蓋をされたマグマのように、グツグツと、心の中に溜まり続け、
何かわからないけど、実生活で、いつも怒っている人になってしまう。
子どもを殴ってしまったり、暴言を吐いてしまったり。
子どもの事は、愛しているのに、カーッとなって殺してしまった、なんて事件は、
親の過去の怒りや悲しみが、消化されてないから、起きるんじゃないかと、個人的には思っている。
母は、JWである以前に、毒親で人格障害だったんだと思う。
エホバの証人の教理は、わたしの母を、変える事も幸せにすることも出来なかった。
ただ生きることに目的を与え、それに打ち込んで達成感と他人からの称賛を与えた。
それは麻薬ように依存性があり、同時に快楽だったのだろう。
その為に、子どもの気持ちを無視し、踏みにじりJW組織の言いなりに、ただがむしゃらに行動した。
自分がただ称賛を得るために、子どもを利用し、暴言や暴力あらゆる手段を使ってコントロールした。
最近、母は言った。
「自分が生んだ子だから、何してもいいと思ったのよ」
子どもは、モノか?家畜か?奴隷か?
自分を肯定するためだけにあの人は生きている。
神なんて信じちゃいない。愛しているのは自分だけ。
子どもの事は、愛してなかった。
この結論に至るまで、長年苦しみました。
親なんだから子どもを愛していないはずがない!!そう言って大人たちは、誰も信じなかった。
でも、愛されていると感じない。母のすべての行動において。昔も今も。
子どもにとって、親に愛されていないというのは、死活問題。
なんとか、自分の気持ちをごまかして母を信じてきたが、とうとう受け入れざるを得なくなった。
「あぁ、あたしは母に愛されてなかったんだな」
そしたら、すべての出来事が腑に落ちた。
心臓をわし掴みされるような悲しみと共に、フラットな安堵感が胸を満たした。
あたしは、母への執着を手放した。
それと同時に、母への怒りや憎しみや、恨みも昨日の雪のように解けて、流れていった気がする。
それから格段に生きるのが楽になった。
ありのままの母を認めた。理想ではなく。
だから、わたしの苦しみは、JWだったというより、「JWにのめり込んだ母から愛されなかった」ということなんだと思う。
多分、愛情深い親に育てられた二世とも、また違うのだろう。愛情ある親から忌避される苦しみは、残念ながらよく理解出来ないのだ。
愛し、愛されてる親から忌避される苦しみ、壮絶なものがあるのだろう。
親との関係のために、自分の意思とは別に、組織にとどまっている方、復帰されようとしている方がたくさんいる。
わたしは、そうする必要が無かったのは、幸運だったのか、あるいは不幸だったのか。
いずれにしても、組織のやり方は巧妙だ。家族を人質にするのだから。



















