【意訳】
阿弥陀仏を心から信じて、私の命の行き先は、そのまんま阿弥陀仏にお任せします。
阿弥陀仏を心から信じて、私の命の行き先は、そのまんま阿弥陀仏にお任せします。
このことを親鸞聖人は、尊敬する高僧方の教えを元に、こう解説しています。
【意訳】
私(親鸞聖人)の師匠である法然上人は、深く仏教を知り抜いて、東の片隅にある日本という国に、浄土の教えを開きました。
法然上人は、善人も悪人も、全ての人が救われるようにと、阿弥陀仏の本願を広く世間に示しました。そのような救いがあることを教えてくれた高僧方に、ただ感謝するばかりです。
信心一つで救われる。
それが、親鸞聖人の教えです。
その教えは、日本や中国の高僧方、インドの菩薩方を経て、お釈迦様、そして阿弥陀仏へと繋がっています。
それを素直に喜ぶ人のことを、親鸞聖人は、このように呼びました。
御同朋、御同行。
信心を得た人は、同じ南無阿弥陀仏の念仏という行(行為)によって、同じ阿弥陀仏の本願に救われるのだから、そこには上下の違いなどなく、誰もがみな、同じ仲間(朋)である。
それが、親鸞聖人の生涯変わることのない姿勢でした。
そのような想いに至った理由を、親鸞聖人は、このように語っています。
【原文】
親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
(歎異抄:第六条)【意訳】
私(親鸞聖人)には、一人の弟子もいません。
私(親鸞聖人)には、一人の弟子もいません。
そのような人を私の弟子と呼ぶのは、大変な思い違いです。
親鸞聖人の教えは、正信偈に書かれていることは、決して難しい内容ではありません。
【原文】
我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。
【意訳】
間もなく、私(親鸞聖人)の命も終わりを告げるでしょう。
一度は、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するけれど、寄せては返す波のように、(仏と成って)すぐに戻ってきます。
一人で喜ぶ時は、二人で喜んでいると思いなさい。二人で喜ぶ時は、三人で喜んでいると思いなさい。どんな時も、あなたの側には親鸞がいるのです。
間もなく、私(親鸞聖人)の命も終わりを告げるでしょう。
一度は、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生するけれど、寄せては返す波のように、(仏と成って)すぐに戻ってきます。
一人で喜ぶ時は、二人で喜んでいると思いなさい。二人で喜ぶ時は、三人で喜んでいると思いなさい。どんな時も、あなたの側には親鸞がいるのです。
おわり