お釈迦様が説いた教えの中で、最も有名なものの一つが、諸行無常です。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
有名な平家物語の冒頭に登場する祇園精舎とは、お釈迦様が布教活動の拠点にしていた寺の名前です。
諸行無常とは、全てのものは移り変わる・永遠に変わらないものなど何一つ無いという教えです。
平家でなければ人ではないとまで言われた栄華も、束の間の夢のように消え去ってしまう。そのような人の世の儚さを、お釈迦様の教えになぞらえて、平家物語は始まります。
いつの世も私達は、若く健康な体を保ち、愛する家族やペットと一緒に、いつまでも変わることなく幸せな毎日を過ごしていたいと願っています。
卒業式では生涯の友情を約束し、結婚式では永遠の愛を誓い、地位や名誉や財産を手に入れた後は、それを守ることに必死になります。
しかし残念なことに、全てのものは諸行無常です。
形あるものは壊れ、生まれたものは死に、出会ったものとは別れなければなりません。
永遠に変わらないものなど何一つ無い。それだけが、永遠に変わらないルールです。
それは、仏教も例外ではありません。
仏教の世界では、正法・像法・末法・滅法という四つの時代を経て、仏教の在り方も変わっていくと考えられています。
正法とは、お釈迦様が人としての命を終えてからの五百年間を指し、教えがあり、教えによって修行する人があり、修行することによってさとりをひらく人がいる時代です。
正しい仏教が存続している期間、それが正法です。
像法とは、正法が終わってからの千年間を指し、教えがあり、教えによって修行する人はいるが、修行することによってさとりをひらく人がいない時代です。
形としては正しい仏教が存続していても、肝心の、仏教の目的であるさとりをひらく人がいない期間、それが像法です。
末法とは、像法が終わってからの一万年間を指し、教えだけはあるものの、教えによって正しく修行する人はなく、当然に、さとりをひらく人もいない時代です。
仏(お釈迦様)の説いた法(仏教)が衰退し、わずかに教えだけが残っている期間、それが末法です。
滅法とは、末法が終わってからの永遠の未来を指し、教えも、修行する人も、さとりをひらく人もいない時代です(注:正法・像法・末法・滅法の時代区分については諸説あります)。
お釈迦様が生きていたのが今から二千六百年前、親鸞聖人が生きていたのが今から八百五十年前ですから、親鸞聖人も現代を生きている私達も、共に、末法の世界を生きているということになります。
仏教が衰退した末法の世界で、私達は、一体何を人生の頼みとすればいいのでしょうか。
親鸞聖人は、このように教えています。
【原文】
五濁悪世群生海
応信如来如実言
能発一念喜愛心
不断煩悩得涅槃
(正信偈:23~26行目)
【意訳】
末法の世界を生きる人々は、お釈迦様の真実の教えである南無阿弥陀仏の念仏を人生の頼みとしなさい。
信心を得て、南無阿弥陀仏の念仏の救いを喜ぶ人は、自分の力でさとりをひらく必要はありません。そのような人は、煩悩を絶やし尽くすことなく、そのまんまの姿で極楽浄土へ往生し、阿弥陀仏の力によって、さとりをひらくことができるのです。
さらに親鸞聖人は、尊敬する高僧の一人である道綽禅師の言葉を元に、このように教えています。
【原文】
三不三信誨慇勤
像末法滅同悲引
(正信偈:89~90行目)
【意訳】
私達が何かを信じようとする心は頼りなく、些細なことで動揺し、アレコレと迷って、すぐに変化してしまいます。
しかし、南無阿弥陀仏の念仏を信じる心は、阿弥陀仏の広大な慈悲によって定まるものだから、落ち着いていて、アレコレと迷うことがなく、決して消えることがありません。
像法・末法・滅法の、どの時代であっても、南無阿弥陀仏の念仏の功徳だけは、変わらずに人々を救い続けていくのです。
仏教を学び、教えの通りに修行をして、人として生きている間にさとりをひらけるのであれば、それが何よりでしょう。
全ての煩悩を絶やし尽くし、あらゆる苦しみから解放されるのですから、これ以上の幸せはありません。
しかし残念なことに、私達が生まれたのは末法の世界です。
親鸞聖人は天台宗の僧侶として二十年間、さとりをひらくために修行をしました。しかし、何をどうしても煩悩が消えることはなく、全ての修行は失敗に終わりました。
末法の世界で、どれだけ修行をしてみたところで、それらは必ず失敗する。それは、親鸞聖人自身が肌身に染みて感じたことだったのでしょう。
そのような末法の世界を生きる人々のために、お釈迦様は南無阿弥陀仏の念仏の教えを残してくれているのだから、ただ南無阿弥陀仏の念仏だけを人生の頼みとしない。
そう、親鸞聖人は勧めているのです。