信心一つで救われる。
それが、浄土真宗の教えです。
その信心とは、誰が、何を信じる「信心」なのでしょうか。
私達が普段「信じる」という言葉を使う時、その主語は決まって私です。
私は、長年連れ添った妻を信じている。
私は、逆境の時に支えてくれた友人のことを、心から信じている。
社長の経営手腕を信じているから、私は安心して仕事に専念できる。
私は将来、この物件の価値が上がると信じて、マイホームの購入を決意した。
このように私達は、沢山の情報や複雑な人間関係の中から取捨選択をして、「これは価値がある」と納得できたものを信じて生きています。
反対に、自分が納得できないものを、私達は信じることができません。
それがどんなに貴重なものであっても、本人が「これは価値がある」と思わない限り、その人にとってはガラクタと同じなのです。
何を、どう信じるのか。
その信じ方は、人それぞれです。
人の数だけ生き方があり、生き方の数だけ信じ方があります。
それでは、浄土真宗で教えられる信心とは、誰が、何を信じる「信心」なのでしょうか。
それは、たとえるなら、どのような川の水であっても、海に流れ着いてしまえば、同じ一つの味(塩味)になるようなものです。
生まれも、育ちも、見た目も、性格も、生き方も、信じ方も、何一つとして同じ人は存在しません。
この世界を生きている全ての命は、たった一つの固有の命を生きています。
それにも関わらず、親鸞聖人は、全ての人は同じ信心を得ると教えています。
その根拠は、どこにあるのでしょうか。
親鸞聖人は、尊敬する高僧の一人である善導大師の教えを元に、こう解説しています。
【原文】
善導独明仏正意
矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁
(正信偈:93~95行目)
【意訳】
善導大師は(当時の中国仏教界において)たった一人、お釈迦様の真意を明らかにし、全ての人は、南無阿弥陀仏の念仏の功徳が因となり縁となることで、信心を得ると教えました。
善導大師は(当時の中国仏教界において)たった一人、お釈迦様の真意を明らかにし、全ての人は、南無阿弥陀仏の念仏の功徳が因となり縁となることで、信心を得ると教えました。
全ての人の信心が同じなのは、その結果(信心を得る)を発生させている因(原因)と縁(条件)が、一つの例外もなく、南無阿弥陀仏の念仏の功徳に由来するからです。
つまり、浄土真宗で教えられる信心とは、私達が何かを信じる「信心」ではなく、阿弥陀仏が私達を信じさせる「信心」なのです。
信心の主語は、あくまでも阿弥陀仏です。
これを、他力の信心と言います。
浄土真宗において、他力とは、全ての人を等しく救い取る阿弥陀仏の力(はたらき)だけを指す言葉です。
それが、どれほどカリスマ性のあるアーティストでも、国を動かすほどの権力者でも、人の力の全ては、等しく自力です。
もしも、自力によって信心を得ようとすれば、その信じ方は、人の数だけ存在するでしょう。
しかし、浄土真宗で教えられる信心は、他力の信心です。
根底にあるものが他力だから、信心を得るまでの過程に違いはあっても、得られる結果は全て同じものになるのです。
このことを親鸞聖人は、尊敬する高僧の一人である天親菩薩の教えを元に、こう解説しています。
【意訳】
天親菩薩は、自身の著書である「浄土論」の中で、阿弥陀仏を心から信じて、私(天親菩薩)の命の行き先は、そのまんま阿弥陀仏にお任せしますと宣言しています。
経典に基づいて、お釈迦様の真意を明らかにし、阿弥陀仏の本願を広く世間に示しました。
天親菩薩は、自身の著書である「浄土論」の中で、阿弥陀仏を心から信じて、私(天親菩薩)の命の行き先は、そのまんま阿弥陀仏にお任せしますと宣言しています。
経典に基づいて、お釈迦様の真意を明らかにし、阿弥陀仏の本願を広く世間に示しました。
回向という変化が起こり、信心を得ることができるのは、阿弥陀仏が完成させた南無阿弥陀仏の念仏の功徳によるものです。
愚かな人も賢い人も、どのような人であっても、南無阿弥陀仏の念仏の功徳に救われたのなら、他力の信心を得るのです。
現代を生きている私達は、科学や医学や経済など、人が作り上げてきた成果こそ価値があるものだと信じて疑いません。
現代を生きている私達は、科学や医学や経済など、人が作り上げてきた成果こそ価値があるものだと信じて疑いません。
そのような私達は、人の力では計ることのできない広大な仏の知恵を、素直に信じることができません。
仏教を聞く機会を得ても、そこに説かれている教えの価値に気づける人は、決して多くはないでしょう。
自惚れやすい私達は、自力ばかりを頼りにして、全ての人が等しく救われる他力の教えを、ガラクタのように聞き流してしまうのです。