全ての人は、無明の闇によって視界を奪われているために、どちらに進むべきか分からず、いつまでも迷い苦しんでいる。

 

親鸞聖人は、そう教えました。

 

それはつまり、無明の闇さえ晴れてしまえば、全ての人は、進むべき方角がはっきりと分かって、迷わずに歩いていけるということです。

 

無明の闇が晴れて、進むべき方角がはっきりと定まる。

 

そのような変化が起こることを、回向(えこう)と言います。

 

回向とは、向きが回ると書きます。

 

それまで、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに夢中になっていた心の向きが、くるりと回って、阿弥陀仏に救われて極楽浄土へ生まれたいという方角にぴったりと定まる。

 

それが、回向です。

 

親鸞聖人は回向について、このように解説しています。

 

【原文】

開入(かいにゅう)本願(ほんがん)大智(だいち)(かい)

行者(ぎょうじゃ)正受(しょうじゅ)金剛(こんごう)(しん)

慶喜(きょうき)一念(いちねん)相応後(そうおうご)

与韋提等獲三(よいだいとうぎゃくさん)(にん)

即証(そくしょう)(ほっ)性之(しょうし)(じょう)(らく)

正信偈96100行目)

 

【意訳】

阿弥陀仏の全ての人を等しく救い取るという願いは、海のように広くて深いものです。この広大な知恵の海に入ると、煩悩まみれの私達の心に、回向という変化が起こります。

それは、阿弥陀仏の力によって起こる変化です。

全ての人は、回向という変化が起こったその時に、韋提(いだい)()と同じように信心を得ることができるのです。

信心を得たということは、極楽浄土へ往生して、さとりをひらける身に成れたということです。

 

親鸞聖人は、回向によって信心を得るということが、一体どういうことなのか、韋提希の例を挙げて解説しています。

 

その韋提希とは、どのような人物で、どのように信心を得たのでしょうか。その過程を、紐解いてみましょう。

 

【要訳】

インドの王舎(おうしゃ)(じょう)に、頻婆(びんば)(しゃ)()(おう)いう王様がいました。

 

頻婆娑羅王と、その妻の韋提希には大きな悩みがありました。それは、世継ぎとなる子供がいないことでした。

 

ある日、頻婆娑羅王は高名な占い師を呼び出して、どうすれば子供が授かるのかと尋ねました。

 

すると占い師は、このように答えます。

 

「山の中に、一人の仙人が住んでいます。この仙人は、今の寿命を終えた後、あなた方の息子として生まれ変わるでしょう」

 

そこで、頻婆娑羅王が尋ねます。

 

「その仙人の寿命は、どのくらいか?」

 

「あと、三年です」

 

頻婆娑羅王から占い師の予言を聞いた韋提希は、とても落ち込みます。

 

韋提希は子供を授かるには高齢で、三年も待てそうになかったからです。

 

そんな韋提希の様子を見ていた頻婆娑羅王は、このような命令を家来に出します。

 

「仙人のところへ行き、早く死んで貰うように頼め。もしも頼みを断るようなら、殺してしまって構わない」

 

結局、この仙人は自害をし、その後、占い師の予言通りに韋提希は子供を授かります。

 

待望の懐妊にも関わらず、頻婆娑羅王の心は晴れません。その心を曇らせていたのは、仙人が自害する前に残した言葉でした。

 

「王様は直接、私を殺しはしなかったが、家来に命じて私を自害へと追いやった。もしも生まれ変わったのなら、私も同じように王様を殺すでしょう」

 

心の晴れない頻婆娑羅王は、再び占い師を呼び出して、どのような子供が生まれるのかと尋ねました。

 

すると占い師は、このように答えます。

 

「生まれるのは、男の子です。しかし大人に成長すると、この子は王様を害するようになるでしょう。なぜか分かりませんが、この子は生まれる前から、王様に恨みを持っています」

 

この答えに、頻婆娑羅王の顔は青ざめます。

 

そして、いよいよ韋提希が臨月を迎える頃、頻婆娑羅王は、我が子を殺す決意を固めるのです。

 

頻婆娑羅王は占い師の予言を韋提希に伝えると、穴の中に子供を産み落とすよう命じます。

 

その穴の底は剣で埋め尽くされていて、穴に落ちた子供が、剣に突き刺さって死ぬ作りになっていました。

 

しかし、産み落とされた子供は、片方の小指を切り落としただけで奇跡に助かったのです。

 

穴の中から聞こえてくる泣き声に、我に返った頻婆娑羅王と韋提希は、そっと我が子を拾い上げます。

 

そうして、生まれながらに小指を失った子供は()(じゃ)()と名付けられ、頻婆娑羅王韋提希によって大切に育てられました。

 

月日は流れ、阿闍世は青年へと成長しました。

 

ある日、阿闍世は悪友にそそのかされて、自分が小指を失った理由を知ってしまいます。

 

その顛末に怒り狂った阿闍世は、頻婆娑羅王を牢に閉じ込め「水も食料も与えるな」と家来に命じます。

 

しかし何日経っても、頻婆娑羅王が餓死する気配はありません。

 

不審に思った阿闍世は、家来に理由を調べさせます。

 

すると、頻婆娑羅王に面会をしていた韋提希が、密かに、食料を運んでいたことが分かります。

 

これを知った阿闍世の怒りは、さらに激しく燃え上がります。

 

そうして、父だけではなく、母である韋提希も、王宮の奥へと閉じ込めてしまうのです。

 

この一連の出来事に、身も心も疲れ果てた韋提希は、お釈迦様に助けを求めます。

 

その求めに応じて、お釈迦様が韋提希の元を訪ねると、韋提希は、このように願い出ます。

 

「私は、何の罪があって、あのような悪い子を産んだのでしょうか。私は、このような濁りきった世界にいたくありません。もう二度と、悪い人を見たくありません。どうか私に、清らかな世界を見せて下さい」

 

その願いに応じて、お釈迦様は仏の知恵でもって、様々な仏の国を韋提希に見せます。

 

「お釈迦様が見せて下さった仏の世界は、どれも清らかで光り輝いています。私は、その中でも阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと思います」

 

「韋提希よ、あなたは愚かで、力も弱く、遥か遠くを見通すことができない。しかし、仏には特別な手立てがあって、あなたにも極楽浄土の姿を見せることができるのです」

 

「それでは、お釈迦様から直接教えを聞くことができない後世の人々は、どうしたら極楽浄土の姿を見ることができるのでしょうか」

 

そこでお釈迦様は、全ての人を九種類に分けて、それぞれに合った極楽浄土へ生まれる方法を説いて聞かせます。

 

その種類とは、上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)の三つと上生(じょうしょう)中生(ちゅうしょう)下生(げしょう)の三つを組み合わせた、上品(じょうぼん)上生(じょうしょう)から下品(げぼん)下生(げしょう)までの九つです。

 

この九種類の中で最も下の位に当たるのが、下品下生の人です。

 

五逆の罪をはじめ、様々な悪い行いをしている下品下生の人は、その行いが悪い原因となり、三世因果の道理の中で果てしなく長い間苦しみ続けなければなりません。

 

この愚かな人が命を終えようとする時、善知識に出会い、正しい教えを聞く機会を得ます。

 

しかし、この愚かな人は臨終の苦しみにさいなまれて、正しい教えを聞くことができません。

 

そこで善知識は、この愚かな人に「ただ南無阿弥陀仏と念仏をしなさい」と勧めます。

 

この愚かな人が心から声を上げ、南無阿弥陀仏と十回念仏を唱えると、その一声一声が善い原因となって、それまで積み重ねてきた罪が除かれます。

 

そうして命を終えると、この愚かな人は極楽浄土へ救い取られ、そこに咲く蓮の花の蕾の中に生まれます。

 

それから果てしなく長い時を経て、やっと蓮の花が開くと、この愚かな人の目の前には菩薩が立っています。そうして菩薩は、その慈しみ溢れる声で、正しい教えを説いて聞かせます。

 

この愚かな人は、ついに正しい教えを正しく聞くことを得て、さとりをひらくことができるのです。

仏説(ぶっせつ)(かん)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 

韋提希が極楽浄土の姿を見て、阿弥陀仏に救われて極楽浄土へ生まれたいという願いを起こす(=信心を得る)までの物語を「王舎城の悲劇」と呼びます。

 

この物語で大切なことは、お釈迦様の教えによって信心を得た韋提希が、お釈迦様のいない時代の人々でも、極楽浄土へ救われることができるのかと尋ねたところにあります。

 

お釈迦様は、遠く離れた未来を生きる私達であっても、南無阿弥陀仏の念仏さえあれば、極楽浄土へ救われることができると教えているのです。