親鸞聖人は、正しい教えに出会うことの難しさを、こう書き残しています。
【原文】
善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
(浄土和讃)
【意訳】
善知識に会うことも、それを人に教えることも難しい。ましてや、善知識の教えを正しく聞いて、信じることができるというのは、最も難しいことだ。
善知識とは、真実の仏教、正しい教えを説いてくれる人のことです。
早くに両親を亡くした親鸞聖人は、わずか九歳で出家をし、天台宗の僧侶となりました。それから二十年間、比叡山で厳しい修行をし、それでも真実の仏教に出会うことができずに、泣く泣く山を下りました。
そして京都の町で、浄土宗の開祖である法然上人と出会い、ついに真実の仏教を聞くことができたのです。親鸞聖人にとっては、法然上人こそが善知識そのものだったのでしょう。
善知識に出会うということは、お釈迦様の時代でも、親鸞聖人の時代でも、ネット社会になった現代でも、決して簡単なことではないのです。