全ての人は、無明の闇によって視界を奪われているために、どちらに進むべきか分からず、いつまでも迷い苦しんでいる。

 

その無明の闇を晴らして、私達を不安から根本的に救ってくれるものが、阿弥陀仏の放つ光である。

 

親鸞聖人は、そう教えています。

 

それでは、無明の闇とは、一体何が、どのように暗い状態のことを指すのでしょうか。

 

無明の闇とは、人の心が道理に暗い状態にあるということです。

 

それでは、道理とは何でしょうか。

 

道理とは、この世界を形作っている原理原則のことです。

 

お釈迦様は、いつも煩悩に目を眩ませている私達が、大切なことに気づくようにと、三世因果の道理を説き、極楽浄土の姿を説いた上で、三世因果の道理を断ち切って、極楽浄土へ救われなさいと教えました。

 

この世界が、本当はどんな姿をしているのか。そこで生きている私達が、本当はどんな有り様なのか。

 

そのことに私達が気づき、今の一生で何をすべきか、人生で最も優先されることは何なのかを知るためには道理が必要です。

 

私達の心は誘惑に弱く、道理が無いことには、本当のことに気づくことができません。

 

常に煩悩という深い海の底に沈んで、あれも欲しい、これも欲しいと苦しみ続けるのです。

 

そして多くの場合、私達は、自分が海の底に沈んでいることにさえ、気づくことができないのです。

 

生きている間が花なのだから、自分らしく、好きなように、生きたいように生きていればいいと、自信満々に胸を張っている人や自分を、どこかで見かけたことがないでしょうか。

 

どれだけ生きていることを楽しんでみても、 人生の終わりは死です。

 

生きている私達にとって最大の不安である死が、必ず最後に待っている人生の「今」が、果てして、幸せなものになるのでしょうか。

 

私達は誰でも、死という最悪の結末に向かって突き進んでいる物語の主人公です。

 

それにも関わらず、私達は、死という問題と真剣に向き合うことをしません。

 

死という問題など解決するはずがないと決めつけて、問題を丸投げにしているのです。

 

そのような生き方をしている私達が、本当はどんな有り様なのか。お釈迦様の教えに、このような話があります。

 

【要訳】

ある時、盗みや殺人など様々な罪を犯した悪人が、ついには自分の命を奪われて地獄へ堕ちました。

 

そこで悪人は、閻魔大王の裁きにかけられます。

 

閻魔大王が、悪人に尋ねます。

 

「お前は生きている間に、三人の天使に会わなかったか?」

 

悪人は答えます。

 

「いいえ、私はそのような天使には会っていません」

 

「それでは、お前は生きている間に、年老いて枯れてゆく人を見なかったか?」

 

「大王よ、そのような老人であれば、私は沢山見てきました」

 

「お前はそのような天使に会い、自分も老いなければならない身の上であるということを学ばずに、善を急がず悪ばかりをはたらいた。だから、地獄へ堕ちたのだ」

 

閻魔大王は、さらに尋ねます。

 

「お前は生きている間に、病に苦しむ人を見なかったか?」

 

「大王よ、そのような病人であれば、私は沢山見てきました」

 

「お前はそのような天使に会い、自分も病まなければならない身の上であるということを学ばずに、善を急がず悪ばかりをはたらいた。だから、地獄へ堕ちたのだ」

 

閻魔大王は、続けて尋ねます。

 

「お前は生きている間に、死んでいく人を見なかったか?」

 

「大王よ、そのような死人であれば、私は沢山見てきました」

 

「お前はそのような天使に会い、自分も死んでいかなければならない身の上であるということを学ばずに、善を急がず悪ばかりをはたらいた。だから、地獄へ堕ちたのだ」

アングッタラニカーヤ

 

人は、みんな鏡です。

 

この世界で誰かに起きた出来事は、当然に、自分にも起こりうる出来事です

 

この世界の全てのことは、明日は我が身です。

 

けれど私達は、先に旅立って逝った多くの人達を目にしながら、自分だけは特別だという勘違いを止めることができません。

 

いつかは自分も死んでいかなければならないと、知識の上でだけは知っていても、まさかそれが今日ではないと勝手に思い込んでいるのです。

 

そして、明日になればまた、まさか今日死ぬことはないと思うのです。

 

一体、いつの今日なら死ぬ「私」だと言うのでしょうか。

 

そのように、右も左も、上も下も、自分が道理に暗いことも、何もかもを見えなくさせているのが、無明の闇です。

 

その無明の闇を、明るく照らしてくれる光があるのだから、早く、阿弥陀仏に救われて安心しなさい。

 

そう、親鸞聖人は勧めているのです。