全ての人を等しく救い取るという阿弥陀仏の願いのことを、本願と言います。この本願を完成させたことにより、阿弥陀仏という仏は誕生しました。

 

しかし、全ての人を等しく救い取ると誓った阿弥陀仏の本願にも例外があります。その例外は、本願中の本願である第十八願の末尾に書かれています。
 
【原文】

(せつ)()得仏(とくぶ) 十方(じっぽう)衆生(しゅじょう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう) 欲生(よくしょう)我国(がこく) 乃至(ないし)(じゅう)(ねん) (にゃく)()生者(しょうじゃ) 不取(ふしゅ)正覚(しょうがく) 唯除(ゆいじょ)()(ぎゃく) 誹謗(ひぼう)正法(しょうほう)

仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 
【意訳】
わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、全ての人々が心から信じて、わたしの国である極楽浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もしも生まれることができないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。ただし、五逆という恐ろしい罪を犯した人と、正しい教えを誹謗する人だけは、この誓いから除かれます。
 
五逆とは、仏教において最も重いとされる五つの罪のことです。
 
その罪とは、父を殺すこと、母を殺すこと、聖者を殺すこと、仏を傷つけること、教団を破壊することの五つです。
 
第十八願の末尾には、この五逆の罪を犯した人と、正しい教えを誹謗中傷する人だけは、阿弥陀仏の本願から除かれると書かれています。
 
その一方で、お釈迦様は、阿弥陀仏の本願からも除かれる五逆の罪を犯した人であっても、極楽浄土へ救われる道があると教えています。
 
それは、どんな方法なのでしょうか。
 

お釈迦様は、極楽世界へ救われる人は、全部で九種類に分類されると教えています。

 

その種類とは、上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)の三つと上生(じょうしょう)中生(ちゅうしょう)下生(げしょう)の三つを組み合わせた、上品(じょうぼん)上生(じょうしょう)から下品(げぼん)下生(げしょう)までの九つです。

 
その九種類の中で最も下の位に当たるのが、五逆の罪を犯した下品下生の人です。その下品下生の人は、どのようにして極楽浄土へ救われるのでしょうか。お釈迦様は、このように教えています。
 
【要約】
五逆の罪をはじめ、様々な悪い行いをしている下品下生の人は、その行いが悪い原因となり、三世因果の道理の中で果てしなく長い間苦しみ続けなければならない。
 
この愚かな人が命を終えようとする時、善知識出会い、正しい教えを聞く機会を得る。しかし、この愚かな人は臨終の苦しみにさいなまれて、正しい教えを聞くことができない。
 
そこで善知識は、この愚かな人に「ただ南無阿弥陀仏と念仏をしなさい」と勧める。この愚かな人が心から声を上げ、南無阿弥陀仏と十回念仏を唱えると、その一声一声が善い原因となって、それまで積み重ねてきた罪が除かれる。
 
そうして命を終えると、この愚かな人は極楽浄土へ救い取られ、そこに咲く蓮の花の蕾の中に生まれる。
 
それから果てしなく長い時を経て、やっと蓮の花が開くと、この愚かな人の目の前には菩薩が立っている。菩薩は、その慈しみ溢れる声で、正しい教えを説いて聞かせる。
 
この愚かな人は、ついに正しい教えを正しく聞くことを得て、極楽浄土の住人の仲間入りを果たす。

仏説(ぶっせつ)(かん)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 
一方では、五逆の罪を犯した人と、正しい教えを誹謗中傷する人だけは、阿弥陀仏の本願から除かれると教え、もう一方では、阿弥陀仏の本願からも除かれる五逆の罪を犯した人であっても、極楽浄土へ救われる道があると教えている。

理屈から考えれば、この二つは明らかに矛盾しています。
 
なぜ同じ仏教の中で、このような矛盾する教えが説かれているのでしょうか。
 
その答えを知るヒントが、お釈迦様の教えの中に残っています。
 
【要約】
ある村に、キサーゴータミーという若い婦人がいました。
 
キサーゴータミーは、初めての子供を授かり、幸せ一杯の日々を過ごしていました。
 
しかし、ある朝。
 
最愛の我が子は、あっけなく息を引き取ってしまいます。キサーゴータミーの心は、深い悲しみに沈みました。
 
どうしても我が子の死を受け入れられないキサーゴータミーは、もう冷たくなった我が子を胸に抱えると、オロオロと歩き始めます。
 
「誰か、この子を生き返らせる薬を持っていませんか?」
 
あちらの村、こちらの村と、さまよい歩くキサーゴータミーは、まるで夢遊病者のようでした。
 
その姿に心を痛めた一人の村人が、キサーゴータミーに声をかけます。
 
「お釈迦様を訪ねてみなさい。きっと善い薬を下さるよ」
 
キサーゴータミーは、我が子を生き返らせることができるに違いないと思い、一目散にお釈迦様の元へ向かいます。そして、お釈迦様に懇願します。
 
「どうか、この子を生き返らせる薬を下さい」
 
キサーゴータミーの様子を静かに見ていたお釈迦様は、こう返事をします。
 
「分かりました。その子を生き返らせる薬を作ってあげましょう。その薬を作るためには、ケシの実が必要です。これから村の家々を訪ねて、ケシの実を貰ってきなさい」
 
これで我が子が生き返る。ケシの実を貰いに行かなければ。はやる気持ちを抑えきれないキサーゴータミーに、お釈迦様は、こう付け加えます。
 
「ただし、死人を出したことのある家のケシの実では、薬は作れません。死人を出したことのない家からケシの実を貰ってくるのですよ」
 
キサーゴータミーはお釈迦様の話を聞き終えると、急いで村へ戻り、家々を訪ね歩きました。
 
当時、ケシの実はどこの家にでもある品物でしたが、死人を出したことのない家など、どこにもありませんでした。
 
「一昨年、祖父が他界しました」
「昨年、主人が亡くなりました」
「一週間前、息子が病死したばかりです」
 
聞こえてくるのは、そんな声ばかりです。家々を訪ね歩き、疲れ果て、立ち尽くしたキサーゴータミーは、はたと気づきました。
 
死んでしまったのは、我が子だけではない。愛する者を亡くした悲しみを背負っているのも、私だけではない。人は必ず死ななければならない。
 
そう気づいたキサーゴータミーは、冷たくなった我が子を優しく埋葬すると、お釈迦様の元へ向かい、出家を願い出て、お釈迦様の弟子になりました。
(ダンマパダアッタカター)
 
キサーゴータミーが最初にお釈迦様の元を訪ねた時、お釈迦様が「人は必ず死ぬものですよ。人を生き返らせる薬などありません」と答えていたら、一体どうなっていたでしょうか。

人は必ず死ななければならないという真実に、キサーゴータミーが気づくことはなかったでしょう。
 
死人を出したことのない家からケシの実を貰ってくるという、一見無駄とも思える過程は、悲しみに沈むキサーゴータミーの目を覚まさせ、真実へと導いていくために、どうしても必要な過程だったのです。
 
お釈迦様は、それら全てを見通していたからこそ、キサーゴータミーにケシの実の話をしたのでしょう。
 
このように煩悩具足の凡夫である私達は、単に真実だけを聞いても、それを正しく聞くことができません。それが愛する我が子の死となれば、なおさらです。
 
人は必ず死ななければならない。そんな単純な真実でさえ、いざ我が事となれば、あっという間に正しい判断ができなくなってしまう。それが、煩悩具足の凡夫である私達です。
 
キサーゴータミーと同じ立場になった時、人は必ず死ななければならないと、我が子の死をすんなりと受け入れられる人がいるでしょうか。
 
そんな人は、一人もいないのです。
 
キサーゴータミーにケシの実の話をしたように、お釈迦様の教えには、煩悩具足の凡夫である私達を救うために、必要不可欠な過程を説いたものが数多くあります。
 

この必要不可欠な過程のことを、方便(ほうべん)と言います。

 
煩悩具足の凡夫である私達は、方便を通らない限り、真実の仏教に出会うことができません。その上、私達の心の有り様というものは人それぞれで異なりますから、説かれる方便もまた、一人一人に合った形に工夫する必要があるのです。
 
だからこそ、お釈迦様はその生涯の大半を、方便を説くことに費やしたのでしょう。
 
お釈迦様が仏の知恵でもって、煩悩具足の凡夫である私達一人一人に合わせて工夫した方便だけを取り上げて比較してみれば、そこに矛盾が存在するのは当然です。
 
方便という矛盾の中に、真実がある。それが、仏教です。そのことを親鸞聖人は、このように教えています。
 
【原文】

(しん)()()らざるによりて、如来(にょらい)広大(こうだい)(おん)(どく)(めい)(しつ)す。

(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)

 
【意訳】
(ほとんどの人は)真実と方便の違いを知らないことによって、広大な仏の慈悲に出会うことができず、いつまでも迷い続けている。
 
煩悩具足の凡夫である私達は、本願中の本願である第十八願だけを聞いても、それがどんな救いで、どうすれば救われるのか、真実に気づくことができません。
 
しかし、キサーゴータミーの時のように、煩悩具足の凡夫である私達一人一人に合わせて方便を説いてくれるお釈迦様は、もうこの世にはいません。
 
お釈迦様から直接教えを聞くことができない私達は、どうすれば真実の仏教に出会い、極楽浄土へ救われることができるのでしょうか。
 
その点については、次回の記事で触れていきたいと思います。