人間関係を流れる慈悲と情 | 神様達と共に

神様達と共に

神様達は確かに実在していて・・・
僕らの心に愛と智慧を持って・・・アプローチしてくれています・・・
このブログではそんな神様達のメッセージを・・・
チャネリングでお届けさせて頂きます

 

少し前の記事「慈悲と誇り」では、今の時期、多くの方が「慈悲」の中に「誇り」を蘇らせようとしているのではないか・・・と、お伝えしました。

 

 

アセンション前までの地球は犠牲の時代でしたので・・・・、ボランティアで地球にやって来た魂達は地球の魂と共に犠牲のプロセスを歩んできました。

 

ですから、当時はただ生きるだけでも犠牲の経験がビシバシやって来て、しんどい時代でしたよね・・・(TωT)

 

 

しかし、アセンション後の現在、地球はすでに慈悲のプロセスを歩んでおり、ボランティアの魂達の多くも慈悲のプロセスを歩み始めております黄色い花

 

 

このような変化の中で、自分の生き方が自然と「犠牲」⇒「慈悲」と変化していくような・・・そのための経験がいろいろとやって来ている方も多いと思います。

 

「犠牲」を終えるために、あえてしっかりと犠牲と向き合う経験や・・・。

 

より深く「慈悲」を知るために、人の心により深く関わる経験や・・・。

 

逆に、もう「犠牲」にならないために、自分に「慈悲」を向けるための経験など・・・。

 

その変化は多種多様だとは思いますが、特に大きなポイントは共通しているように感じています。

 

 

大きなポイントの一つとして・・・、この記事のタイトルにもしました「人間関係を流れる慈悲と情」・・・を、よく見分けることが挙げられると思うのですひらめき電球

 

 

皆様も聞いたことがあると思うのですが・・・。

 

例えば、「情をかけすぎてはいけない」とか、言いますよね・・・∑(゚Д゚)

 

確かに・・・、相手に「情をかける」ということは、「犠牲」と深く結びついている様な感じがします。

 

 

でも、この人に「情をかける」ことと、「慈悲」を持って向き合うことはどう違うのでしょうか?

 

 

ここをよく理解することは、おそらく「犠牲」を越える上でも、「慈悲」を知る上でもとても大切なことですよね。

 

ただ、「情」にせよ「慈悲」にせよ、その主なものは目には見えない心の動きですから・・・。

 

それぞれのお心の感覚によって理解すべき領域が大きく・・・、実は言葉だけでの説明は難しいのですが・・・。

 

 

やはり、非常に大切な内容だと思いますので、今日はあるじと一緒に、可能な限り掘り下げてみようと思います(^^)

 

少しでもヒントになる部分がありましたら幸いですブーケ2

 

(ちなみに、今年3月に発売した「通信版 犠牲を越えるために」では、この「情」についてとても詳しくお伝えしておりす。

こちらは来月9月か10月には再販売する予定ですので、その時にタイミングを感じて下さりましたら、どうぞよろしくお願いしますプレゼント

 

 

おーい、あるじぃ~(* ̄Oノ ̄*)

 

 

あるじ「うむ・・・そこは実に有意義な話題だな。

 

今の時期、多くの人がその部分で悩んでおる・・・。

 

人間関係の中で、どこまでが『情』であり、どこまでが『慈悲』なのか・・・。

 

ピースも言っているとおり、実はこの部分は言葉だけでは厳密には定義できない。

 

なぜならば、まったく似たような人間関係だったとしても、その背景に流れている因縁やエネルギーはそれぞれまったく異なることが多いのだ。

 

例えば・・・過去世で相手のことを嫌いだったり、逆に好きだったり・・・。

 

他にも、潜在的な課題がよく似ている同士だったり、真逆の課題を持っている同士だったり・・・。

 

実は、非常に多くの複雑な要素が人間関係の根底に潜んでいて・・・、多くの場合、それに気付かずに関係性を築いているものなのだ。

 

だから表面的な関係性や、言葉のやり取りだけを見ても、その辺の奥深い領域はわからない。

 

それ故に、それぞれの心で・・・それぞれの関係性について感じるところ・・・が、まさに大切なのだ。

 

そこはな、各々よく踏まえて、この文章を読んでほしい。」

 

 

うん・・・やっぱりそうですよね。

 

仲良し同士が、さらに仲良くなるために、一時的に仲違いしているのか・・・。

 

もしくは、もう歩むべき道が違う人同士が、それぞれ別の道を歩むために仲違いしているのか・・・。

 

例えば、それだけの違いでも、課題を越えた先は、まったく真逆の結末になると思います。

 

 

あるじ「うむ・・・そうだな。

 

今の時期に、特に多いのは魂的な『道が違う』が故に、あえてその人と深く関わっているケースだ。

 

その場合は、もうあまり深く関わる必要はなく、あくまでも自分なりに誠実に相手と向き合い・・・自分が気づくべき事に気付けたならばそれでよいのだ。

 

魂的な『道が違う』ということは、例えば自分がもう慈悲のプロセスに進もうという時に、相手はまだ犠牲のプロセスを終えていない・・・というケースだな。

 

実は、このケースが今、非常に多いのだ。

 

だから、ピースが慈悲と誇りという記事を書いたな。

 

もう慈悲のプロセスを歩む者は、誇りを持ち、心から願う方向に堂々と進んでよい・・・というわけだ。

 

ただ、だからと言って、相手を冷たく否定したり、自分はもう慈悲のプロセスだと、上から目線で差別してはいけない。

 

慈悲とは何かと言えば・・・。

 

相手の心の奥にある魂の純粋さ・・・、その素晴らしさに気付いているからこそ生まれてくる、あたたかいエネルギーのようなものだ。

 

相手の心をよく感じ・・・。

 

その痛み・・・悲しみ・・・不安を裁くことなく受け止め・・・。

 

心から相手の幸せを願っている時・・・。

 

自然と相手の魂が純粋に・・・健気に頑張っているさまが伝わってくることがあるのだ・・・。

 

それは本当に尊く・・・美しいものだ・・・。

 

つまり慈悲とは、必ずしも自分だけのエネルギーではないのだ。

 

相手の心の奥にある純粋な魂の領域を感じ・・・それによって、自らの内なる慈悲のエネルギーが共鳴して引き出されるものなのだ・・・。

 

だから、慈悲深い人ほど、よく人と向き合ってきた経験を持っているものだ。

 

それ故に・・・慈悲には、必ず相手への尊敬も含まれている・・・。

 

この地球で生きるということは、それだけでも辛く・・・苦しいものだ・・・。

 

特に犠牲のプロセスを歩となればなおさらだ・・・。

 

だからこそ、相手が犠牲のプロセスを歩まねばならないと気付いたのならば、自然と慈悲と尊敬を持って送り出すことが出来るだろう・・・。」

 

 

そうですね・・・。

 

これがなかなか難しいこともあるんですけどね・・・(*´Д`)=з

 

特にあるじの言う「その痛み・・・悲しみ・・・不安を裁くことなく受け止め・・・。」という部分は、それを感じているとこちらも苦しいですから・・・。

 

でも、それを簡単に壁を作って止めちゃうと、せっかくの慈悲が出てきませんし・・・。

 

結局、また時間を空けて同じような課題がやってくることになります。

 

だから自分自身の中で、ちゃんと向き合うべきだと感じる分は、誠実に向き合った方がいいのですよね・・・。

 

 

あるじ「その通りだな・・・。

 

それによって、相手への慈悲心が湧き・・・自らの課題をクリアーすることが出来る。

 

その後は、神々が調和へと導いてくれるはずだ。

 

そしてな、ピースの言うとおりで、そのプロセスの中で、もっとも大変なのは相手のさまざまなマイナス感情を受け止めることだろう。

 

『情』というものは、つまり『喜怒哀楽』という言葉で表されることがあるがな。

 

『喜び』にせよ、『怒り』にせよ、『哀れみ』にせよ、『楽しさ』にせよ・・・、それが自然なものであれば何の問題もなく、人間が自らの心を自由に表現し、他人とエネルギー交流するために必要で、大切なものだ。

 

しかし、それぞれの情のエネルギーがあまりに過ぎてしまえば、それは過ぎた情であり・・・マイナス感情を伴った『過情』となってしまう。

 

これは、以前やった企画でも詳しく説明していたな。

 

人はな、多くの場合、この過情が故に・・・人間関係の調和を壊してしまうものなのだ。

 

もし、相手のどんな感情も、力強い慈悲を持ってあたたかく受け止めることができたら・・・。

 

その人の周りには、きっと多くの仲間が集まることだろう。

 

逆に言えば、過情が故に・・・人は人間関係を上手く調和させることができないものなのだ。

 

『喜び』の過情は優越感となり、相手の優越感や劣等感を刺激し・・・。

 

『怒り』の過情は攻撃性となり、相手の心に否定的なエネルギーをぶつけ・・・。

 

『哀れみ』の過情は愚痴となり、相手に不安や憂いのエネルギーを背負わせ・・・。

 

『楽しさ』の過情は堕落となり、相手の心にも堕落への誘いを届ける・・・。

 

しかし・・・、それは必ずしも『悪』ではない。

 

人間は誰しも生きていれば、辛いこと・・・悲しいこと・・・苦しいこと・・・受け入れがたいことがある・・・。

 

そんな時に、お互いに支え合うことは必要なことだ。

 

もし相手の過情を感じた場合・・・、大切なのは出来るだけ自分が同調したり、反発しないように気をつけつつ・・・、出来る限り慈悲で受け止め、あたたかく対応すること・・・。

 

すると、自分の慈悲は磨かれるし、受け止めたマイナスエネルギーは自らの徳へと還元される。

 

そしてもし逆に、自分が相手に慈悲で対応してもらったと感じたのならば、素直に感謝と、謝罪を伝え合える関係になること・・・。

 

こういった関係性こそが調和的であり、理想的だな。

 

自分だけが幸せになるのではなく、相手と共に幸せになる・・・。

 

そんな視点と方向性を持つことで、このような関係性を自然と築けるようになってくるはずだ。

 

これはな、実は『慈悲』の大きな特徴でもある。

 

『慈悲』が育まれるほどに、人は他人と『共存』し、自然と協力し合う関係性を築けるようになってくるのだ。

 

すると、少しでも恩を感じたなら自然と相手に感謝し・・・、少しでも相手に負担を届けたと感じたなら自然と相手に謝罪する・・・そんな心の豊かさが生まれてくるわけだ。

 

逆にいつまでも過情を手放せず・・・『情』に捕らわれていると、他人と『相反』することになる。

 

過情が強ければ強いほど、自分だけがこんなに辛くて、自分だけが苦しいと錯覚してしまうものだ・・・。

 

そして、こんなに辛いのだから自分は支えともらって当たり前・・・となり、さらに自分を否定する者がとても憎らしく思えてくるのだ。

 

すると必ず、その波動に引き寄せられるかのように、その人の周りには敵が現れてくることだろう。

 

もしその敵と衝突することがあれば、お互いの『相反』する過情をぶつけ合い、それによって過情を発散し、浄化するプロセスを通過することが出来る。

 

もしくは、謙虚に攻撃を受け止め、内省することで自らの過情を癒し・・・それによって犠牲のプロセスを進めることもあるだろう。

 

いずれにしても、過情を浄化しきった後になって・・・、やっとその奥にある本当に大切なことに気づけるものなのだ・・・。

 

それこそが『慈悲』・・・かもしれないな。

 

また・・・。

 

その『慈悲』には、『孤高』という側面もある。

 

相手の心からの自立と幸せを願う時、あえて相手が犠牲のプロセスを歩むこと・・・つまり苦労を経験することが大切だとわかる時があるのだ・・・。

 

どんな魂も、この地球に生まれて来たということは、自らのその輝きに誇りを持ち・・・。

 

自らの力によって、困難を乗り越えると決意して生まれて来ている。

 

だから、相手のその尊い選択・・・美しい命の輝きを感じた時に・・・心から感動するものなのだ・・・。

 

すると、その相手からソッと身を引いて・・・慈悲を持ち、相手の自立を願い・・・信じるて待つことこそが、相手のためになるとわかるようになる。

 

一方で・・・。

 

『情』には『癒着』という要素が必ず絡んでくる。

 

多くの過情を抱えるほどに、人はこの世界でたった一人で生きることが耐えられないものなのだ。

 

その苦しみを少しでも和らげてくれる人が側にいてほしい・・・。

 

そう願い、自分の身内・・・自分の味方を作ろうと必死になる者も多い・・・。

 

嫌いな人間には『相反』し・・・、好きな人間にはあの手この手で結束の絆を強めるように『癒着』を画策する・・・。

 

人間の世界にある、いじめというのは、ほとんど全てがこのような過情の『癒着』と『相反』の法則によって起きているものだろう。

 

他にも『癒着』には、お互いの心の問題とは向き合うことなく・・・一緒に現実逃避して慰め合うような関係性や・・・。

 

優越感を感じたいが故に、特定の誰かや何かを結束して否定し合うような関係性もあるだろう・・・。

 

このブログの読者は、そのような者達を見ていて心が痛くなる者も多いだろうな・・・。

 

しかし・・・。

 

時代は変わっていく・・・。

 

地球はもう、慈悲の時代に入り・・・、自らの欲望・・・潜在的な恐れの影響力のままに『相反』・・・『癒着』してきた関係性は段階的に滅んでいく定めだ・・・。

 

わかるだろうか・・・。

 

つまり、最初に説明した『道が違う』が故の別れというのも、この辺に理由があるのだ。

 

もし・・・これを読んでいるそなたが、慈悲のプロセスを歩んでいると感じるなら、相手の『相反』を気にすることはないし、相手の『癒着』にも同調しなくてよいのだ・・・。

 

その方が、相手の自立のためになるのだ。

 

魂は慈悲のプロセスに入ると、このような『情』の在り方に自然と違和感を覚え、自分にはもう必要のない関係だと感覚的に理解することが出来るようになる。

 

だから、それでいいのだよ。

 

勇気を持って・・・・そして、誇りを持って・・・自分の心から願う道を歩むがよい。

 

『慈悲』で生きることは、『孤高』であり、同時に『共存』でもある。

 

この二つは矛盾しているようだが、違うのだ。

 

つまり・・・お互いに慈悲のプロセスを歩む者同士の場合は深いレベルで心を響かせ合う『共存』が可能になるし、犠牲のプロセスを歩む者に対しても慈悲と尊敬を持って、距離を保ちながら・・・やはり『共存』することが出来るようになるのだ。

 

つまり、周囲から敵がいなくなっていくのが慈悲のプロセスであり、慈悲のプロセスを歩めば歩むほど、ごく自然とそうなっていくものなのだ。

 

この変化のために焦ることはなく、まずは自らの心を大切に・・・そして、一つ一つの現実を出来るだけ慈悲の心で受け止めていけばいい・・・。

 

この時期に、これを読む慈悲のプロセスを歩む者が、少しでもスムーズに先に進めるように・・・願っておるぞ・・・。

 

そしてもし、そなたがまだ犠牲のプロセス歩んでいる・・・と感じる場合も、気落ちすることはない。

 

犠牲のプロセスというのは、必ずしも自分を否定したり、否定されたりするプロセスとは限らない。

 

例えば、周囲から評価されずとも地道にコツコツ仕事をすることも、立派な犠牲のプロセスだ。

 

他にも、大好きな人や家族に心を込めて何かを届けたり・・・。

 

相手の過情を謙虚に受け止め、出来るだけ落ち着いて対応したり・・・。

 

そういう努力も全て魂を磨くことになり、犠牲のプロセスを進めることになる。

 

慈悲のプロセス、犠牲のプロセス、いずれにしても現実が自然と、そなたの魂に合った経験を用意してくれることだろう。

 

だからな、どのプロセスを歩んでいたとしても、自らの心を信じ・・・ただ真っ直ぐに・・・前向きに進めばよいのだ。

 

人と比べることはない・・・。

 

自分の中に全てがちゃんと宿っている・・・。

 

そう信じなさい・・・。

 

そして、誰の心にも、そなたを守り・・・導き・・・愛し続けいる高次元の存在が必ずいるものだ・・・。

 

『癒着』を避けるために、あえてハッキリと姿は現さないかもしれないが・・・それはそなたの心の力を信じているが故なのだ。

 

そなたがそなたの心を信じ・・・真っ直ぐに生き続けた時に・・・。

 

必ずいつか、自分がこんなにも愛されていたと・・・こんなにも全て許されていたと・・・気付き・・・感動に満ち溢れる時が来るだろう。

 

ワシもそう気付いてくれると信じ・・・願っている一人なのだ。

 

そなたの道は、誰も否定することは出来ない、尊く・・・素晴らしい道だ・・・。

 

歩みきれば、必ず祝福が待っている・・・。

 

どんな困難があっても、自らの心を信じ・・・歩み続けてほしい・・・。

 

読んでくれてありがとう。」

 

 

あるじ、ありがとうございました(^^)

 

 

いやぁ・・・、奥深い内容でしたね・・・。

 

情(過情)は『癒着』と『相反』の在り方であり・・・。

 

慈悲は『孤高』と『共存』の在り方ですかぁ・・・。

 

いやぁ、まったくその通りだなぁと感じます∑(゚Д゚)

 

この部分は特に、3月に発売した「通信版 犠牲を越えるために」とは、ちょっと違った視点からのアプローチでした。

 

 

これは犠牲のプロセスであれ、慈悲のプロセスであれ、魂を磨いていく上でとても大切な理解かもしれませんね。

 

自分にとってもう必要ないと感じる『癒着』や『相反』の関係性からは離れていい・・・。

 

それが、まだ自分にとって自然だと感じるのならば必要なのでしょうが・・・。

 

その感覚の違いによって、お互いの『道が違う』ということもあるのでしょう。

 

ケースバイケースなので、なかなかズバッと切り込みづらい部分ですが・・・、よく理解することで人間関係を整理し・・・。

 

より自分らしい生き方を確立するためのヒントにもなる内容かなぁと思いますベル

 

 

この内容が、あなた様のお心の歩みを進めるお力となる部分がありましたら、とても幸いに思います(^^)

 

まだまだ激動の変化は続いていて、大変な時代ではありますが・・・。

 

だからこそ心を大切に・・・。

 

これからも、共に歩んでいけましたら嬉しく思いますヒマワリ

 

 

ご覧下さりまして、ありがとうございました。