さて、今月の最初に魂のプロセス2016「欲」の記事を書いたばかりですが・・・、早速次のプロセス「犠牲」の記事を書いてみようと思います(^^)
(魂のプロセス2016とは、2011年に書いた魂のプロセスの記事を改めてリニューアルしたものになります。
過去の「犠牲」のプロセスの記事はこちら⇒魂のプロセス「犠牲」)
今、まさに時代の節目ということもあって、多くの方が改めてこの「犠牲」ということに向き合っていらっしゃる様です。
そんな時に、改めてより深くわかりやすく「犠牲のプロセス」を解説できたら、お力になれる部分もあるもしれない・・・とも思いました
やっぱりこの社会って、ごく普通に人に犠牲を強いるところがまだまだある社会ですので・・・、そこからしっかりと脱出するのって、場合によってはかなり難しいとも思います・・・(-人-)
それに僕自身も、まだ「犠牲」については理解を深めていく必要性も感じています。
どっかで、片足突っ込んでいるなぁって感じる時もありますから
ですので、少しでもこの記事を通して一緒に「犠牲」を学びながら、抜け出すきっかけとなれたらと嬉しいです(^^)
では今回も、あるじと話し合いながら「犠牲のプロセス」について深めてまいりましょう
おーい、あるじぃ~(´0ノ`*)
あるじ「うむ、いよいよ犠牲のプロセスだな。
実はこのプロセスが一番重要だ。
特に今の地球にとってはな。」
やっぱり、そうなのですね∑(゚Д゚)
あるじから見て、どういう部分が重要なのでしょうか?
あるじ「それはやはり、人々の心の変化だよ。
多くの人が、どうやったらこの犠牲を終えられるか・・・、どうやったらより自分らしく自由に生きられるか・・・。
そんな関門に向き合っているのだ。
だから、ここで犠牲のプロセスについて話し合うことは非常に重要だな。」
以前の「犠牲」のプロセスの記事では、犠牲のプロセスを越えるために、「あまり人に気を使わないこと」や、「自分を愛すること」、「自分をよく知ること」などが上げられていましたね。
どちらかというと、かなりザックリとした説明だったと思います。
確かに言っていることはそうだと思うのですが・・・、犠牲を越えるって、ぶっちゃけそんな簡単なものじゃないですよね(;^ω^A
あるじ「いや、以前言ったことをよく理解して、真摯に実践できるのなら、確実に犠牲を越えていくことは出来るよ。
実際、お前もそうだったろう。
そして、念のため言っておくと、犠牲というのは必ずしも悪いものではない。
あえて心から犠牲をしたい・・・自分の事よりも、他者に奉仕していたい・・・魂がそう願う時期は必ずあってな、それが自然なのだ。」
つまり、それが「犠牲のプロセス」ということですよね。
でも、「犠牲のプロセスを卒業したぜ~!(゚∀゚) 」・・・って思っていても、案外影のように犠牲がついてまわっている・・・ってこともあると思います(;^ω^A
実際、僕がまだちょっとそんな感じだと思うのですが・・・。
あるじ「そうだな。
お前は元々人に気を使うタイプなので、なかなか犠牲から越えづらい部分がある。
他にも社会通念から抜けだしづらかったり、どうしても情をほどけない人がそばにいたり・・・。
人によって、犠牲から越えづらい理由はさまざまだろう。
それ故に、一口に『犠牲のプロセスを越えた』と言っても、ほとんどの場合、全部スッキリ越えたということにはならない。
これは、他のプロセスについてもそうだろう。
例えば『生存のプロセス』は、恐れの感情と向き合うプロセスだが、完全に恐れの感情を乗り越えた人間がどれほどいるだろう?
つまり、魂のプロセスというのは、まるで時計の針が何度も同じ場所を回るように、何度も何度も微妙に違った経験を積みながら、少しずつ越えていくものなのだ。
だから、犠牲のプロセスについても、あまり根こそぎ越えようとしなくてもいい。
まぁ誰しも、犠牲はこりごりという想いがあるだろうから、越えたくなる気持ちもわからんでもないがな。」
あ~・・・なるほどねぇ~・・・∑(゚Д゚)
あるじ的には、まぁ焦らずにじっくり何度も犠牲と向き合えばいいと・・・。
やっぱり、そんな感じが自然なのでしょうか?
でも、僕は出来るだけ犠牲は避けたいですね~(´Д`)
あるじ「そうは言いながらも、お前は疲れていても、自分のことよりも人のことを考えているではないか。
それも立派な犠牲なのだ。
しかし、その時は負担があっても、時間が経てばその負担は癒され、それに伴いより新しいエネルギーが自分の中から湧いてくるだろう。
つまり、犠牲とは一時的な状態であって、そのステップがあればこそ次の段階へ移行できる必要な架け橋なのだ。
そのため、あまり犠牲を避けようとするのも違う。
逆に犠牲をよく理解し、よく向き合うことによって、必要な経験を積み、スムーズに次のプロセスに移行することが出来る。
犠牲については、そのように捉えておいた方がいいな。」
ああ~・・・、そっっかぁ・・・。
なんかねぇ、「犠牲」ってゆー響きなんでしょうか・・・。
知らず知らず拒否感があってねぇ・・・(笑)
でも、そうですね、犠牲は次のプロセスに進むための”前向きな架け橋”と考えると、「じゃあ、ちゃんと犠牲に取りくむかぁ」という気持ちになれますね。
あるじ「そうだな。
やはり、自然とやって来る犠牲については避けるべきものではなく、取り組むべきものだ。
次の勉強会のテーマはこの犠牲なのだろう?
やはり、しっかりと理解していくことは重要だな。
特に犠牲についてはな。
もしよかったら、勉強会の内容はこのブログを通して、幅広く知らしめてほしいものだ。
もちろん、時間をかけていいからな。」
あ、そうです、そうです!∑(゚Д゚)
僕もホント犠牲については詳しく知りたくて・・・。
実は次の勉強会のテーマにしようと思っています。
あるじがそう言うなら、じゃあデータ版の方が終わったら、少しずつその内容はブログでも公開していきましょうか(^^)
あるじ「それがいいだろう。
有益な情報というのは、幅広く活用されるのが望ましいからな。
さて、今回ワシが犠牲について伝えたいポイントは2つほどある。
一つは、人の心をよく知るということ。
目に見えることや言葉だけでは、人は計り知ることは出来ない。
だから、自分の感性で人を知ろうとする必要がある。
犠牲を越える時に、ここが非常に重要なのだ。
人はな、必ず多かれ少なかれ先入観や自分なりの視点を通して他人を見ているものだ。
しかし、それでは必ず真実との間にズレが生じる。
だから、時に勇気を持って他人の真実をまじまじと見つめてみることだ。
その時に大切なのは、疑いや不信をぬぐって、まっさらな気持ちで見つめること。
すると、相手の真実の姿が浮き上がるように感じられるはずだ。
大切なのは、あなたが感じたその真実をよく踏まえること・・・。
自分の一時の感情や、利害に捕らわれずに、その真実に照らして相手に対応すれば、犠牲を越えていくことが出来るだろう。
相手に遠慮することもないし、恐れることもない。
ただ真っ直ぐに、相手の真実を見つめ、自分の真実を生きなさい。
それが犠牲を越える近道なのだ。」
おお・・・、それはシンプルでわかりやすいですね!∑(゚Д゚)
でも、本当にそうだなぁと思います。
あまり相手の心をよく知らぬまま、言われるままに流されていては、犠牲になっちゃっいますからね・・・(´ω`)
相手の真実を知っておくことで、それを予防できるわけですね。
あるじ「さよう。
そして、ワシから伝えたい、もう一つのポイントだ。
それは、自分の心をよく知るということ。
これは前回もサラリと言ってあるがな。
より深いことを言うぞ。
自分を知るというのは、自分に振り回されなくなるということでもある。
つまり、なぜ自分が犠牲を選択しているのか・・・。
なぜ、犠牲の元となる相手に引き寄せられているのか・・・。
そこに関わっている自分の中には、どんな気持ちがあるのか・・・。
もしかしたら卒業されるべき『情』が、そこにあるのではなかろうか?
『情』と愛、そして慈悲は明らかに大きな違いがある。
実は『情』というのは、相手にまだ見ぬ自分自身を投影したときに発生しやすい感情だ。
例えば、普段自分の中の孤独にフタをしていると・・・。
深く孤独を抱えた人間を見ると、なぜか仲良くしたくなってしまう。
もしくは、支配的で攻撃的な部分にフタをしていると・・・。
なぜか、同じように支配的で攻撃的な人に好意を持ってしまう。
その時、人は熱心にその人と気持ちを分かち合い、時に支え助けようとするが・・・。
その裏には、どこかお互いに向き合いきれない部分が残っているものなのだ。
そのような縁には、必ず犠牲がつきまとうだろう。
そこから脱するためには、真摯に自分と向き合い、自分をまず癒やす必要もあるだろう。
一方で、磨かれた愛や慈悲というものは、いつも静かなのだ。
真っ直ぐに相手を見つめ、真実を伝えることを恐れない。
例え、相手が一時的に苦しんだとしても・・・相手の本当の幸せのために必要真実を伝えることを躊躇しない・・・。
愛と慈悲にはそのような厳しさも伴っているものだ。
しかし、『情』にはそうできない甘さや、依存を生み出すような過剰な優しさがあるものだな。
愛と慈悲は、相手の心の痛みや苦しみを共に感じ・・・、それをしっかりと受け止めることで磨かれる。
もしあなたが、本当に相手の心をよく感じ取り、その痛みをよく受け止めた時・・・。
最初はとても苦しいかもしれない・・・。
しかし、その苦しみを感じれば感じるほどに、あなたの胸から愛と慈悲が溢れてくるだろう。
そして、繰り返しそのように相手を受け止めているうちに、愛と慈悲は磨かれ、力強い静かな状態で安定していく。
その時に、あなたは強いエネルギーを伴いながらも、静かでどっしりと相手と向き合うことが出来るのだ。
たとえ、相手がすぐに受け入れることが出来ない真実でも・・・、そのような愛と慈悲があれば、何度でも落ち着いて説明することも出来る。
そう・・・。
犠牲のプロセスの次は、慈悲のプロセスだよな。
それはつまり、『情』を卒業し、自分の中にしっかりと『慈悲』を宿していくプロセスでもある。
慈悲については、次の話題だからあまり詳しくは述べんがな。
やはり、その辺について自分をよく知ることは欠かせない。
無意識で『情』のままに他人と接していると、犠牲は何度もやって来るだろう。
もちろん、それで充実を感じられているなら、それでいい。
人にはそういう時期も必要なのだ。
しかし、そろそろ『情』の関係からは卒業したいと感じ始めたならば、自分をよく知り、相手をよく知り・・・、慈悲と勇気を持って真実を生きるべきだ。
優しさのあまり、相手や自分の真実をごまかすことが癖になっていないか・・・。
恐さやめんどくささ故に、自分の心よりも相手の心に合わせることが癖になってないか・・・。
その辺を、よく見つめ・・・どんな自分もよく知り受け入れること・・・。
その自分をけっして責めることはないよ。
責めてしまっては、結局は変われないからな。
だから、自分を責めずに、よく認めて肯定的に受け入れることだ。
『これまでの自分は無意識に流されて生きてきた。
でも、それが精一杯だった。
そして、今こうして気付くために、全て必要な筋書きだった。
だから、それでよかったよ・・・。
全部、ありのままの自分でいいよ。』
こんな風に、よく今までの自分を認め、理解できたのなら、肯定的に受け入れる・・・。
それは特に苦しみを伴うことだろうが・・・。
なぜならば、真実を受け入れようとしたときに、隠れていた感情が見えてくるからな・・・。
しかし、その感情を真正面から見つめ、肯定的に受け入れた時・・・。
その苦しみは、きっとあなたの新しい人生の始まりとなるだろう。
人は皆、古い自分を受け入れることによって、新しい自分へ生まれ変わることが出来る。
そして、そのことは自分を変えるというだけではなく・・・。
それだけで、あなたの世界を変えるということにもなるのだ。
シンプルだが、これが犠牲を越える基本的な方法だ。
他にも、さまざまなケースに合わせた犠牲を越える方法は存在している。
だが、いずれにいても『相手をよく知る』『自分をよく知る』という基本は同じだ。
このことをよぉく実践できたときに、この世で恐れることは何もなくなる。
あなたはただ、あなたの真実を生きればいい。
堂々と自由に生きられるのだ。」
おお~・・・。
あるじぃ、ありがとうございました・・・(*´Д`*)
いやぁ・・・なるほど・・・。
犠牲を越えるということを、シンプルにズバッと解説して下さりましたね
やっぱり、真実を知るということ・・・そして情を越えるということがポイントみたいですね。
うーん・・・、でも、なかなかこの『情』と『愛と慈悲』というのは、時に区別がつきづらいものです(´ω`)
この辺は、12月3日の勉強会でも、詳しく掘り下げてみたいです。
(勉強会については、近いうちに記事で募集させて頂きますね)
・・・ある程度予想はしていたものの、簡単に犠牲をスパーッと越える方法ってのは無いみたいですね(;^ω^A
結局、人間関係ってケースバイケースですから、特殊な場合もあって、簡単ではないことも多いと思います。
ということで・・・今後も、このブログでは「犠牲」について、詳しく扱っていこうと思います(-人-)
たとえ少しずつでも、皆様と共に犠牲を越えて、自分らしく力強く生きていけたら嬉しい限りです
よかったら、共にじっくりとまいりましょうね(^^)
ご覧下さりまして、ありがとうございました。