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TAKの部屋

ムラムラくんという、よく分からない人がよく分からないことを書くブログです。

このブログを定期的に読んでくださっていた方々なら、きっとご承知のことだと思います。


1996年5月に当時の彼女から教えてもらって以来、27年と半分、

ぼくの人生のとなりには、必ずKANちゃんの歌がありました。


楽しいときも、悲しいときも、腹立たしいときも、恨んだときも、憎んだときも

KANちゃんの歌が、常に寄り添っていてくれたから

ぼくは人生を踏み外さずに生きてこれました。


そんなKANさんが旅立ちました。


2023年11月17日、午前11時過ぎ。

職場で仕事用にX(旧Twitter)を開いた瞬間、

トレンドに『KANさん』『愛は勝つ』があるのを見つけて

すぐに察しました。


実は、11月7日(だったかな?)、ビートルズの新曲

『NOW AND THEN』の感想を呟いたのを最後に

Xの更新が途絶えていました。

ファンの間では少し話題になったものの、

それを打ち消したい人が多かったため、

無理に前向きなことを書き込む人が目立ちました。

ぼくも、その1人です。


だけど、内心、薄々分かってました。

そもそも3月20日頃だったと思いますが、

メッケル憩室がんを公表した、その文章に

KANちゃんらしからぬ表現が目立ったことから、

ファンはある程度、覚悟していたと思います。


そのイヤな予感は、7月頃までは素直に胸の奥に沈めることができました。

KANちゃんがときどき、近影を上げてくれたからです。

少々痩せたとは感じたし、白髪も増えたなと思いつつも

スタジオにいる姿や、髪とヒゲをアンバランスに整えた(ヘンな日本語)姿を

披露してくれていました。

そもそも“姿を見せる”ということは

治療がいい方向に進んでいるんだろう。

そう、思わせてくれたからです。


ラジオを休むことも多々ありましたが、

『抗がん剤治療のための定期的な入院』と捉えれば

特に違和感のあるものではありませんでした。


ただ、8月頃から、KANちゃんの姿を見ることがなくなりました。

正確にはときどき、ピントの合ってない写真は上がりましたが、

表情や輪郭がわかるものは上がらなくなりました。


表面上、楽しそうなKANちゃんの文面は保っていましたが、

結果的には、その頃から目に見えて痩せてしまったのでしょう。


そして10月、

『思うところあって、無理を承知で行ってきます』と

パリに旅立たれました。


そのときも、イヤな予感を打ち消したいがために

定期的な入院は治療が順調なんだ

一時退院中に海外に行けるのはその証拠だ

そう強く思い込みました。

この頃から、自分の中に浮かび上がる明確なバッドエンドを

無理やり押し込める日々が始まりました。


決定的だったのは、パリ旅行中の『マレ』の投稿。

(わざと)ピンぼけしてハッキリとは分からないものの

そこに写っている紳士は明らかにKANちゃんで、

そしてその顔は明らかに異常なほど痩せていました。


それなのに、滞在中、どう見ても多すぎる食事の写真を頻繁に上げていました。

もちろん同行されたであろう奥様の分もあったでしょうが、

元気だよとアピールしたかったのかもしれませんし、

もしかすると思い出のレストランの思い出のメニューを

せめて目で堪能したかったのかもしれません。


そして、先週金曜日、その知らせを受けました。


ぼくは今、43歳。

この歳になって、まだ知らない自分がいたことを思い知らされました。


まず、ぼくは(普段は泣き虫なくせに)悲しいとあまり泣かないようです。

自分的には、泣く元気すらない、という感じで

仕事を早退させてもらい、ただただ茫としてました。


同時に、そんなときに優しさに触れると、とめどなく涙があふれることも知りました。

優しさにはきっと他人を元気にするパワーがあるんですね。

その力で少しだけ元気になったぶん、力を使い切るまでは泣き続けました。


こんなこと、知らなかったし、知りたくなかったよ。


○○ロス、みたいなことが自分にも起こることも、予想外でした。

なにがあっても仕事は仕事。

むしろツラいときこそ仕事で誤魔化したい。

そういう発想で生きてきたのにね。

この哀しみは過去のどんな事件よりも大きかったみたいです。


土曜日、KANちゃんと縁の深い

スターダストレビューの根本要さんと

シンガーソングライターの馬場俊英さんが

追悼番組を放送してくれました。

本当はぼくたち以上にツラいはずのお2人なのに、

葬儀を終えて、急いで収録してくださったみたいです。


それを聞くためには、礼儀としてKANちゃんが大好きなシャンパンを買わなきゃいけない。

そう思い、買い物に出かけて、18時を待ちました。

その間、いろんなニュースや書き込みを見て、

KANちゃんの反響のすごさに驚いたり、

クスっとなるエビソーダに笑ったり、

ライブ映像を見ながら泣いたり、

そんなふうに過ごしていました。


18時。ラジオが始まりました。

シャンパンを開けて、飲みながら聞きました。

お2人とも、終始楽しそうに話してくれました。

おかげで、ぼくもほとんどを笑いながら聞くことができました。


そして翌日、大阪のラジオDJでKANちゃんの大ファンでもあった

かとうみきさんの番組も聞きました。

涙をこらえながらの番組だったけど、

彼女が最後に泣きながら『じゃたまたね。バイバイ』とハッキリ言ってくださったことで

ぼくも一区切りついた気がしました。


でも、ぼくは物書きです。

しっかり自分の気持ちを文章に書かないと、

完全に区切りをつけることはできません。


まとまりもないし、何か目標やゴールのある文章ではありません。

ただ、せめて最低限の社会生活が送れる程度に

自分を取り戻す方法は

この3日間、いや、この8ヶ月、

ぼくが感じたことをとにかく書くことしか

浮かびませんでした。


このブログの一つ前、多分3年前のブログには

こう書いたような気がします。


この先、KANちゃん以上に好きな音楽家は生まれない。

でも、KANちゃんが活動してくれる限り

“いちばん好きな曲”は更新されるかもしれない。


ついにその可能性がなくなりました。

でも、これからもずっと、ぼくが死ぬまで。

ぼくの人生のとなりにはKANちゃんの歌がありつづけます。

そしていつか死んだら、向こうでKANちゃんの新曲を聞きたいと思います。


そのときまで。

そして、そのときが来ても、その先も。


よければ一緒に

そのほうが楽しい

案の定、物書きになったらブログの更新頻度が低下しました。

ほぼ誰も見ていないと言いつつも、わずかながら定期的にアクセスがある以上、すみませんと言っておくべきでしょう。申し訳ございません。
 
久しぶりにブログを書こうと思った理由は、極めてシンプルです。
ぼくが世界でいちばん大好きなシンガーソングライター、KANちゃんが5年ぶりにニューアルバムを出したからです。
 

何度も書いたことがありますが、ぼくがKANちゃんを好きになったのは1996年5月。つまりもう24年と半年が経過しています。
その時生まれた子供が成人どころか就職するような時間を経てなお、未だに現役で活動してくれているという事実に、心から感謝しています。
 
ぼくももう40歳を超えて、今後KANちゃん以上に大好きで長く付き合う音楽家は出てこないだろうと思います。
それでもKANちゃんが活動を続けてくれれば、「いちばん大好きな曲」というものは更新される可能性が残るわけです。
そのことも、ものすごく嬉しいことです。
 
実際に、このニューアルバム「23歳」のタイトル曲、『23歳』が、とてもとても大好きです。もしかしたらカコイチで好きかもしれません。
 
あと10年経ってからどう言っているかは分かりませんが、これほどの幸せはないと思います。
 
そして、もうひとつ。
 
俺がKANちゃんを好きになった頃から、いやそれよりもさらに3年くらい前から付き合いのある悪友が、ついに結婚したという連絡が来ました。
 
俺にKANちゃんを教えてくれた人生最初の彼女を、先に好きになったのは彼でした。
色々あって彼女は俺を選び、当然彼との関係は複雑なものになりました。それでも関係は終わりませんでした。
 
その後も何度となく本気の喧嘩をしたし、甘ちゃんの俺が心を鬼にして突き放したこともありました。
 
それでも、彼との関係はゼロにならなかった。
 
ユキというとても大切な、短気な俺が一度も怒ったことすらない大親友を、俺と繋ぎ合わせてくれたのも彼でした。
 
お互い、本当に色々知っています。当時は本気で嫌だったけど今なら笑い話になることもあれば、当時と変わらず今でも嫌なこともあります。
彼は、俺にとって数少ない、本当の恥部をたくさん知っています。それ以上に俺の方が彼のダメなとこ、悪いとこ、恥ずかしいとこを知っています。
 
コロナが収まったらちょっと東京に戻って、彼と酒を飲もうと思います。
語るべき未来はもう残っていない年寄り2人ですが、たまには昔話もいいかなと思うようになりました。
 
結婚、おめでとう。
ずっと幸せにね。
 
また飲もうな。
少し前のことになってしまうけれど、ザ・ドリフターズのメンバーでコメディアンの志村けんさんがなくなってしまった。享年70。

新型コロナウイルスにかかって入院中、というニュースは見ていたけれど、こんな結果になるとは思っていなかった。復帰して笑い話にしてくれると、当たり前のように思っていた。その笑いでコロナウイルス自体を吹き飛ばしてくれると、勝手に思っていた。

今も昔もドリフターズが大好きな俺だが、5歳の頃に「全員集合」が終わったから、どちからといえば「ドリフ大爆笑」か、もしくは「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の世代なのだろう。

でも、正直なことを言えば、俺はザ・ドリフターズは大好きだけど、志村けん単体、加藤茶単体はそこまで熱を入れていたわけではない。俺はいかりや長介が好きで、そのいかりやをいじめる4人が好きだったのだ。

バカ殿に代表されるような、下ネタ芸、パワハラ芸はあまり好みじゃなかった。志村けんはいかりや長介という絶対的な存在に歯向かうからこそ輝くわけで、志村けんが圧倒的トップのコントは、ドリフほど面白かったとは思えなかった。

それでも、初めていわゆる「お笑い」に興味を持った存在がザ・ドリフターズだったし、その中心の志村けんは本当に大好きだった。俺世代にとっては、ドリフの中心は加藤茶ではなく、志村けんだった。

志村けんはコメディアンであることを誇りに思っていたと思うけれど、俺はむしろ人間味のある志村けんの方が好きだった。たまにゲスト出演するトーク番組での志村けんは、すごく好きだった。今でもLOVE LOVE愛してるで河島英五の「時代おくれ」を歌った姿は、目に焼き付いている。

しかしそんな俺の評価など関係なく、志村けんは大スターでありつづけた。誰がどう見ても、国民的コメディアンでありつづけた。そして、そのまま死んだ。

そんな志村けんですら、訃報の際には「ドリフ」の名前がくっついた。そして追悼番組ではほぼ必ずいかりや長介やドリフ時代の話がメインになっていた。

ドリフとはどれほど偉大なグループだったのだろう。

残念ながら、俺は本当の意味でのドリフ全盛期を知らない。まだ産まれていない。

でも荒井注が死に、いかりや長介が死に、その時必ずドリフという名前が枕詞として使われた。そして、志村けんですら、同じだった。

きっと加藤茶や仲本工事、高木ブーが死んでも変わらないだろう。彼らは皆、ドリフの名前を墓場まで持っていくのだ。

そして思う。

墓場まで持っていける名前があることは、本当に幸せなことだろう、と。

別に世間に知られていなくてもいい。ごく小さい規模の中だけだとしても、自分が死んだ時に持っていける名前はあるだろうか、と考えてみてほしい。ほとんどの人が持っていないのではないだろうか。少なくとも、俺にはない。

今年、俺は40歳になる。いわゆる「不惑」というやつだ。昔はそうだったのだろう。20歳には結婚どころか子供がいてもなんらおかしくない時代の言葉だ。ということは、40という年齢は自分の子供が成人するくらいの年齢なのだ。惑っている余裕などないだろう。

いかりや長介はミュージシャンからコメディアンになり、俳優として死んだ。

志村けんはコメディアンを貫いて死んだ。

どちらもかっこいいと、心から思う。

俺もそろそろ死ぬ時のことを考えながら、将来を考えよう。

今さら考えるということは、もうしばらく惑い続けるのだろうけれど、それは仕方ない。

俺が死ぬ頃には、ドリフがあの世で全員集合していることだろう。ということは、死ねばまたドリフを見られるということだ。

それはそれでいいじゃないか。

志村けんさん、安らかに。