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TAKの部屋

ムラムラくんという、よく分からない人がよく分からないことを書くブログです。

あの悲劇から9年経った今の思いを。

その日の朝のことは何も覚えていない。普通に起きて普通にシャワーを浴びて、普通に会社に向かったと思う。

ほとんどの人がそうだろう。

お昼前だっただろうか。地震を感じた。俺は当時東京都新宿区にある会社に勤めていたから当然かもしれないが、最初はそれほど大きいとは思わなかった。

ただ、揺れが長かった。

誰もが異変に気づいたと思う。

俺は3階のオフィスで働いていたが、7階で働いていた別部署の人たちは、本当に怖かったそうだ。特に会議室にいたお偉いさんたちは、頭上から椅子が降ってくるという危機に遭遇したらしい。

その時は当時の編集長がすんでのところで払いのけてくれたらしいが、それがなければ下手をすれば死人が出ていてもおかしくなかったらしい。

3階にいた俺たちも、段々と恐怖を感じていた。俺とその他に2人の先輩が、勝手な責任感でそれぞれがテレビ棚や戸棚を抑えていた。冗談も言い合っていた。そんなことをしていなと、不安に押し潰されそうだった。

結果的には何もなかったが、棚が倒れれば俺は潰されていただろう。後々危険なことをしていたんだと自覚した。

幸い、俺たちのオフィスはほとんど被害もなく、俺の机の本棚が壊れて雑誌が散乱した程度だった。

何人かは船酔いのような気持ち悪さを感じていた。俺は立っていたからか、それとも恐怖の方が強かったからか、酔うということはなかった。

揺れがおさまったあと、タバコを吸いに外に出た。正常化バイアスの一種なのだろうか、普段通りのことをしたいと思ったのかもしれない。

そして、繋がらない携帯電話で、外出していた同僚に連絡を取ろうとした。当時付き合っていた彼女にもメールをしたが、中々届かなかったようだ。

オフィスに戻ると普段はつけられることのないテレビがついていた。皆、ニュースに釘付けになっていた。

そこには信じられない画が映し出されていた。道路は川のように水であふれ、多数の車が流されていた。

なんと言えばいいのだろう。とにかく、現実味のない映像だった。ゲームか映画を見ているような、そんな感覚だったことを覚えている。

当然、その日は仕事どころではなかった。

そんな気になれないのもあるし、そもそもネットもFAXも繋がらなくて仕事自体ができなかったこともある。

そして、こんな時に娯楽雑誌を発売していいのかどうか、そんなページを作ってもいいのかどうか、皆それぞれに悩んでいたこともあると思う。

俺の記憶が確かならば、あの日は金曜日だったはずだ。多くのページの発注〆切だったのだが、それどころではなかった。

うつろにやれることだけやっているフリをしながら、帰社してきた同僚の無事を喜んだりしていた。

問題は夜に起きた。いや、福島を始めとする東北~北関東の人たちが直面していた問題からすれば、とても小さい問題だが。

JR、地下鉄とも、完全に運行を停止していたため、皆帰宅難民となった。比較的近くに住んでいた人は2~3時間歩いて帰宅したが、俺は30キロほど離れた所に住んでいたため、帰る気にはなれなかった。

そこで、同じく遠いところに住んでいた編集長と、飲みに出かけた。定時後のことだし、これまた普段通りのことをしたかったのだと思うし、会社にいてもやれることはないのだから、仕方ないと思う。

どこも臨時休業だったが、1軒だけ開いている飲み屋を見つけたので、そこへ入った。ほとんどのお店が閉まっているのにも関わらず、お客さんはまばらだった。

お酒を飲みながら編集長と色々な話をした。こんなタイミングでパチンコ雑誌なんて作ってていいのかな、そもそも環境的に出せるのかな、東北のパチンコファンやパチンコ屋を励ましたいけど、果たして流通させられるのかな、などなど。

しばらくするうちに、地下鉄が動き出した。タクシー代を会社がある程度は負担してくれるというので、地下鉄で比較的家に近いところまで行き、そこからはタクシーに乗ろうと決めた。編集長は家が遠すぎるため、会社に泊まると言っていた。でも多分、どこかで飲んで朝を迎えたと思う。なんとなく仕事場から離れたい気持ちを、皆が持っていたと思う。俺も同じだった。日常に帰りたかった。

2時間弱待って南北線に乗って赤羽まで行き、そのあとタクシーに乗った。道路が混んでいたこともあり、最寄り駅に着いたのは朝4時30分頃だった。

見慣れた街並みの中にたどり着き、ようやくひと段落つけた証拠なのか、呑気にも空腹を覚えた。俺も編集長もお酒を飲むとほとんど食べないため、お酒が抜けたくらいの時間にお腹が空くのは、よくあることだった。

コンビニ弁当でも探そうかと思ったが、駅前の吉野家が開いていることに気づき、足を踏み入れた。飲み屋と同じくガラガラの店内で、店員さんと少し話をした。曰く、帰る手段もなかったし、少しでも暖かいご飯を食べたい人が来るかもしれないので店を開けておいた、ということだった。

その時食べた牛丼は、それまでも、それ以降も、味わったことのない暖かみを感じる、とても美味しい牛丼だった。

15分ほど歩いて自宅へ着いた。ギターが倒れていないか、テレビが落ちていないかと心配をしていたが、部屋の中は驚くほど普通だった。

安心して、眠りについた。皆がそうだったと思うが、これが悪い夢だったらいいのに、と思っていた。

翌日。

普段なら発注週の土日はほぼどちらも会社に行っていたが、その日は休んだ。どうなるかも分からないし、通信環境的にも仕事になるとは思えなかったから。

休日の土曜日に何をしたかは覚えていない。多分ギターを弾きながらテレビで情報を集めたり、彼女や親と連絡を取ったりしていたんだと思う。

日曜日。

少し会社に行った。もし雑誌を予定どおりに発売するなら、最低限のことはやっておかなければならないから。とは言っても、仕事に身が入るわけもない。折悪しく、自分が看板企画に出演するための原稿書きをしなければならなかったのだが、こんな時に何を書けばいいのかまったく分からず、かといってキャラ的に深刻ぶるわけにもいかず、真面目でも不真面目でもないつまらない原稿を書いた。

さらに明けて月曜日。

日曜は基本的に休日だし、外出も控えていた人が多かったのだろう。電車は本数こそ減らしていた記憶があるものの、滞りなく動いていた。だが、多くの人が出勤する月曜日は大混雑だった。俺は最寄り駅からの出勤を諦め、いつもとは違う駅へ原付を走らせ迂回しながら会社へ向かった。

その途中、取引先に電話をした。これまたもし予定どおりに進むなら、確認しておかなければならないことがあったからだ。

その会社は大阪にあるので極めて普通に働いていたらしいが、通信環境はやはりよろしくないようで、普段通りのスケジュールで連絡ごとを動かせないかもしれないと言われた。それはこちらも同じなので、イレギュラーな対応をお願いするかもしれないけれどよろしくお願いしますと伝えた。

少し遅れて出社し、会社の方針を教えてもらった。雑誌は予定どおりに出す、と。出す、出さない。どちらが正しいのか、入社2年目の俺にはまったく分からなかった。今振り返っても、分からない。

ハッキリしているのは、東北の人たちのためではない、ということだ。東北には流通できないことも、その場で伝えられたからだ。

それでも、例えば関西や中国・四国、九州の人たちは普段通りの日常を送れているのだ。まさしくコロナで騒いでいる今のタイミングもそうだが、こんな時に遊ぶなんて不謹慎だ!という空気が世の中に出来上がりつつあった。そしてそれは、余暇産業に巣食う俺たちには納得できない話だった。むしろこんな時だからこそ、影響のない地域の人たちは大いに遊ぶべきだ。忘れるべきだ。その意見には俺もある程度の同意があったから、振り切って仕事をした、フリをした。

実際は、そこまで割り切れず、ただただ最低限のことをこなしただけだった。

パチマガ晩年の俺だったら、いっそ振り切っていたと思う。まだ当時の俺にはその勇気も自信も技量もなかった。やれと会社が言うからやった。それだけだった。

その後、計画停電で暗くなった街並みを見て、普段は感じない信号機の青ランプの美しさに感動したり、パチンコは電気の無駄遣いだ、いやそもそも存在自体が悪だ、パチンコ業界人は全員悪者だ、というデモをバスから見て悲しくなったりした。

正義を振りかざすなら、そのデモの力を福島や東北の復興に繋がるなにかに使えばいいのに、そう思っていた。

あの地震は、少なくとも俺にとっては直接の被害をほとんど産まなかった。会社の机が壊れただけだ。家族も友だちも、全員無事だった。

俺にとっては「働くことの意味」を深く考えさせられたことが、いちばん大きかったかもしれない。誰のために働くのか、何のために働くのか、あの頃から少しずつ考え出した気がする。

そして、他人の優しさに気づけた事件でもあった。自らを省みずテレビや棚を抑えに行った2人の先輩、惨状を見て気持ち悪くなってしまうほど優しい心を持っていた女の子ライター、感動的な文章を雑誌に寄せた幾人かのライター、100万円を募金した大御所ライター、なにより来るかも分からない誰かのためにお店を開けていた吉野家の店員さん。

俺たちも、会社で何人かで話し合って、何度かそれなりの額の募金を行った。俺はそれとは別に、真面目にパチンコを打ち、稼いだお金で10万円募金するということもした。パチンコデモに対する不満と、某グラビアアイドルさんが提唱した「大人の千羽鶴」という動きに感銘を受けて、起こした行動だった。

大きな事件が起きた時に、ピンチになった時に、人間の本性が現れるのかもしれない。そういう意味で、ウチの会社には優しい人がたくさんいた。少なくともデモなんかをする人たちよりは優しかったと思う。

でも、忘れてはいけないことは、それは命があって始めて感じられることだということ。本当に優しい人が、生きていたかった人たちが、何人も志半ばで死んでいったのだ。

だから、当たり前の結論だけど、生きていることに感謝。感謝してこれからも生きる。

あの悲劇から9年。その復興を実感するためにも、福島に行こうかな。そこで美味しいものを食べてお酒を飲み、お金を落とそうかな。

募金よりもその方が俺の性に合っていると思うんだ。
藤井尚之というサキソフォニスト/作曲家/歌手がいる。

いちばん分かりやすい説明としては、チェッカーズのサックス担当者であり、チェッカーズの様々なシングル曲や猿岩石の「白い雲のように」の作曲者であり、ボーカル・藤井フミヤの実弟だ、というところになるだろうか。

そして、この人が1998年に出したアルバムに収録されている「歩こう」という曲がある。作詞は職業作家であり、ジューシィ・フルーツの「ジェニーはご機嫌ななめ」(作曲)やクールスの「シンデレラ」(作詞・作曲)、人気芸人ザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」(作詞・作曲)など、前衛的な音楽を数々作り上げた近田春夫。作曲はもちろん藤井尚之本人だ。

もう会えないかな
そんなこと思いながら
歩いているよ
歩いていこう

パチンコ攻略マガジンという、パチンコ業界では名の知られた雑誌でひっそりとページを作ったりサイトを作ったり、あとたまに顔を出してくだらないことを書いたりしていた俺も、退職して2年が過ぎたら、この歌のような気持ちになることがあるものだ。

俺が初めて、見たこともない人に応援してもらうという、分不相応な幸せを得たあの時代。入ったばかりの頃はまだまだ出版業界というものは徹夜とかが当たり前にあった時代。何をどうしたら会社や読者さんに褒められる記事を書けるのかまったく分かっておらず、ただ時間だけを無駄に浪費していた俺は、何度となく辞めたいと思っていた。

それでも辞めなかった理由は、単純に年齢や生活のことを考えていたからであったのだけれど、その結果、数年後には色んな読者さんが応援してくれるようになった。

あの頃から、本当に嬉しかったしありがたかったし、諦めなくてよかったと心から思っていたが、今でもその気持ちになんら変わりはない。かわいこちゃんならいざ知らず、ただのおっさんが駄文を書き連ねているだけなのに、誕生日には大好きなお酒をもらったり、出張で読者さんと触れ合えば様々なプレゼントをもらったり、何よりTwitterなどで率直な感想をもらえたり。嬉しくないわけがない。これほどの幸せは、分不相応なのに、としか言えないだろう。

そんな読者さんとも、もう会うことはないのかな、なんて思うと少しだけ悲しくなる。それでも、俺は今ようやく、夢だった「ライター」という職業について、前を向いて歩いている。

夢が叶ったことも、すべて根気強く教えてくれた先輩たちのおかげだ。そして、それを面白い、好きだ、と言ってくれた読者さんたちが俺に自信というものを少しだけ与えてくれたからだ。

業界自体がまったく違うところなので、もう会うことはないかもしれないし、今のところ記名原稿ではないから、俺が書いたものと認識してもらう機会もないかもしれない。

それでも俺は物書きとして生きています。それは本当に、支えてくれた読者さんのおかげです。

今さら、2020年の初投稿ではありますが、今年も俺は俺らしく、いつも通りに。

歩いているよ。

歩いていこう。
ロイ・キーンというサッカー選手が、かつていた。

アイルランドが産んだ歴史上最高のフットボーラーであり、同時に1990年代最高のフットボーラーの一人でもある。

そして、俺個人にとってはサッカーの歴史上、最高のキャプテンである。

彼は誤解されることが多い選手だった。

その理由のひとつには、彼の言葉がアイルランド流(つまり世界的には通用しない)のジョークに満ちたものであったこと、さらにそれを説明したがらなかったこと、が挙げられると考えている。

5年ほど前だろうか、キーンのライバル(という言葉すら生ぬるい、宿敵)であったパトリック・ヴィエラとの対談が行われた。90年代後半から00年代前半のプレミアリーグを知っている人なら、この2人が仲良く(?)対談したことに驚愕するだろう。それほどの組み合わせだった。

その際も、やはりキーンはキーンだった。自身が選ぶベストイレブンに、マンチェスターユナイテッドで最高のキャリアを送ったライアン・ギグスやポール・スゴールズを選ばなかったのだ。

その理由は極めてシンプル。現役当時はお互いが心から認め合い、引退後は心から憎み合う、当時の監督、アレックス・ファーガソンに対する当てつけだったからだ。

しかしメディア、こと日本のメディアはそれを知らず、ショッキングな出来事としてしか報道した。

ここまでは、まだマシ。

ごく一部ではあるが、日本のサッカーメディアには、キーンとギグスが不仲、もしくはキーンが一方的に嫌っている、というニュアンスの報道すらあった。その理由について、優等生的なギグスに対する暴れん坊キーンの嫉妬、という解説までつけたところすらある。

しかし、これはすべて誤解である。キーンはギグスをベッカム(日本ではとても評価というか知名度が高いが、彼はヨーロッパではむしろそのルックスとイメージで過小評価されている。そしてキーンはそんなことは関係なくとても高く評価している)以上に評価していたし、ギグスは自分がベストイレブンを選ぶ際に真っ先に選ぶのはキーンだ、とおりに触れて語っている。

キーンが番組でギグスを選ばなかったのは、メンバーをすべてファーガソンに反抗した者で固めただけであり、それ以上の意味はない。

ただ、キーンはそれを説明しないから誤解される。それだけだ。

彼は誤解を恐れない。そして俺はその部分を、彼のキャプテンシーや、そのキャラクターゆえに過小評価されている確かなフットボーラーとしての技術以上に、心の底から大好きで尊敬している。

誤解されたい人間などいないだろう。それが凡人であれば、なおさらだ。だが、キーンはそれを恐れない。自分が自分であることを貫くことの方が、余程重要だと思っているのだろうし、それを人生をかけて証明し続けている。

俺にとって、これほど羨ましい人生はない。

サラリーを稼げなくなる恐怖、既得権とも言うべきすでに勝ち取った名声、それらすべてを投げ捨てても、彼はゴーイングマイウェイであることを望んでいる。人生の折り返し地点を過ぎた今なお、そうなのだ。

しかし、である。

同時に、誤解というものも「理解」のひとつなのだ。悲しい話であるが。

誤解されるには理由があるし、よほどの貯蓄がない限り、その誤解が人生を縛り付けてしまうのも、また事実なのだ。

当然ながら、俺にはそこまでの貯蓄がないので、誤解を恐れてしまうのも当たり前だと言える。周りが理解する「俺」という人間が、たとえどれだけ俺が思っているそれとかけ離れていたとしても、無視することはできないのだ。

周りが見る俺と、自分がこうでありたいと思う俺のギャップ。もしこの世に理想的な人生があるとすれば、それはそのギャップがない、もしくは極めて小さい、そんな人生なのではないだろうか。

ほとんどの人は1人では生きられない。周りの大多数が考える「俺」というものがあるならば、それを受け入れる覚悟も必要だ。

来年に40というある種の節目を迎える俺は、そう考えている。

もちろん、心の中に俺なりの理想の人生と、そしてそれを実現しているロイ・キーンというお手本を抱いたまま、だ。