アイルランドが産んだ歴史上最高のフットボーラーであり、同時に1990年代最高のフットボーラーの一人でもある。
そして、俺個人にとってはサッカーの歴史上、最高のキャプテンである。
彼は誤解されることが多い選手だった。
その理由のひとつには、彼の言葉がアイルランド流(つまり世界的には通用しない)のジョークに満ちたものであったこと、さらにそれを説明したがらなかったこと、が挙げられると考えている。
5年ほど前だろうか、キーンのライバル(という言葉すら生ぬるい、宿敵)であったパトリック・ヴィエラとの対談が行われた。90年代後半から00年代前半のプレミアリーグを知っている人なら、この2人が仲良く(?)対談したことに驚愕するだろう。それほどの組み合わせだった。
その際も、やはりキーンはキーンだった。自身が選ぶベストイレブンに、マンチェスターユナイテッドで最高のキャリアを送ったライアン・ギグスやポール・スゴールズを選ばなかったのだ。
その理由は極めてシンプル。現役当時はお互いが心から認め合い、引退後は心から憎み合う、当時の監督、アレックス・ファーガソンに対する当てつけだったからだ。
しかしメディア、こと日本のメディアはそれを知らず、ショッキングな出来事としてしか報道した。
ここまでは、まだマシ。
ごく一部ではあるが、日本のサッカーメディアには、キーンとギグスが不仲、もしくはキーンが一方的に嫌っている、というニュアンスの報道すらあった。その理由について、優等生的なギグスに対する暴れん坊キーンの嫉妬、という解説までつけたところすらある。
しかし、これはすべて誤解である。キーンはギグスをベッカム(日本ではとても評価というか知名度が高いが、彼はヨーロッパではむしろそのルックスとイメージで過小評価されている。そしてキーンはそんなことは関係なくとても高く評価している)以上に評価していたし、ギグスは自分がベストイレブンを選ぶ際に真っ先に選ぶのはキーンだ、とおりに触れて語っている。
キーンが番組でギグスを選ばなかったのは、メンバーをすべてファーガソンに反抗した者で固めただけであり、それ以上の意味はない。
ただ、キーンはそれを説明しないから誤解される。それだけだ。
彼は誤解を恐れない。そして俺はその部分を、彼のキャプテンシーや、そのキャラクターゆえに過小評価されている確かなフットボーラーとしての技術以上に、心の底から大好きで尊敬している。
誤解されたい人間などいないだろう。それが凡人であれば、なおさらだ。だが、キーンはそれを恐れない。自分が自分であることを貫くことの方が、余程重要だと思っているのだろうし、それを人生をかけて証明し続けている。
俺にとって、これほど羨ましい人生はない。
サラリーを稼げなくなる恐怖、既得権とも言うべきすでに勝ち取った名声、それらすべてを投げ捨てても、彼はゴーイングマイウェイであることを望んでいる。人生の折り返し地点を過ぎた今なお、そうなのだ。
しかし、である。
同時に、誤解というものも「理解」のひとつなのだ。悲しい話であるが。
誤解されるには理由があるし、よほどの貯蓄がない限り、その誤解が人生を縛り付けてしまうのも、また事実なのだ。
当然ながら、俺にはそこまでの貯蓄がないので、誤解を恐れてしまうのも当たり前だと言える。周りが理解する「俺」という人間が、たとえどれだけ俺が思っているそれとかけ離れていたとしても、無視することはできないのだ。
周りが見る俺と、自分がこうでありたいと思う俺のギャップ。もしこの世に理想的な人生があるとすれば、それはそのギャップがない、もしくは極めて小さい、そんな人生なのではないだろうか。
ほとんどの人は1人では生きられない。周りの大多数が考える「俺」というものがあるならば、それを受け入れる覚悟も必要だ。
来年に40というある種の節目を迎える俺は、そう考えている。
もちろん、心の中に俺なりの理想の人生と、そしてそれを実現しているロイ・キーンというお手本を抱いたまま、だ。