今年最初の 『ご当地・スポーツ』 関連 のBlog更新と参ろう。
昨シーズンのスポーツ関連は、新型コロナウィルスの影響により、
開催試合数の短縮や無観客試合、観客動員の上限設定等、
想定外の様な局面に立たされる事が多かった。
そういった中で地元をフランチャイズ置く 『ベガルタ仙台』 も
ご多分に漏れずと言った正に傷だらけのシーズンと言っても、
過言ではなかった様だ。
チームの大幅赤字による経営難から、戦力は大幅にダウン。
経営陣とチームも正に気持ちが相反しその悪循環から、
チームは低迷し不毛な昨シーズンを終えてしまった。
(2,637日ぶりに、ベガルタ仙台の監督に復帰する事となった、
手倉森 誠氏。)
昨年のJ1全試合終了後、
前経営陣のトップは責任を取って辞任し、
新しい経営トップに入れ替わったと同時に、
チームのトップ(監督)も成績不振を理由に解任と言う、
正しく出直し的刷新という形になった。
そう言った環境の変化の最中、
嘗て平成25(2013)年までチームを率いていた、手倉森 誠氏(53)が、
6年ぶりにチームに復帰する事となった。
昨季、前J2・モンテディオ山形監督の、
木山隆之氏(48)が指揮を執ったが、
結果今季は一度もホーム未勝利のままで、
年間17位と惨敗で、結果が出ずに退任した。
嘗て仙台を6季率い、在任中に東日本大震災を経験した指揮官に、
震災発生から10年となる来季のチーム再建を託す事となる。
得意の駄洒落で、これまで卑屈だったチームの、
明るい雰囲気を取り戻す事が出来るのか?
正に1からの作り直し手腕が問われる。)
手倉森氏は、青森県三戸郡五戸町出身。
平成16(2004)年にコーチとしてベガルタ仙台に入り、
平成18(2008年に監督に就任し、
翌年にJ2優勝とJ1再昇格を果たした。
震災が発生した平成23(2011)年に4位、翌 平成24(2012)年には、
クラブ最高の2位に導いた。平成25(2013)年に退任後は、
平成28(2016)年リオデジャネイロ五輪日本代表監督、
平成30(2018)年ワールドカップ(W杯)ロシア大会・
日本代表コーチを歴任し、
令和元(2019)年からヴァン・ファーレン長崎を指揮したが、
3位に甘んじてJ1昇格を逃して退任した。
同席した、新社長に就任した佐々木知広社長は、
新監督の条件として、
【1】 J1での指導経験
【2】 地域への思い入れ
【3】 経営状況への一定の理解
【4】 サポーターら多くの人達の納得感
を挙げ、
「全てに該当する。新生ベガルタを信頼できる方に率いて頂き、
大変喜んでいる」 とこの様に期待を寄せた。
手倉森氏はオンラインで記者会見し、
「 『東北が震災に負けていないんだ』 という事と、
新型コロナウイルス禍で味わった、
今季の逆境から這い上がる姿を示し、
ベガルタ旋風を日本に轟かせたい」 と強調。
8年ぶりの再任に 「被災地へ(優勝記念の)シャーレを届ける、
あの時の約束を果たせれば良い」 と、
手倉森節で早速サポーターへの挨拶でこの様に意気込んだ。
また手倉森氏はオンラインでの会見の中で、
「東日本大震災発生から10年目となる来シーズン、
チームを率いる事は様々な出来事とタイミングが重なったものであり、
天に導かれたのだと感じています。
今シーズン苦しんだベガルタ仙台を立て直す責任を持ち、
常々話していた被災地・東北の希望の光、
復興のシンボルになるべく、もう一度、舵を取ります。
東北人の底力を見せるために、
皆様の力が必要です。また共に戦って下さい。」
とサポーターに訴えかけた。
サポーターの協力を呼び掛けた、手倉森氏)
コメントの中でも 「タイミングが重なった」 とある様に、
昨季からヴァン・ファーレン長崎を率いていたものの、
12月18日に退任が発表されてから11日での就任発表。
退任会見では 「退任と発表されましたが、解任です」
と明かしていたが、
その際に今後の展望としてこんな事を話していた。
「この2年間、長崎発展のためにばら撒いた言葉を、
是非長崎のサッカーの発展に役立てて貰いたいと思うし、
全国に散りばめていきたい、手倉森節をね。
色んなクラブを渡り歩く指導者になっていければと思います。」
そう言って笑顔を見せていたが、
「色んなクラブ」 の最初の縁が、
古巣へと結ばれたと言う結果に辿り着いた。
手倉森氏といえば、明るいキャラクターと、
“オヤジギャグ” を盛り込んだスピーチでサッカー界では知られている。
平成23(2011)年の東日本大震災発生から、
10年を迎えるタイミングでの就任。
運命を感じるとした上で、 「 “8季” ぶりにその力を “発揮” しろと、
いわんばかりのタイミングだと捉えて」 と、持ち味を出していた。
只、こうしたリップサービスと同時に、
ベガルタ仙台が置かれた苦境を真剣に考えている。
今季リーグ戦は18チーム中17位に低迷。
クラブは経営難に陥り、不祥事を理由にした選手の契約解除。
経営トップやチームトップの交代劇も、
正しく現状のチーム体質に澱み切った膿を出し切る、
言わば痛みを伴うチーム改革に着手しなければならなかった。
正に負の連鎖を断ち切ると言う事をしなければ、
チームは再生出来ないと言う危機感の表れでもある。
就任にあたっての目標を 「謙虚に、皆さんの信頼を勝ち取るべく、
地道なことをコツコツとやって、本当に信頼を取り戻せる様な戦いを、
一戦一戦示していきたい」 と語り、
選手に対しては 「地域のために働く気のない奴とは、
仕事をしないと言えるので、
そういったモチベーションをしっかり植え付けて、
仙台で戦う意味をしっかりと擦り込んで、
ピッチに立たせたいなと思います」 とのメッセージを発信した。
正に旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、
正にゼロからのリセット再スタート。
そういう状況から、監督に再抜擢された手倉森氏。
離反してしまったサポーター達の絆と、
相互信頼を取り戻す事を史上命題に、
新経営トップ陣と共に、困難な茨の道が始まった。)
震災から10年となる今年、昨シーズンはクラブもチームも、
全くと言って良い程の機能不全に陥ってしまった 『ベガルタ仙台』 。
サポーターと共に歩むといった心の絆が懸け離れてしまったが故に、
ひとつの歯車の狂いから、経営、チーム、サポーター、
この三位一体が崩壊してしまった事が、
昨シーズンの低迷の全てと言っても過言ではないだろう。
レディースチームは、マイナビに譲渡されて、
ベガルタの看板が外されてレディース達は、
今季からチーム再出発となる。
昨年末の経営トップ及びチームトップの相次いだ交代劇。
何もかも全てが白紙からのチームの作り直す転換期になった。
「東北のチカラを取り戻す」 を旗印に、
8季ぶりに古巣へ監督復帰した手倉森 誠氏。
チームとサポーターの心の絆と信頼を取り戻すべく、
正に茨の道となる今年のキャンプが、
今月01月18日のチームキャンプから始まろうとしている。(・_・;)
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【手倉森 誠(てぐらもり まこと)プロィール】
昭和42(1967)年11月14日 生まれ / A型 / 金星人-
青森県三戸郡五戸町出身。
青森県立五戸高等学校3年時に、
第64回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、
ベスト8に進出。
高校卒業後、日本サッカーリーグ2部の住友金属に入団。
昭和61(1986)年にユース日本代表に選出され、
AFCユース選手権1986 (予選)に出場。
なお、住友金属には、(住友金属は、後にプロ化して、
鹿島アントラーズ)には平成04(1992)年まで在籍。
翌、平成05(1993)年にNEC山形サッカー部
(現:モンテディオ山形)から声がかかり移籍。
平成07(1995)年まで在籍し、現役を引退。
モンテディオ山形、大分トリニータのコーチを経て、
平成16(2004)年からベガルタ仙台のコーチ。
平成19(2007)年より同ヘッドコーチを歴任。
平成28(2008)年、望月達也氏の監督辞任を受け、
監督に就任。
平成29(2009)年、J2で優勝。
第89回天皇杯全日本サッカー選手権大会で、
ベスト4の成績を収める。
平成22(2010)年よりJ1へ昇格。
平成24(2012)年シーズン、
J1昇格後最高位となる2位の成績を収め、
チーム初のACL出場権獲得を果たし、
平成25(2013)年10月10日に退任。
以降、U-21日本代表監督、
2016 リオ五輪日本代表監督、
J2ヴァンファーレン長崎監督を歴任。
令和02(2020)年12月18日、
J1ベガルタ仙台の成績不振による、
木山隆之監督の退任に伴い同年12月29日、
ベガルタ仙台の監督就任を発表。
2,637日ぶりにベガルタ仙台監督として復帰。
駄洒落好きとして知られ、
囲み取材や試合後の監督会見では、
『手倉森誠 新監督の就任のお知らせ』 !!
https://www.vegalta.co.jp/news-team/2020/12/post-918.html
【ベガルタ仙台】
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JG7MER / Ackee