『セカンドキャリアで活躍する、元プロ野球選手 ②』 !! | “ Ackee ” の ブログ !! ✒ (b^-゜)

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前回に引き続き、プロ野球選手から、

異業種の業界に飛び込んだ、

元選手をご紹介する事にしよう。

同じ元東北楽天ゴールデン・イーグルスで、

投手を務めていた、

石橋良太さん(30)もそのひとり である。

石橋さんは、大阪府堺市の出身で、

小学生から少年野球チームに所属していた、

少年野球チーム時代には全国制覇を成し遂げ、

中学時代には、遊撃手と投手を兼任 する、

スポーツ少年でもあった。


(社会人からドラフトで指名されて楽天に入団。

現役時代、先発&中継投手として活躍した石橋さん。)


中学3年の進路の際、石橋さんは当初、

地元強豪であるPL学園高校に進学する、

憧れを持っていた と言う。

しかし、第84回全国高等学校野球選手権大会で、

高知の 明徳義塾高校が全国制覇を果たす姿 を見て、

石橋さんは 明徳義塾高校へ進学する事を決意 した。

進学後、高校時代の1年生の秋からは、

レギュラーで二塁手として活躍。

第80回春の選抜高等学校野球大会に、

四国地区出場代表枠で甲子園に出場 している。

拓殖大学へ進学後、1年の春から、

投手兼内野手でリーグ戦に出場していたが、

打率は1割台に低迷し、

投手としては1年秋に東都大学二部リーグで、

防御率トップの1.57を記録したことで投手に専念。


(現役引退後のセカンド・キャリアを、

見据えていた石橋さん。

現役時代のオフシーズン、林檎農園を訪れ、

それが縁で農業に興味を持つ 切っ掛けに成った。)


2年秋と3年秋は防御率リーグトップを記録し、

2年の秋は二部リーグで48季ぶりの優勝にも貢献 した。

4年の春は右肘を痛めたため、

リーグ戦登板はなかったものの、

4年の秋は一部リーグで4勝を記録し、

チームに貢献 した。

社会人野球チームである、Hondaへ入社後、

1年目からは主力として活躍。

平成26(2014)年の第67回JABA九州大会では、

優勝を果たしMVP にも選ばれた。

第85回都市対抗野球大会ではリリーフ、

同86回大会では惜しくも準優勝に甘んじたものの、

活躍が評価され、敢闘賞を受賞 している。


(農業にご縁を持つ切っ掛けと成った、

林檎農園のオーナーである菅原富士男さん(左)。

一時期、農園を止めようかと思った菅原さんだったが、

石橋さんが現役時代から、

シーズンオフに訪れていた事に加え、

石橋さんがマウンドで頑張る姿に勇気 を貰い、

農業をやり続ける事に。)


平成27(2015)年10月22日のドラフト会議で、

楽天から5位指名を受けて入団

輝かしいプロ野球選手としてのステージを迎えた。

入団1年目の2016シーズンに、

中継ぎ投手として1軍登録、

同年03月26日の対ソフトバンク戦では、

プロ初登板デビューを果たした。

しかしその後は一軍と二軍を行き来する等、

4度の登録抹消を経験。

1年目は一軍で6試合に登板するも、

防御率は13.50と打ち込まれ、

プロの厳しい洗礼を受けた。

その後、一軍へ何度かの登板機会はあったものの、

その恵まれた素質を持ちながらも、

才能は思う様には開花せず伸び悩んだ。

プロ野球選手として最後のシーズンと成った、

令和05(2023)年度のシーズン、

一軍への昇格はあったものの、

満足の行く様な成績が残せず、

同年10月11日付けを以って、

現役生活に分かれを告げた。

当時、石橋さん自身も、

「正直(戦力外通告が)あるなと言うのは、

自分でも感じてたので、

野球をしようか如何かではなく、

野球に摂って替わる仕事は、

何をしようか切り替えは出来ていた」 と、

当時の心境をこの様に語った。


( 「農業に関する知識も経験もない中で、

飛び込むのは如何かな?と思ったが、

現役の時に現状維持しようと思った事があって、

そこで自分の成長を止めちゃったのかなと思って、

今は何かする時は、常にチャレンジとようと、

挑戦し続け様と...。」 と、現役時代の反省も込めて、

今現在自身への戒めも忘れてはいない。)


読者の皆様も プロ野球のシーズンオフに於ける、

チームの契約更改に先立ち、

必ず出て来るのが来季の契約問題、

すなわち戦力外通告の話題である。

プロの選手は結果が全てと言われる通り、

新しい世代の選手も次々と登場すると成らば、

選手間同士による競争意識は凄ましい。

石橋さんはその事を、

一番痛切に感じているひとり でもある。

自身も引退後に球団側から、球団職員及び、

コーチとしてのオファーがあったと言うが、

石橋さんは自らが、

こういう場面に立ち会った事を想定し、

新しいセカンドキャリア を見出していた。

それは 『農業』 と言う、

全く新しい異なった分野での仕事だ。

石橋さんが農業をやり始める切っ掛けとなったのは、

果物である 『林檎(りんご)』 が出会い だった。

野球はやり切ったと感じていた石橋さんが、

新たに挑戦したのが農産物の販売だった。

現役当時の令和02(2020)年のシーズンオフの事、

宮城県登米市中田町にある林檎農園に、

林檎狩りを始めた事が農業との出会いの、

始まりのひとつ だったと言う。

その出会いの原点となったのは、

『菅原農園』 を営むオーナーである、

菅原富士男(すがわら ふじお)さん 、その人である。

この日は、オーナーの菅原さんの指導の元で、

林檎の木の摘果作業だ。

実はオーナーである菅原さん自身、

一時、林檎農園を辞めようか?

と思い立った時期があった と言う。

「滅多に野球選手がこういう所に尋ねて来ると言うのは、

無いものですから…。」 と語る菅原さん。

当時、現役のプロ野球選手だった石橋さんの訪問に、

ココロ感激し、思わず涙が零れたと言う菅原さん。

その後、マウンドで活躍する石橋さんの雄姿に、

勇気を貰い農業を続ける事を決めた と言う。

石橋さん曰く 「本当にこの(農業を続ける)話を聞いた時、

プロ野球選手として嬉しいし、

これからは菅原さんのチカラを借りて、

頑張って行きたい」 と当時を懐かしむ…。

更に石橋さん曰く 「知識も経験もない中で、

飛び込むのは如何かな?と思ったが、

現役の時に現状維持しようと思った事があって、

そこで自分の成長を止めちゃったのかなと思って、

今は何かする時は、

常にチャレンジとようと挑戦し続け様と...。」 と、

現役時代の反省も込めて、

今現在自身への戒めも忘れてはいない。


(農産物関連のウェブショップを立ち上げ、

郊外店の駐車場では、マルシェにも積極的に参加。

時折、現役時代だったチームメイトも、

SNSを見て駆け付けてくれた。

マルシェ出店では連日の人気で、

売り切れ続出の完売御礼の日々だった。)


昨年06月01日には、

自身のウェブサイトを立ち上げた石橋さん。

米や卵等の農産物を販売する、

『Minori(みのり)』 を立ち上げた。

グローブからパソコンのマウスに替えての奮闘。

休日には自ら開設したウェブショップで、

平日には NPO法人である 『とびのこハウス』 で働き、

「一人でも多くの子供に夢を与えたい」 と、

平日にはハウス内で多くの子供達と触れ合い、

「予約制の子供食堂の普及や、

勉強やスポーツを通して、

子供達が心の拠り所と成る居場所を創りたい。

自分が夢を追っていたからこそ、

伝えられる事があるから」 と語る石橋さん。

農産物販売の軌道に乗るまでの期間、

石橋さんは休日には、

郊外店の駐車場の一角を借りて、

マルシェの様な形で農産物の販売も展開した。

当然、石橋さんを知る、

現役時代のチームメイトやファン等が、

SNSでの情報を見てその都度現場に訪れて、

激励に駆け付けたり、一緒にお買い上げにも、

協力=貢献してくれる等、

ご本人にとっても大きな心の支えとなる時期 でもあった。

その後、石橋さんは宮城県内の各農家の人達と、

心を触れ合いながら、交流の幅を広めて行く。

そんな石橋さんにとっても、

思いも寄らない大きなサプライズ=吉報 が、

待ち受けていた。


(仙台市の北部に位置する黒川郡大和(たいわ)町。

1.5ヘクタールの休耕地を耕して、

ここに地元特産の葱を生産する構想が…。

既に畑には、葱の苗を植栽した。

ここから新しいブランド品が誕生する事を願って、

農作業に余念がない。)


今年の05月、仙台市の北部に位置する、

黒川(くろかわ)郡大和(たいわ)町。

この場所に新たなる農地を開拓し、

地元産の葱(ねぎ)を地場産品として、

売り出す構想があった。

地元の農産物を手掛ける会社と、

地元住民らと協力して、

1.5ヘクタールの休耕地状態に成って居た、

土地を開墾し生産への下準備を施していた。

この事実は知った大和町役場は、

石橋さんへ06月18日付けを以って、

地元の 『地域おこし協力隊』 として任命。

同町役場で 浅野俊彦(あさの としひこ)町長から、

『地域おこし協力隊』 の一員としての辞令 を受けた。

石橋さんはこれまで居住していた、

仙台市内から大和町へ移住。

浅野町長自身も、石橋さんが現役選手時代から、

活躍されていたのはご存知で、

今回の(大和町)移住を心から歓迎。

町の特産である葱を是非、

石橋さんのチカラを借りて、

町のブランド力として高めたいと言う意向もあり、

石橋さんへの 『地域おこし協力隊』 への打診を行ない、

快く承諾 を引き受けた。

晴れて大和町民と成った石橋さんは、

「自分が選手時代に、

宮城・東北の皆さんの心温かい応援は、

本当に励みになった。

選手では無くなってしまったけれど、

これからはこれまで応援して下さった、

皆さんひとりひとりへ、

微力ながら少しずつ感謝の恩返しをする番。

農業を通じて地場産である、

葱のブランド力を高めていくためにも、

一町民のひとりとして、

皆さんの智恵とチカラをお借りしながら、

頑張りたい」 とこの様に語った。

石橋さんは現在、農業に従事する傍ら、

仙台市内のコミュニティーFM局の冠番組の他、

楽天球団関連のスポーツ配信番組にも出演する等、

現役時代以上の多忙さを極めている。

嘗て楽天の先発・中継ぎ投手の一角として、

活躍された石橋良太さん。

少年時代から野球に親しみ、

有力校(明徳義塾→拓殖大)、

社会人チーム(Honda)へと野球経歴を重ね、

念願のプロからの指名を受けて(楽天へ)入団した。

しかし、恵まれた素質を持ちながら、

自身の持っていた性格もあったのだろう。

それが一因で、プロのマウンドでは、

中々真価を発揮する事が出来ず仕舞いだった。

その事はご本人にとっても一番痛切に歯痒い程に、

感じていた事であった事は否めない。

僅か8年間だけのプロとしての、

在籍期間ではあったものの、

その間に ホームゲームや主催試合による、

東北6県への遠征試合では、

マウンドに立つ石橋さんへ、

観客席からは大きな声援 を受けていた。

現役選手として最後の年となった、

2023シーズン終了後の、

戦力外通告を受ける事をある程度覚悟し、

次なるセカンドキャリアをも見据えていた。

農業と言うライフワークを通して、

地場産品である 『葱』 のブランド化 に向けて、

移住した新天地では新たなる開拓に余念がない。

ブランド化されれば、仙台・宮城の市場は勿論、

東北各地や東京等の大都市圏、

引いては石橋さん出身の大阪・関西圏への、

商品としての流通出荷とて夢ではない。

宮城・大和町産の 『葱』 が=石橋良太(さん)と、

紐付け有名になる日もそう遠くはない だろう。

関西出身である石橋さんにとっても、

未知の東北の地での、

プロ野球選手としての活躍の始まりは、

何かの目には見えなかった、

序章=ご縁の始まり だったのかも知れない。

東北の人々の温かい声援励みが、

石橋さんが現役時代に頑張れた、

原動力のひとつでもあり、

自身の持っている性格も、

東北の風土にマッチしていた事 は言うまでもない。

選手生活を引退してからも、

宮城・東北へ留まる事に抵抗はなく。

第二の故郷(宮城・東北)へ、

骨を埋める決意 をした石橋さん。

そして自身が描いている、

農業と言う分野に軸足を置き、

食を通して、応援して下さったファンの皆さんへ、

少しずつ微力ながらの恩返し。

石橋さんの第二の人生は、

正に新たなる果敢な挑戦として、

始まったと言っても過言ではない。


(仙台市から黒川郡大和町に移住した石橋さん。

浅野俊彦町長から、

『地域おこし協力隊』 に任命された。)


【石橋良太(いしばし りょうた)プロフィール】

平成03(1991)年06月06日 木星人-

大阪府堺市堺区出身。

元東北楽天ゴールデン・イーグルス選手。

堺市立榎小学校では小学1年から、

長曽根ストロングスで投手として野球を始め、

5、6年時に全国優勝。

堺市立三国丘中学校時代には浜寺ボーイズに所属。

遊撃手兼投手として2、3年時には全国大会に出場。

当初、地元のPL学園に憧れを抱いていたが、

第84回全国高等学校野球選手権大会での、

明徳義塾高校の全国制覇する姿を見て進学を決意。

進学後、1年の秋から二塁手のレギュラーとして活躍。

第80回選抜高等学校野球大会に出場し、

2回戦の中京大中京高校戦では、

サヨナラ適時打を放つ。

拓殖大学進学後、1年春から投手兼内野手で、

リーグ戦に出場していたが打率が1割台に低迷し、

投手としては1年秋に東都大学二部リーグでは、

防御率トップの1.57を記録した事で、投手に専念。

2年秋と3年秋は防御率リーグトップを記録し、

2年の秋は二部リーグ48季ぶりの優勝に貢献。

4年春は右肘を痛め、リーグ戦登板はなかったものの、

4年の秋は一部リーグで4勝を記録。

Hondaに入社後、1年目から主力として活躍し、

平成26(2014)年の第67回JABA九州大会では、

優勝を果たし、MVPに選出。

第86回都市対抗野球大会では、日本生命と対戦し、

惜しくも優勝を逃したものの、

これまでの活躍が評価され、敢闘賞を受賞。

平成27(2015)年10月22日に行われた、

プロ野球ドラフト会議で、

東北楽天ゴールデンイーグルスから5位指名を受け、

契約金4000万円、年俸1000万円で合意し入団。

背番号は 『28』

入団1年目に中継ぎとして開幕一軍入りを果たし、

03月26日の福岡ソフトバンク・ホークス戦で、

プロ初登板を果たす。

成績不振のため、平成29(2017)年シーズンオフに、

育成選手として再契約し、背番号は 『028』 に変更。

同30(2018)年シーズン中に支配下登録を経て、

背番号 『94』 に変更。

翌シーズン(2019)には、背番号 『60』 に再変更。

以後、先発及び中継投手を務める。

令和05(2023)年11月11日に現役引退を表明。

引退後は、農業をライフワークに活躍。

令和06(2024)年06月01日に農産物の、

Web Shop 『Minori(みのり)』 を立ち上げる。

平日にはNPO法人である 『とびのこハウス』 で働き、

「一人でも多くの子供に夢を与えたい」 と、

平日にはハウス内で多くの子供達と触れ合い、

予約制の子供食堂の普及や、

勉強やスポーツを通して、

子供達が心の拠り所と成る居場所を創りに貢献。

今年05月に仙台市から同県黒川郡大和町に移住。

大和町から、 『大和町地域おこし協力隊』 の、

任命委嘱を受ける。

地元産の 『葱』 をブランド化 するため、

地元農業関係者と協働で特産化に取り組む他、

仙台市のコミュニティーFM局の冠番組や、

楽天球団関連のスポーツ配信番組にも出演する等、

現役時代以上の多忙さを極め、現在に至る。


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