昔、いじめということは 問題にされなかった。
それは いじめられたらやり返すということが当たり前だと思われていたからだ。
つまり、「ケンカ」をしていたのです。ケンカすることによって 争うことの意味や痛みを体験し、学ぶ必要があったからです。
そして 大人は子供の喧嘩には口を挟まないというルールがあり、子供たちの成長を見守っていたのです。
ところが 平成、令和と時代が移り変わって、「ケンカ」がなくなり、「いじめ」という形のなったのです。
これは 親たちが「ケンカ」を無くすために 「戦う」ことをやめさせた結果なのです。
「戦う」経験を失うことによって 「分かり合う」とか「許しあう」という体験を失ってしまったのです。
その結果 知識では「分かり合う」「許しあう」ことが理解できるのですが、体験がないから 本音では 相手を許すことができなくなってしまうのです。
何故、喧嘩を無くしたのでしょうか?
それは 「おもいやり」という行き過ぎた建前の仕業です。戦いによって傷つくことを恐れたのです。「傷つく」という敗北体験を奪っていることに気づかなかったのです。
私自身は いつも喧嘩に負けている情けない子供でした。そんな人間も「負ける」ことの意味を学びました。負けるだけでなく「負けるが勝ち」という狡さも身に着けたのです。
ケンカというのは 勝っても負けてもい互いに傷つき、痛い思いをするのです。「ケンカ両成敗」という苦難の体験が奪われることによって 人とわかりあうためのコミュニケーション能力が奪われているような気がします。
敗北体験から多くのことを学び、成長するチャンスを奪ってしまったのです。行き過ぎた「思いやり」によって 子供たち自身の人生を体験するチャンスを奪ってしまったのです。
敗北体験ができるのは スポーツの世界が確実です。勝つための努力の裏に敗北体験が根付いていることが解ります。
そうした環境の中で育つと理想的な人間に育つような気がします。












