先日、震災の現地で支援活動をしてきたことについて、今日の昼休みを利用して、職場で何人か集まって話を聞いてもらうことになった。

プチ報告会だ。

仕事上関わりのある相手の復旧支援だったので、実際現地はどうだったのかのトークライブという感じだろうか。


あの日から2ヶ月が過ぎた。

今こうして、生きている自分がいる。

職場だったビルが倒壊していたら、17階にいたので助からず、間違いなく今は死後の世界にいる。


あの日を境に、この世を去ることを余儀無くされた人たち、
生き残ったが、多くの財産を失い、生き地獄の中で生きている人たち、
放射能のために生活の場を追われて先の見えない不安の中の人たち、

そして運良くたいして変わらない日常を過ごしている人たち。


震災で被害を受け、そして生きている人たちの苦悩、地獄は続く。
今日の報告の中で、私は誰かに、何を伝えよう。

口をひらく。文字にする。

伝わるだろうか、
という不安を踏み台にして、
ちょっと跳んでみる。


着地に失敗して転んでも、たいして痛くないだろう。
跳ばなかった後悔から来る、
小さいのにいつまでも消えないココロのイタミよりも。

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また、毎日の仕事に追われている。
クリエイティブというよりは、次から次へと個別課題を解決していく、作業といえば作業な仕事なので、ひたすら集中してやれば先は見えてくる。新しい何かを生み出すストレスや、ノルマ達成に向けてのプレッシャーが無い分、精神的には楽だけれど。

先週、被災地の工場でヘドロ掻き出しをしていた非日常と、普通に仕事があり普通に仕事に追われ普通に疲れて過ごす日常、
当たり前の毎日がとてももろく危ういことを、いつもは考えることもない。

無責任な祭りのような非日常は一旦終わり、少しずつ色褪せ、乾いていく。

日常が普通にある
「側」
の1人として、
「側の1人なんて言える身分」
の奴など相手にするヒマも余裕もない非日常の人々に、
ほんとうに必要な、
自分に出来て続けられることがあれば、
日常に帰ってきてあーだこーだとグダグダ言っている場合などではないんだ。
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被災地から、自分が生活する街に帰ってきた。

今回、避難所を訪れた訳ではなく、だから避難生活をしている人々に関わってもいないので、その生活の苦労、困難に直接触れることはなかった。
津波に破壊された風景の中に身を置き、「モノ」の復旧、川の清掃に携わっただけだ。

街はいつか復旧、復興していく。
津波で命を落とした人が生き返ることはない。

当事者ではなかった幸運への安堵と、また何事も無かったかのように、あるいは少し気にはしつつも、日常の自分の仕事、生活に忙殺されることを理由に、テレビの中の出来事として閉じ込め、見たい時だけ見るような毎日に戻るのか。

何も整理することができない。
これからどうしていこう。
若葉の木々が風に揺れている。