それからしばらく、いつもと変わらない毎日が続いていた。


少しずつ春が近づいている。


最近は、プランターの一つや二つ玄関先に置いてある家が多い。


寒さに強いと言うビオラが咲き、チューリップは芽を出している。


遅咲きのシクラメンは日当たりの良い出窓で自慢げにその花を咲かせている。


街を歩く人たちはコートをあまり着なくなった。


洋服の色も黒・茶というものから明るい色のものに変わってきた。


一枚一枚脱ぎ捨てるたびに身体が軽くなっているように感じられる。


そんなある日、仕事の打ち合わせの帰り道、尚は偶然すれ違った悦子に声をかけられ振り返った。


「山村さん。」


「あ~、悦ちゃん。


こんなところで会うなんて驚いたな。」


「久しぶりですね。


少し時間ありますか?」


悦子が尚に聞く。


「うん。


あとは事務所に戻るだけだから。」


「この前。麻衣に会いました。


二人とも仕事、忙しそうですね。


麻衣は最近書き続けてるって何かで読んだけど、彼女、元気にしていますか?」


「元気だよ。


仕事に生きがいを感じているみたいだ。」


尚はそう答えた。


・・平和な人ね~。


悦子は麻衣の心のずっと奥の思いに気づいていない尚にひどく腹が立った。


麻衣が書いている本当の意味をこの人は何も理解していない。


あなたとの距離を感じることが怖くて、他のことに気持ちを向けているのに。


本当は尚に向かって言ってやりたいことは山のようにあった。


それでも悦子は何とか自分を黙らせた。


せっかく麻衣が格好つけた最後の大芝居を邪魔したくないと思ったから。


「俺たち、多分、別れることになると思うんだ。」


尚が残念そうに言う。


「そうですか。」


悦子はそう言った。


「悦ちゃんは驚かないんだね。


麻衣に聞いてたの?」


「そこまではっきりしたことを聞いたわけじゃないんです。


ただ、前のようにはなれないって言ってました。


まさか、そんな意味だったとは思いませんでした。」


「こんなことになって、俺としても残念なんだ。」


悦子には、尚のその言葉の意味が理解できないでいた。


「山村さん、麻衣に書いたものを読んだことがありますか・」


「いや、まだ一度も無いんだ。


俺も忙しくて読む時間がないこともあるんだけど、麻衣は読んでほしくないんじゃないかな。


一度も読んでみて、とか言われたこと無いから。」


「そうですか・・。


私は全部読んでいます。


麻衣の心が見えるから。」


少し偉そうに言ってしまったように感じたけど、気が付いて欲しいと思った。

寒い季節は嫌いだ


もうキミは いないから


最初から わかっていたはずなのに


キミのいない 今を どう過ごしたらいいのかわからない



「あなたは生きて」 そう言った


「泣かないでね」 そう言った


「約束して」 そう言った




「わかった」 そう言った


僕は何度も何度も繰り返し そう言った


『約束』したけど 守れそうにないよ


生きることも・・・


泣かないことも・・・


全部投げ出してしまいたい



泣かないキミが はじめて見せた涙を思い出す


「あなたのおかげで 幸せだった」


一番悲しかったのは キミだったことを 思い出す 


胸が締め付けられるように 痛い



何かもっと・・ 


してあげられることは なかっただろうか


傍にいるだけで・・・


気の利いた言葉の一つかけることもできず


今なら・・・ 何かできたたろうか


きっと 同じ 何もできやしない




ねえ 約束したけど・・・







目の前に広がる世界 これは夢の世界


現実には 踏み込めない世界に 身を置いている


少し戸惑いながらも


この場所に馴染もうとしている姿は どう映るのだろう




自分が自分でいられる世界 


それがここでないなら


潔く ここを出ることを選ぼうと思う


もう二度と会えなくても


もう二度とその笑顔が向けられることがなくても


この場所に踏み込んだ時よりも


少し大きな勇気がいるけど


覚悟を決めて 次の一歩を踏み出そう




自分を取り戻すために


大きく息を吸い込んで


さあ 今 この時に

「ただいま。


遅くなってゴメンね。」


「お帰り。


楽しかった?」


「うん。」


「それは良かった。


夕食を作って待ってたんだ。


ハンバーグだぞ。」


少し焦げている『それ』をみてなぜか感傷的になる麻衣がいた。


尚は何かあるといつもハンバーグを作った。


「今日の夕飯は俺に任せろ。


麻衣は準備が出来た頃に帰ってくればいいから。」


そう言った。


ハンバーグだと思いながら嬉しかった。


二人にとっての記念日とか誕生日とか、そんな時。


「私、着替えてくるね。」


尚の優しさが身に染みる。


そして別れが近いことを感じた。


もう引き返せない。


随分前から覚悟はしていたのに。


尚のことを嫌いになったわけではなかった。


でも、自由にしてあげたいと思った。


そして自分も自由になりたいと思った。


お互いを気にかけながら、別のことに向いてしまった心を誤魔化しながら過ごしている毎日から。


もしかしたらこんな風に食事をするのは最後になるかもしれない。


「尚、今日はありがとう。


ハンバーグ美味しいよ。」


こんなことを言うのは久しぶりで少し照れくさかったりもしたが素直な気持ちを言葉にした。


「この前のことなんだけど、俺の話も聞いてほしい。


俺は、今、一緒に暮らしている女がいるんだ。


ずっと前から知ってる女だ。


でも、誤解しないでくれ、特別な関係になったのは一年くらい前なんだ。」


尚は、ほんの一年の付き合いだと言いたげだった。


麻衣にしてみれば一年も前から・・、そう思ってしまう。


いくら知らん顔していても聞きたい気持ちはいつもどこかにあったのだから。


「正直、今は彼女のことが好きなんだ。


勝手な言い方かもしれないけど、麻衣に別れようと言われて内心安心した自分がいる。


麻衣を嫌いになったんじゃなくて、彼女を好きになったんだ。


麻衣はこれまで通りここで暮らせばいい。


俺が出ていくから。


だけどもし、麻衣がここで暮らすのは嫌だと言うのなら手放すことも考えるつもりだから。」


このマンションに引っ越してきた時、こういう状況になるなんて思ってもいなかった。


十五階建ての十階に二人の部屋はある。


広さに心を躍らせて、これからもっと楽しく暮らしていけると信じていた。


尚は仕事が軌道に乗り忙しく走り回っていた。


麻衣は銀行の仕事、家のこと、そして書くことに追い立てられながらも精一杯頑張っていた。


どれか一つを手放せば、少しはラクになれると友人たちは忠告してくれたが、その全部が麻衣の一部になっていた。


もう、どれ一つとして手放せるモノはなかったのだ。


すれ違うことが多くなっても麻衣の心に不安は無かった。


それは、自分の尚に対する気持ちは少しも変わっていなかったから。


きっと尚も同じだろうと信じていた。


「ゴメン、俺の身勝手で・・。」


「きっと半分は私のせいだから。」


大事に育ててきたモノをいつまでも持ち続けられると思っていた。


どこで失くしてしまったのだろう。


落としてしまったその時に気が付けば立ち止って拾い上げることもできるのに、どこで失くしてしまったのかわからないほど歩いてきてしまっていた。




「尚、どうかした?


少し変だよ。


あの人に知れちゃった?」


帰って来るなり美緒はそう言った。


こんな暮らしをしていれば気づかれて当然だと美緒も思っていた。


「麻衣と別れる話をしてきた。」


「えっ?


別れてくれるの?」


美緒は尚との結婚を望んでいた。


最初は、彼女がいても好きだと言う気持ちだけだったのだが、自分の方が尚の近くにいると感じた頃からその気持ちは変化していった。


尚を自分のモノにしたいと思うようになっていった。


今まで何度も言い出してしまいそうになるのを、ずっと我慢していた。


「あの人と別れて、私と一緒になって・・。」と。


「その気はない。」そう言われるのが怖くて言えなかった。


「麻衣が別れようって言ったんだ。


本格的に仕事をやりたいからって。」


「そうなの・・。


尚より仕事を選んだってことよね。


私は、仕事より尚を選ぶ。


こんな言い方したら悪いけど、嬉しい。」


「俺、美緒のこと黙ってられなくて言ったんだ。


アイツは顔色一つ変えなかった。


知っていたのかもしれない。」


美緒は二人の間に別れ話が進んでいることを単純に喜んだ。


そのことが尚の心に今までにない何かを生み出した。


尚に今の美緒の喜ぶ姿を責める資格があるのだろうか。


尚があの時、自分を抑えていられたら、今、全ては違う方向に流れていたのかもしれないのだから。

今に暮らしに満足していますか?


そう聞かれても まあ普通に・・としか答えられない


夢ってありますか?


そう聞かれても下を向いたまま 顔を上げられない


人生は一度きりだと頭ではわかっている


でも 実感するのは・・・


ずっとずっと後になってから



いつだって どこからだって 


初めようという気持ちがあれば


できないことなんてない・・・なんて


アレ 本当かな?



振り返って思う


あの時 もう少し諦めずに頑張っていたら・・


あの時 勇気を出して好きだと言っていたら・・


あの時・・・




子供だった頃から 何も変わっていない


作文を書く時は いつも『思い出』


未来に続く扉は 閉ざされたまま




それでも 前を向いて進めと声がする


取り戻せない過去に背を向けて


ゆっくりでもいいから 前に踏み出せと声がする