「あれ、もしかして、草野麻衣さんですか?」
麻衣よりは幾つも若い男の子だ。
背は高く、均整のとれた身体付き。
綺麗な二重の瞼、高い鼻・・美形だ。
「はい、そうですけど。」
知らん顔はできず小声で返事をする。
「僕、あなたの本を買いに来たんです。
久しぶりですね。」
「ええ、いつも読んでくれているんですね、ありがとう。」
麻衣は正直、自分のことを知っているという人がいるこの場所から早く去りたいと思っていた。
作り物の笑顔にだって限界と言うものがある。
今は、ほんの少しだって笑っていられる心境じゃないのだから。
それなのに彼は次々と言葉をかけてくる。
「ごめんなさい、少し急ぎますから。」
「あっ、気が付かなくてごめんなさい。
じゃあ・・。」
本当は、どこに行くという当てがあるわけではなかった。
麻衣はしばらく歩いて映画館の前に立ち止った。
映画も最近では家でDVDを観ることが多くなった。
それも眠れない夜に一人で。
ずっと前は尚と二人でよく行ったものだった。
いつも一緒にいたくて、好きで好きで・・そんな頃。
映画のヒロインよりも幸せだと思えたあの頃。
もう過去のこととなってしまった。
館内に上映間近を知らせるブザーが響く。
そんな時・・。
「あれっ?」
さっき本屋にいた彼だった。
「どうも。」
麻衣は言葉少なに答えた。
「時間無いって、このことだったんですね。
でも、間に合ってよかった。
ねっ。」
本当に気軽に話しかけてくる。
嫌な気はしなかったが正直少し戸惑っていた。
「映画、よく観に来るんですか?」
「まあ、気分転換にね。」
「へ~、そうなんですか。」
彼はまだ何か喋っていたが、明かりが消え映画が始まると黙った。
麻衣はここで退屈な時間を過ごしていた。
沈んだ気持ちに、特別好きだというわけでもないこの映画も手伝って、終わる頃には相当落ち込んでいた。
「いい映画でしたね。」
彼は屈託のない笑顔を向けてそう言った。
「・・・・。」
麻衣はもう話す気力も残っていない。
「気分転換になってないんじゃないですか?
僕、イイ所知ってるんです。
行きましょう。」
と、麻衣の手をスッと取った。
彼の手がとても自然に感じられて麻衣自身驚いた。
こんな風に手を繋いでくれたのは、今まで尚ただ一人だった。
そんなことを思い出していた。
麻衣は手を繋いで歩くことが好きだった。
肩を組んでくる男の子もいたし、腰に手を回す彼もいた。
でも、本当は手を繋いでいたかった。
彼らにしてみれば子供のようで嫌だったのかもしれない。
尚はそんな中で、とても自然に手を繋いでくれた。
まるで大切なモノを失ってしまわないように・・そんな優しさがあった。
「私は・・。」
立ち上がったものの麻衣は戸惑っていた。
「時間無いんですか?」
彼が麻衣を見つめる。
「大丈夫よ、行きましょう。」
麻衣は歩き始めた。
先を急いでいるのか、彼は少し早足だった。
「僕は、章吾と言います。」
「しょうご君ね。」
「プラネタリュウムって草野さん好きですか?」
「今まで行ったことないのよ。」
「僕は一度ではまってしまいました。
だから、よく一人で来るんです。」
「男の子なのに、珍しくロマンチストだったりするんだね。」
「僕は男の方がロマンチストだと思います。
女の子って夢の話とかあんまり好きじゃないようで・・。
そんなことより、どこのパスタが旨いとか、新しく出来たあの店のケーキが甘さ控えめでいいとか、現実的だと思いますが、違ってますか?」
「そうだね。
あなたの言う通りかもしれない。」
章吾はこんな話も照れずにする。
それも今日、しかもさっき出会ったばかりの麻衣に対して。
章吾にとって麻衣は今日初めて会ったには違いないが、麻衣の本をいつも読んでいたので親しみがあったのだ。
麻衣は、小説、エッセイなどを時々書いている。
凍えた心の持っていき場がこの『書く』という行為なのだ。
二度とあんなに素敵な恋には出会えないと思った。
尚と出会った時、麻衣には付き合っている彼がいた。
大学生同志で仲間と何人かでいつも一緒だった。
恋は恋だったのだろうがまだ子供のレベルだったのかもしれない。
誰かを好きになることがどういうことなのか、よくわかってなかったように思うのだ。
尚と付き合うようになって、好きになることを嬉しく思う自分を知った。
自分を飾らずありのままで内側から充たされることを知った。
もう誰かをそんな風に好きになれないと思った。
それは、麻衣の心が真っ白だったあの頃に戻れないことを知っていたから。
だけど、物語の中でなら、そんな恋もできるような気がした。
こうありたいという女性像や、こうあって欲しいという願いも、この現実の世界でないなら組み立てられると考えた。
いつの間にか、麻衣は物語の世界に逃げ込んでいた。
自分自身、それに気が付いていたが、あえて現実の世界に戻ろうとはしなくなっていた。
物語の世界で生きている自分が本当の自分だと思うことで寂しさを誤魔化していた。
これほど心を痛めている麻衣のことに尚は少しも気づかなかった。
「章吾君、ありがとう。
本当に気持ちが晴れたみたい。」
「作家って大変なんですね。
僕は、いつ?いつ?って待ってるだけ。」
「そう思って読んでくれる人がいるって嬉しいよ。
良いものを届けられるように私も努力します。」
「頑張ってください。
???こんなこと僕が言うのも変ですね。」
「プラネタリュウム、私もはまりそうよ。」
「じゃあ、また会えるかもしれませんね。」
あっ、何か食べませんか?」
「私、もう帰らないと・・。
それじゃ、さよなら。」
麻衣は笑ってそう言うと人の中に消えた。