麻衣を愛してからずっと他の女性を抱いたことなど一度もない。
遊びで抱けるような人間ではないのだ。
だが、遊びではなく他の女性を抱いたことの方が厄介だと言うことは確かだ。
麻衣は尚の心の変化を鋭く感じ取っていた。
気が付かないふりをしていた。
内心は穏やかなはずはなく、その思いを原稿用紙に向けていた。
寂しさ、驚き、怒り、嫉妬も全て。
本来なら尚に向けられる感情を・・。
そして尚の前では何も知らない女を演じてきた。
この時、麻衣が尚に向かっていく勇気があれば最悪のところまでいかなくて済んだのかもしれない。
麻衣にもプライドがあった。
お嬢さん育ちの割には貧しさなんて少しも気にしていなかった。
ボロボロのアパートだってどおってことない。
二人で暮らせる場所があればいい。
そういう女だ。
ただ、尚への気持ちだけは誰にも負けないと思っていた。
尚も同じだとずっと思ってきた。
これは思い上がりでもなんでもなく純粋に信じていた。
その全てが消されていくことに我慢ならなかった。
「チーズもあったから、これもね。」
「麻衣、仕事の方はどうなの?
忙しいんだろ?」
「忙しいと言えば忙しいけど、眠る時間が無いほどじゃないよ。」
「身体、大切にしなきゃダメだぞ。」
(俺は何を言ってるんだろう。)
「尚。真面目な話ししていい?」
「ああ、何?」
「私たち、別れた方がいいんじゃないかしら?」
麻衣の言葉に尚はひどく驚いた。
本当は、そう言いたいう気持ちが尚の心の奥にいつもあった。
今は美緒を愛しているのだから。
だけど、こうして麻衣の方から別れを切り出されたことに戸惑っていた。
(彼女のことを麻衣は知っているのだろうか。
いや、そんなはずは無い。
それならどうして?
これで美緒と一緒になれる。)
心の中でいろんなことが駆け巡る。
いまここで、
「そうしよう。
別れよう。」
と言うのもなんだか変な気がした。
(ここは一つ芝居が必要かもしれない。
…なんてヤツだ、俺と言う人間は。)
「何でそんなことを言うんだ?
今までだって、楽しくやってきたじゃないか。
これからだって上手くやって行けるって。」
心にないことがスラスラと出てくる。
そんな自分自身に尚は驚いた。
そして麻衣も驚いた。
尚がこんなウソをつくなんて・・。
彼の心の中には彼女のことでいっぱいなのだと感じた。
「私、書くことを本格的にやっていきたいの。
今みたいな形じゃなくて、生きていく為に仕事がしたいの。
これまでの私は尚への思いの上に乗っかって、取りあえず銀行で働いて給料をもらう。
そういう毎日を送ってきた。
尚と暮らすことが一番で、二番も三番も無かった。
時には辛いことも大変なこともあった。
でも、それより楽しいこと、嬉しいことがたくさんあった。
今は、違う。
銀行での仕事に追われ、書いている小説のことを考えて、尚のことを考えなくなった。
私は、尚がいなくても上手くやって行けるって、そう思うようになった。
・・だから別れた方がいいんじゃないかって・・。」
「麻衣の気持ちはわかった。
俺の気持ちを整理する時間をくれないか?」
「うん。
尚も考えてみて。」
尚にとってこれが芝居なら、麻衣にとっても一生に一度の大芝居だった。
尚の心の中を気づいている自分を知られてはいけない。
自分のために今、別れる道を選ぶのだと彼に思わさなければならない。
彼の後ろにいる姿の見えない誰かに取られたんじゃない。
そう思うことが今の麻衣を支えるたった一つの方法なのだから。
「先に寝るけど、尚はゆっくり飲んでね。」
「ああ。」
「おやすみ。」