「あ~キレイだったね。


この空・・日本の空と繋がってるんだよね。」


初めて海を見た時、その広さに驚いた。


どこまで続いているのかと地図を広げた記憶がある。


そして、ふと思った。


空は?


空はもっと広い。


海と陸と違って空は空だけなのだから。


遠く離れた知らない場所で知らない誰かも、こうして空を見上げているかもしれない。


何かを思いながらだったり、ただぼんやりとだったり。


「麻衣、オマエは詩人だな。


俺はただ綺麗だと思っただけだ。」


「涼兄には、こういう世界は無縁だもんね。


大体、感情を表に出さないタイプだし。


いつも落ち着いていて、嬉しいんだか悲しいんだかわからなかったもん。


でも、あの時だけは違ってた。


車がやって来た日。


今でも元気に一緒に走ってるから。」


「運転、し腰は上手くなったか??


オマエの横に乗っていると生きた心地がしなかった。」


「それは、私のセリフです。


これは自慢だけど、一度も傷つけたことないんだよ。


涼兄から預かったあの時から一度も・・。」


「そうか、サンキュウ。」


あの車に対する麻衣の思いは深くなっていた。


乗り始めたあの頃よりもずっと。


ここに来る時も本当は連れてきたかったくらいなのだから。


今の自分を全部知っているのはあの車だけ。


そうはっきりと言い切れる。


出発の日、マンションの駐車場で妙に寂しげな顔をしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。


「涼兄、一度ゆっくり帰ってくればいいのに。


いつも仕事で帰ってきてすぐに戻ってしまうんだから。


二人でドライブしようよ。」


「そうだな。


麻衣、今度はどんなのを書くんだ?


俺はオマエにそんな力が眠っていたなんて思いもしなかったよ。


夏休みの宿題の感想文だっていい加減だったじゃないか。


本を読みもしないで、俺に粗筋だけ聞いて感想を書くんだから。


呆れて言葉も無かったよ。


俺が人間として成長した時、まとめて麻衣の本は読ませてもらうよ。」




涼介はずっと優等生だった。


両親の期待に応え自慢の息子だった。


一流と言われる企業に就職し、海外勤務に抜擢され、絵に描かれたような道を歩いていた。


涼介は、そんな今の自分を変えたいといつも思っていた。


周りの友人との付き合いを削りながら勉強する、そんな毎日に嫌気がさしていた。


かと言って、今の生活から抜け出す勇気が持てなかった。


そうやって長い間を過ごし今に至っている。


今、ドイツにいる自分は少し自由になった気がしていた。


麻衣の言う、感情を表に出さないというのは半分くらい当たっている。


実際は、どう笑えばいいのか、どう言葉をかければいいのか、わからないのだ。


だからいつの間にか一人で勉強していた。


その繰り返しだった。


両親の期待が重かったのかと言えば少し違う。


自分が弱いだけだと思っていた。


その証拠に、同じように育てられても自由に生きている妹がいるのだから。


「涼兄は周りのことを気にし過ぎだよ。


まあ、そのおかげで私がこうしていられるのかもしれないけど・・。


ゴメンね。」


と、いつか麻衣は言った。


強さの問題じゃなくて、性格なのかもしれない、そう思っていた。




「麻衣、次はどこに行く?」


「公園みたいな所で少し休みたい。」


「了解しました。」


涼介は笑って見せた。


休日の午後ともなれば公園には思っていた以上に人が集まっている。


家族連れ、恋人同士、友達とのおしゃべり。


木陰ではスポーツ後の汗を拭きながら元気な笑い声が聞こえる。


こういう空間は万国共通。


何が正しくて、何がウソかなんてことを考える自分がちっぽけに見える。


いま、この瞬間が真実、全てなのだ。


「涼兄、仕事、楽しい?」


「まあな、それなりに。


遊ぶ楽しさとは違う面白さがある。」


「だよね。


私も、書くことが好きでこうやって書いているけど、行き詰ると苦しくて苦しくて大変なの。


もう止めてしまえば楽になれるのに・・とか考える時もある。


そう思っても、やっぱり書いている。


私にはこれしか無い気がして・・。」


「そろそろ帰るとするか。」


「うん。


貴重な休日を私のために、ありがとう。」


「ああ。」

麻衣がやって来て何度か目の日曜日の朝、涼介が言った。


「今日は休みだから、どこか行きたいところがあれば案内してやるぞ。」


麻衣は少しだけ考えて言った。


「プラネタリウム。」


「わかった。


準備するから、お前も。


星、好きだったか?」


「最近、知り合った友達が教えてくれたんだ。」


「麻衣、アイツとはどうなってる?」


「・・・。」


「まあいい。


答えたくないなら無理には聞かないけど、母さんは心配してたぞ。」


「涼兄こそ、良い人いないの?」


「俺か?


今は仕事で精一杯だ。」


「付き合ってる人もいないの?」


「いるよ。


でも、結婚を考えてるわけじゃない。


無責任な言い方かも知れないけど、『結婚』って相手の人生も背負うことだと思うんだ。


今の俺は、そんな自信がない。」


その『自信』が持てるのはいつなのか、その日はやって来るのか。


永遠に来ないかもしれない、涼介はそう思っていた。


「そうなの?


でも、もう三十一だよ。


そろそろ考えた方がいいんじゃないの?


母さんも気にしていたし・・。


相手の女の人は涼兄のそんな気持ち知ってるの?」


「・・・。


麻衣、小説書けてるか?


俺はオマエが書いたモノを一冊も読んだことが無いんだ。


母さんは新しいのが出る度にこうやって送ってきてくれるけど、何となく照れくさくって、この通り部屋のアクセサリーになってるよ。」


「私、次の物語はここで書きあげようと思ってるんだ。


新しい気持ちでこの仕事に向かいたいんだ。」


「やっぱり何かあったんだな。


今までの麻衣だったら何があっても、アイツの傍を離れたりしなかっただろうから。


二人には他人にはわからないことがあって当然だ。


これ以上ダメだと思ったら別れるのも一つの手だ。」


「涼兄、彼と知り合ったことも、付き合ったことも、今別れたことも、私は後悔してないの。


今こうしてここにいることもね。」


「それなら俺がどうこう言うことじゃないしな。」


麻衣の心の整理はついていた。


仕方なく尚と別れたわけじゃない。


選んで決めたことだ。


彼と書くことを比べていたわけでも無い。


この道を選んだことでお互いに傷が増えたのかもしれない。


その傷を愛しく思えるように生きて行きたい、消えてなくなって欲しいとは思わなかった。


涼介と麻衣、これまで一度も恋愛観を話したことは無かった。


涼介は麻衣が母親と話をしているのを聞いていることはあったが、自分から意見を口にしたことは無い。


二人の仲が悪かったわけではない。


時間がずれていることも手伝って何日も顔を合わせないこともあったし、挨拶以外の言葉を交わさないことも珍しいことではなかった。




「麻衣、出かけるぞ。」


「ちょっと待ってよ。」


「どれだけ待たせるんだよ。


何だっていいじゃないか。


相変わらずオマエの仕度には時間がかかるな。」


「・・・。」


ドイツに来て初めてのちゃんとした外出のための準備に時間がかかっていた。


日本から持ってきた洋服の枚数は決まっているのに、それでもあれこれと考えていた。


出発前の荷造りも大変だった。


母親は最後には呆れてしまって真剣に相談にのってくれなくなった。


「足りなければ向こうで買えばいいでしょ。


部屋で書いている時は何着てたっていいじゃないの。」と。


マンションと家を何度も往復して大きなスーツケースはいっぱいになった。


「お待たせ。


涼兄、この車は?」


「会社のだよ。」


「いいの?」


「まあな。」


「せっかくだけど・・、電車やバスに乗りたいんだ。」


「頼んで借りてきたのに。」


涼介は少しガッカリしたように言ったが、麻衣の言う通りにすることにした。


この土地の人の生活の様子を感じたかった。


言葉が話せればもっと楽しいだろうに、少し残念だ。


笑顔で交わす挨拶が気持ちいい。


兄がここを離れたがらない理由がうなづける。

クリスマスが近くなった


街は華やかに飾られている


流れてくるクリスマスソング


思わず一緒に口ずさむ




大きなツリーを買ったよね


可愛い飾りもたくさん買ったよね


一緒に飾りつけをしたのは 何度くらいだったかな?


去年も その前の年も 飾らなかった


今年はどうしようか迷っている


あの時 あなたを見送って 


一人でケーキを泣きながら食べた


あれからケーキは一度も食べていない



クリスマスの飾りつけを見るだけでも


傷を触られるようで嫌だったけど


だんだんそれも薄れている




その傷は忘れたいキズですか?


その傷は消してしまいたいキズですか?


その傷は人に見られたくないキズですか?




「いいえ これも私ですから」





追いかけてくれると・・


行くなよと・・


失いたくないのだと・・


そう言ってくれると思っていた


だけど 追いかけてくる足音は聞こえない




あなたのこと 私 責めたよね


でも一人になって考えた


あなたのこと


私のこと


二人のこと


時間はたくさんあったから たくさん考えた




私はいつもあなたを試してた


信じてなかったわけじゃないよ


自信が無かった 今の自分に・・


情けなくて 涙が止まらなくて


部屋の隅っこで膝を抱えて泣いた




閉じたカーテンの隙間から


朝日が差し込む


いつもと同じ朝なのに


長い長い夜のあと


やっと訪れた朝のように思った


泣きはらした顔 冷たい水で洗い流す


気持ちが引き締まるような感覚


どうしたらいいのか わからない


どうしたいのかも わからない


見えたモノは 弱い小さな私の姿


それを認めなきゃ・・

残暑がまだまだ厳しい九月初めの水曜日の午後、麻衣は成田空港の出発ロビーにいた。


見送りのいない一人きりの旅立ちだった。


・・とは言っても一人旅なのだからこんなものだ。


三十が近い大人なのだから親の見送りなんて逆に恥ずかしかったりする。


今年の夏はあまりにいろいろなことがあり過ぎて『夏』を感じる暇がなかった。


それとも訳のわからない気候だったのだろうか、最近になって暑さが厳しくなったような気がする。


部屋でじっとしていれば午前中はどうにか人間らしく暮らせるし、精神状態も普通でいられる。


昼食を食べる頃から急に過ごしづらくなる。


考える力も消えてしまうくらい気持ちが方々へと散らばって行く。


机に向かってみるが集中力は長く続かない。


外に出れば、車の排気ガス、家庭や会社のエアコンの室外機から生ぬるい風が体に容赦なく纏わりついてくる。


今度ここに帰って来たときには冬になっていて『寒い』なんて口にするのだろう。


四季のあるこの国の良さを未だ理解できないでいた。


どちらかと言えば冬の方が好きな麻衣だった。


そんなことに思いを寄せながら旅立った。


麻衣は、どちらかと言うと飛行機はあまり好きではなかった。


短い時間だとしてもできれば乗りたくないタイプ。


少しくらい時間がかかったとしても新幹線が好きだったし、時間が許すなら車でのんびり行きたい。


今回ばかりはそんな気ままを言ってるわけにはいかない。


ドイツなのだから。


こんな麻衣が、それでもドイツを選んだということがどういうことなのか理解できるだろう。




「涼兄、本当に来ちゃったよ。


遠くまで来ちゃった。」


麻衣はフランクフルト・マイン国際空港に迎えに来てくれている兄に言った。


海外旅行はこれで二度目。


学生の頃、卒業旅行だと言って三泊四日のサイパン旅行に行った。


海とショッピングに少しの観光。


言葉は日本語がほとんど使えた。


あとは片言の英語でどうにかなった。


英文科なのだからそこそこの会話位はできる。


何度も遊びに来ている友達のおかげで不安なんて少しもなかった。


海外旅行と騒ぐほどのことでもないのだ。


今回はそれとは全然違う。


これが本当の初めての海外旅行と言ったって大袈裟なんかじゃない。


それもドイツなのだから。


誰も知っている人がいない場所に飛び込む勇気が無かった。


アメリカにもオーストラリアにも行ってみたいと思ったけれど、たった一人の旅なのだ、せめて一人くらいは知っている人がいる場所が良かった。


海外の知り合いと言えば兄、ただ一人だけ。


だからすぐに決まった。


目的地はドイツだと・・。


涼介は麻衣がここに来たいと言ったことに驚いた。


けれど気持ちよく、


「来いよ。」


そう返事をした。


ミュンヘンまではここから超特急ICEで三時間十分。


窓の外は初めて見る異国の風景が延々と続く。


飛行機はちょっと怖かったけど、やっぱりここまで来て良かった。


南へと走る列車の中でそう思っていた。


写真で見たようなレンガ色の先の尖った屋根、緑色の大地、長い歴史を感じさせる建物。


ここでの暮らしが楽しみで心は躍った。


「俺も仕事があるから、麻衣に付き合ってやれる時間は僅かだと思うんだ。


せっかくここまで来たんだ、部屋に閉じこもってばかりいないで出かけてみるといい。」


涼介はこの街をとても気に入っていた。


七年もこの土地にいると他の場所に行きたくなくなる。


日本に帰る話も時々あったりするが、今までのところ、どうにか逃げてここにいる。


麻衣の今までの人生の中でヨーロッパに来たいと思ったことは一度もなかった。


知らない世界を見るのもいいかもしれないと思った。


尚から離れて母国を離れて、麻衣は一人になろうとしていた。


繋いでいた手も離してしまった。


今、両手は自由に使える。