「あ~さっぱりした。


1杯飲むか?」


そう言って陸は冷蔵庫を覗いている顔を周平に向けた。


「ああ。」


ピアノの譜面台に置いてある楽譜を見ながら、周平の顔を見て意味ありげに笑った。


「ほら、そこに座って聴かせてくれよ。


名ピアニストの演奏を聴くのに、こんな格好じゃダメか?」


バスタオルで髪の毛を拭きながら、もう片方の手には缶ビールが握られている。


「そんなこと、思ってもないくせに。


1回だけだぞ。」


そう言いながらピアノに向かう周平は少し照れているように陸には見えた。


周平のピアノを聴くのは2度目。


ドイツまでピアノを聴きに行ったりしない。


普段、クラッシックには縁が無い・・と言うか聞くことが無い。


それこそ、周平絡みだけ。


それも、演奏する姿を頭の中にイメージしながら。


バイオリンとビオラのどこがどう違うだとか、フルートがどんなだとか、よくわからない。


周平のピアノを通してだけその曲を創った音楽家の生きた時代が姿を現す。


周平のピアノには、前に進む力が感じられる。


独りでも負けることなく1歩1歩。


周平の決意だと陸は解釈している。


例えば、同じ曲を何人かの演奏家が弾いたとしても、どれが周平かわかると言う。


「音が違うから。」


と言って譲らないが、単なる偶然だと仲間たちは思っている。



「陸、今日、春菜の結婚式でのぞみに会った。


あまりビックリして言葉がでてこなかったよ。」


「どうだった?


元気だったか?」


「ああ、元気だった。


すっげ~美人になっていたよ。


相変わらずの笑顔でドキッとしたよ、何度も。


看護士だってさ。


似合ってると思ったよ。


白衣の天使だぞ。


ちょっと厳しかったりもするんだろうな。


陸のラジオをいつも聞いていると言ってた。」


「そうか、覚えてくれてるんだな。」


「陸から元気をもらってるって言ってた。


のぞみも自分の居場所を見つけたのかも知れないな。


海辺の小さな町で、子供達やお年寄りに囲まれて。」


看護士??


海辺の小さな町??


陸の中で1人のリスナーのイメージと重なった。


いつもメールをくれる『ノンちゃん』というその人。


何度も読んでいるのに気が付かなかった。


のぞみの方も自分の存在を知らせようとはしないでいた。


「陸・・?」


「ゴメン他のこと考えてた。」


「俺、邪魔か??


帰った方が良かったら言ってくれ。


8年ぶりに帰って来たこの国なのに、会って話す友人が陸たった1人しかいないなんてな。


友達がいないってことこういう時しっかり感じてるよ。」


あの頃、周平は自分と付き合っていくことで精一杯だった。


人と付き合う余裕を持ち合わせていなかった。


「そうかな~、俺は周平の強さが羨ましかった。


独りで歩いて行けるその強さが。


いまだに俺は独りになることができずにいる。」


「陸は今のままが良いんだ。


俺、水曜日の便で帰るから。」


「仕事か?」


「まあな。


夏あたり休みでも取れたら遊びに来いよ。


陸にもきっと気に入ってもらえると思うんだ。


あの土地も空気も、俺の仲間達も。」


「そうだな。」

「このままここに居ればいい


一緒に暮らさないか?」


オマエは首を横に振る



最初の約束通りもうこんなことはしない


二度と会いに来たりもしない


『ありがとう』


これで前に進める


肝心なところでいつも逃げてきた


傷つくことが怖かったから


これで終わりにできる


『さようなら』


ずっと使えなかった言葉


やっと口にできた


俺に向かって小さな笑顔を見せた



部屋を出ていく後ろ姿


思わず後ろから抱きしめる


あの頃と変わらない桜の香り


懐かしい香り


このまま・・・


オマエの足音がだんだん小さくなる


そして…消えた






初めてオマエを抱いた時


誰でもイイ誰かを抱きたかったんだ


「ゴメン」そう言った俺に


「嫌じゃなかったから」そう言った


そしてそのまま姿を消した



あれから3年


ふとした時に思い出す


あの夜のことを


なんでだろう・・?




「あなたを嫌いになりにきた」そう言って突然現れた


遠く離れれば忘れられると思った


偶然出会う期待もしなくてすむ


それは間違いだったよ


ずっと好きだった思いは消えやしなかった


あの日のことが忘れられなかったんじゃない


教室で


グランドで


キラキラ輝くあなたがずっと心にいたから




ゆっくりと話すオマエのことを複雑な思いで見つめた


「あの頃 ずっと好きだった?」ってそんなこと・・


なんで今になって言う?


気づかなかった俺が悪いのか?





あの頃、、陸はいつもグランドを走っていた。


サッカーに魅せられてからずっと。


相手チームの選手に脚をかけられて倒された時も、次の瞬間、起き上がってまた走っている。


何が陸をそこまでさせるのか理解できないが、教室の窓から眺めていた。


「陸、脚は大丈夫なのか?」


「大丈夫なわけないだろ。


見ろ、こんなに腫れてる。


心配してくれるなら、ほら、カバン持ってくれると助かるんだけどな~。」


「カバンって言ったって、大した荷物じゃないだろ。


それくらい持ったって持たなくたって変わりはしないよ。


なあ陸、あんなに最初から最後まで走りっぱなしで、よく疲れないな。


途中、少しくらい緩くしてれば楽にいられるのに。」


「周平にあの時の気持ちを伝えたいけど、上手く言葉で説明できない。


誰のためとか、何のためとか、そういうんじゃないんだ。


笑うかもしれないけど、そこにボールがあるから・・って心境なんだ。


『もう走れない。』って頭で思っていても脚が動いている。


走ってるんだ。


終了の笛の音を聞くまでずっと。


言葉にならない満足感が生まれる。


それが俺の財産だと思っている。


今も、そしてこれからも。


どんな仕事をするのか、今はまだ何も決めていないけど、どんな時も諦めないでいたいと思ってるんだ。」


「そうだな。」


周平は陸の真剣な眼差しに心を奪われた。


陸はこんな話も照れずにする。


相手が真面目な答えを待っている時にふざけるようなことはしない。


外の空気が少しずつ冷たくなってきたある日の午後、2人の姿がグランドにあった。


陸と一緒に最後まで走りぬくことが出来たら、ドイツに帰って1人でやって行こうと秘かに決めていた。


自分を試してみよう。


自分の強さに対面してみよう。


「周平、どうした?」


「ランニング、一緒にいいかな?」


「それは構わないが、大丈夫か?」


「多分・・やれるところまで、やってみるさ。」


体育の授業で10キロまでは走ったことがあった。


だけど、それ以上、苦しくて辛くてどうにもならないところに自分を置きたかった。


「わかった。


じゃあ、外を走ろう。」


「ああ、任せるよ。」


2人は握手を交わし走り始めた。


陸は校門を出て山道を走る。


スピードはそれほど速くない。


周りの景色を楽しめる程度。


イチョウ並木を駆け抜けるころになると、すれ違う人も少なくなった。


2人の呼吸と地面を蹴る靴の音。


それを迎えてくれるのは、そこまでやって来ている冬に負けまいと、その覚悟をした落葉樹の列。


陸はいつもと特別何かが違っているという様子もない。


今日は1人じゃない、それが違うだけ。


周平は陸の姿を見ながら黙々と脚を交互に前に出す。


息が苦しくなってきて、脚の疲れも感じてきた。


「もう少しだ。


ガンバレ。」


そう短く言った。


(負けない)


そう弱い自分に言いながら、周平も走ることを止めない。


のぞみが風邪で休んでいてちょうど良かった。


きっとアイツがいたら、こんなこと出来やしなかっただろう・・ふと頭をよぎる。


気が付くと、呼吸の辛さも脚の痛みも消えている。


身体が慣れたのか、違う自分を感じた。


陸の走り続ける理由がほんの少しわかった気がした。


確かにそうだ。


走る意味なんてない。


道があるから・・、そんな気持ちになる。


「サンキュー。


陸のおかげでイイ経験ができたよ。」


「そうか。


また一緒に走ろうぜ。


別のコースがあるんだ。


次はそっちを行こう。」


「俺、卒業したらドイツに戻る。」


「そうか。


寂しくなるな。


のぞみには話したか?」


「いや、まだだ。」



「周平、いつドイツに戻るの?」


「来週の水曜日の便で。」


「ねえ、行かないでって言ってもダメだよね?」


のぞみの表情が急に硬くなって周平を真っすぐ見つめた。


この寒さのせいなのか、涙のせいなのか・・潤んだ瞳をしていた。


「わからないこと言うんじゃないよ。


そんな意地悪で俺を困らせないでくれ。」


どう答えればいいのか、正直迷った。


結局、冗談ぽく流すしかできなかった。


今の周平には、のぞみの願いを叶えてやることはできそうになかったから。


抱き寄せることは簡単かもしれない。


だけど、今の2人は8年前とは違う。


いま、その手を取ればそれはこの先を一緒に歩いて行くことを意味してるように感じていた。


「陸のこと?」


「いや、そうじゃない。


もしも、俺たちが付き合うことになったとしたら、陸はきっと喜んでくれる。


他の誰よりも。


そのことに不安はないんだ。」


「じゃあ、何?」


「厳しいことを言うようだけど、のぞみは3人でいたあの頃を思い出しているだけだと思う。


あれから3人ともいろんなことがあったはずだ。


いろんな人に出会って、別れを経験して・・。


確かに俺にとっても3人で過ごした日々は楽しかった。


何度も夢に見た。


会いたい気持ちが胸の中でどんどん大きくなってどうにもならなかったこともある。


だけど、俺は戻ることをしなかった。


それは、振り返って生きることを否定したから。


『この場所で生きていくんだ』そう何度も繰り返し自分に言った。」


「周平はいいよ、強いから。


だけど私はそんなに強くなんかない。


ヘンなんだ。


自分でも自分がよくわからない。


確かに周平に会うまで1人でちゃんとやってこれてた。


仕事も恋愛も・・。


でも、こうやって周平の隣にいるとこのままずっとこうしていたいと思う。」


「のぞみ、俺も同じ気持ちでいるよ。


懐かしさで心は充たされている。


でも、それに押し潰されちゃダメなんだよ。


思い出は生きている今とは別の場所で決して未来じゃないんだ。」


「私達に同じ未来は無いってこと?」


「・・・・・。」


周平は黙った。


「周平、ゴメン。


気にしないで、私、ちゃんとやっていくから。


あんまり周平がイイ男になってたから、少し困らせてみたくなっただけ。


もう、帰ろう。


駅まで送る。」


のぞみはいつもの笑顔を見せた。



「おっ、来てたのか。」


「ああ・・。


借りてるぞ、ピアノ。


飾っておくにはもったいない。


曲を書いたりしないのか?」


「そんなセンス、俺にあるわけないだろ。


シャワー、浴びてくる。」


「ど~ぞ。」


周平はピアノに向かって座り姿勢を正し気持ちを静めゆっくりと目を閉じた。


そこにはあの頃の自分たちの姿が昨日のことのように浮かび上がる。


さっき、のぞみに偉そうに言った言葉は、本当は自分に向けて言ったようなものだった。


ずっと戻ってこなかったのは、ドイツでの仕事が忙しかったからではなく、自分の気持ちに負けてしまうことが怖かったのだ。


静かに目を開けた。


周平の10本の指が鍵盤の上を自由に踊る。


溢れてくる懐かしさ、戻りたいという未練。


その旋律は次第に激しさを増し、穏やかな強さに姿を変えた。


これから歩いて行く未来への決心だった。


今まで1度も自分の曲を書いたことが無い。


周りの仲間達はいつも周平にそれを勧めるのだが、気持ちの中に湧き上がる何かがいつも欠けていた。


そうは言いながら、五線紙と鉛筆はいつも持ち歩いていた。


それが、初めて役に立った。


『several way』 そう書かれている。


春の陽のように温かく優しい。


語りかけられているような錯覚を起こす。


軽い優しさではない。


その奥底にある果てしなく広く感じるモノ。


それは強さ。


誰もが持つ、心のずっと奥に眠っている『強さ』。


諦めない勇気も、前に進むことを選ぶ意志も、もとはそこからきている。