一門別 優勝回数レース 完全版(昭和40ー令和5) | 三代目WEB桟敷

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序論

一門別優勝回数レース

 かれこれ10年以上続いている年次の「部屋データ」分析。一門ごとの一年間の動きの紹介の中で、最近は実績比較のひとつとして一門別の優勝回数を紹介するようにしている。そこから発展し、「平成相撲史」の中で平成時代に限った一門別の優勝回数の推移を振り返った。

 

 https://ameblo.jp/sumopara/entry-12654429543.html


 

スタートラインの設定

 改めて昭和から通算での優勝回数の推移を追いたいと思ったが、どこを起点とするべきか。高砂、出羽海は早くから一門が築かれたが、二所ノ関も一門といえる広がりを見せたのは戦後。時津風は戦中戦後、双葉山道場時代から形成され始めた。立浪一門と伊勢ヶ濱一門も厳密にいつから連合したのかと言われれば難しい。

 

 戦前戦後、昭和前半の30〜40年間は、現在よりはるかに一門の意義は大きく、巡業も一門ごと、給料も一門から支払われていたほど。なのでその時代こそ、よりチーム対抗戦として捉える意義があるのだが、現代まで継続的に比較するなら、どこを起点にしたらいいのだろうか。

 

 やはり、どこかで線を引くならば、同一門・系統間での対戦が開始、より平等な条件が整った部屋別総当たり制導入の昭和40年初場所からだろう。この時点であれば、すでに現在の5つの集団に分化されているから、比較しやすい。一門の形骸化の発端とも言われる部屋別総当たり制導入。ここをスタートラインにするとは何とも皮肉な感じはするが、案外盛り上がるのでお付き合い願いたい。

 

 なお、現在の伊勢ヶ濱一門は、立浪一門、伊勢ヶ濱一門の連合体だった時代が長いが、終始一つの集団としてみなす。また、昭和49年から60年にかけては二所ノ関一門のうち本流に対して阿佐ヶ谷を拠点に拡大した花籠、二子山等が別一門として花籠一門を形成して親春日野政権の立場にいたが、元輪島の廃業に伴い本家が閉鎖したことで自然一門は解体した。その間も完全に切れたわけではなくて一定協力関係にはあったようで、同じ短期間の分派勢力でも貴乃花一門とは立ち位置が異なるため、ここでは独立した扱いにはしていない。

前史

 大正時代から続々と横綱を輩出した出羽一門、というより出羽海部屋の天下が続いたが、昭和に入ると春秋園事件、横綱空位といった混乱を経て、関取数では圧倒的ながら、覇権は二所ノ関を率いた玉錦、ついで立浪の双葉山、羽黒山に握られていた。だが戦後彗星の如く現れた千代の山、例外的に独立を認められた栃木山の春日野部屋からは栃錦が出て復活。

 

 立浪は双葉山、羽黒山、名寄岩の三羽烏を擁し、混乱期の相撲界に君臨。その象徴的存在だった双葉山は分派してしまったが、12年も綱を張った羽黒山が継承し、30年代にかけては立浪四天王が育った。友綱系統では巴潟の高嶋部屋からは横綱吉葉山、大関三根山が出て、両者で連覇も果たした。

 伊勢ヶ濱も大勢力ではなかったが横綱照國(荒磯を経て継承)を擁して台頭、立浪と接近した。

 

 現役中から双葉山道場として独立した時津風は、伝統ある井筒を一時預かるなどそのカリスマ性から他勢力が合流。立浪から離れて新たな一門を形成し、急拡大。出世頭の横綱鏡里も粂川から部屋ごと譲られた弟子の一人だった。

 

 二所ノ関は二枚鑑札で師匠でもあった玉錦の現役死、後継の元玉ノ海の退職と激震が走ったが、雌伏の時を経て佐賀ノ花が中興を果たす。分家奨励の方針も功を奏し、花籠部屋から国民的人気横綱若乃花、佐渡ケ嶽部屋から大関琴ヶ濱が誕生した。

老舗の高砂も前田山、東富士、朝潮と横綱が続いて、一定勢力を保っていた。

 

 

昭和20年代前半 不定期ジプシー興行時代

立浪4 出羽海3 高砂2 伊勢ヶ濱1

 立浪・羽黒山の戦後4連覇が光るが、それ以外は他一門が分け合った。東冨士は富士ヶ根所属で2回。その後本家に移籍する。出羽海は8年のブランクを大関増位山が破って2度制したが、怪我で頓挫。初優勝の千代ノ山が綱取りの夢を引き継ぐ。伊勢ヶ濱の1回は照國ではなく備州山の平幕優勝。20年夏、戦火の中での7日間興行だった。

 

 

昭和20年代後半 年3場所から4場所へ

出羽海6 高砂4 立浪4 伊勢ヶ濱2 時津風1

昭和25年 出羽海1高砂1伊勢ヶ濱1

昭和26年 出羽海1高砂1伊勢ヶ濱1

昭和27年 出羽海1高砂1立浪1

昭和28年 出羽海1高砂1立浪1時津風1

昭和29年 出羽海2立浪2

 

 まだまだ敗戦後の困窮が続き、ジプシー興行を強いられる中、出羽海を中心にしつつ賜盃を仲良く分け合っている。唯一毎年優勝した出羽一門は、千代の山は横綱昇進後パタリと途絶えてしまったが、小兵栃錦が台頭して29年の連覇でついに横綱昇進。伊勢ヶ濱の照國、立浪の羽黒山が晩年期を迎えるが復活して優勝。さらに平幕時津山が全勝し、29年には高島勢が連覇し、立浪・伊勢ヶ濱合わせて出羽海と同じ6回。高砂は東富士が孤軍奮闘し毎年コンスタントに記録したが、29年は届かず。時津風には初めての賜盃が鏡里によってもたらされた。二所ノ関は未だ戦後優勝なし。

 

昭和30年代前半 年4場所から6場所への過渡期

出羽海9二所ノ関8高砂3時津風3立浪2

昭和30年 出羽海3時津風1

昭和31年 時津風2高砂1二所ノ関1

昭和32年 出羽海2高砂1立浪1二所ノ関1

昭和33年 二所ノ関3出羽海2高砂1

昭和34年 二所ノ関3出羽海2立浪1

 

 それほど特出した一門はないが、昭和30年は千代の山の連覇と栃錦の出羽が4場所中3場所。33年、34年は全て若乃花によって二所が半数を占めた。時津風は横綱鏡里が、高砂は大阪太郎朝潮が、意地を見せて、3回ずつ食い込んだ。立浪・伊勢ケ濱は、吉葉山が横綱として優勝できないまま終わって劣勢だったが、立浪四天王が台頭。安念山が新三役で、若羽黒が新大関で優勝した。

出羽、二所の二強が中心だが、他一門も見せ場があってバランスが取れていた取れていた。

 

昭和30年代後半 系統別総当たり末期

二所ノ関19出羽海6時津風3高砂2立浪・伊勢ヶ濱0

昭和35年 二所ノ関5出羽海1

昭和36年 二所ノ関3時津風(伊)1出羽海1高砂1

昭和37年 二所ノ関4出羽海2

昭和38年 二所ノ関3時津風2(時1伊1)出羽海1

昭和39年 二所ノ関4出羽海1高砂1

栃若から柏鵬へと時代は移る。

 

 二所ノ関本家が産んだ大鵬の天下となった。一時横綱として共存した若乃花は程なく引退、七若と呼ばれた花籠勢は伸び悩み、大鵬はほぼ役力士と総当たり(三役常連は大豪くらい)。そんな不利も跳ね返し、黄金時代を築き上げた。

 柏戸の伊勢ノ海は時津風一門に属すが、本家の大関北葉山、豊山とは系統が違うため対戦あり。大鵬同様総当たりだった。

出羽海は佐田の山が急浮上。栃錦が二枚鑑札を経て引き継いだ春日野からは栃ノ海、栃光が同時に大関となり、同部屋に近い環境で対抗した。関脇以下の実力者も多く、最も系統別総当たりの恩恵を受けていた。まず栃ノ海が綱取りに成功。佐田の山も綱取り待ったなしとなって30年代を終えた。

 立浪は、四天王が全盛を過ぎて、羽黒花などが続くが全体に凋落。照国が後継した伊勢ヶ濱からは、開隆山、清國と出てきているが大関はなかなか出ない。吉葉山の宮城野からは明武谷が善戦。

 

 

 若乃花から大鵬へスムーズに移行した二所ノ関が毎年半数以上を確保し、他を圧倒。横綱を失った出羽一門は後塵を拝したが、それでも毎年1回は死守したのはさすが。36年は最も苦しかったが、入幕3場所目の佐田の山が平幕優勝して確保した。時津風は、伊勢ノ海部屋の柏戸が2回に止まり、本家の北葉山が1回、期待の豊山もまだ届かない。高砂は横綱朝潮が何とか1回優勝するも引退、すっかり層が薄くなってしまったが、富士錦が平幕優勝でもう一矢報いた。30年代前半は最少の2回だった立浪・伊勢ヶ濱はとうとう0。宮城野の明武谷が決定戦に進んだが及ばなかった。


優勝回数レース詳報

 レース初年の昭和40年は、佐田の山の綱取り成功で幕を開け、出羽海が先行し大鵬の二所ノ関が追いつく展開、九州場所で大鵬の二所ノ関が逆転。柏戸の時津風も2位タイまで追い上げていたが、41年3月から大鵬が6連覇して抜け出す。最多優勝記録をマークした大横綱に、玉の海、琴櫻、輪島と続いて早々と独走体制を築いた。40年から13年連続で年間最多優勝(単独は9年)を譲らず、差を広げ続けた。実は先史の項で書いた通り、年6場所となった昭和33年からずっと最多で、実際は20年連続である。

 50年代には出羽一門の北の湖や高砂一門の千代の富士に主役を奪われたが、横綱若乃花、隆の里、大関の魁傑、貴ノ花、琴風、若嶋津も複数回制しており、昭和58、59年は最多優勝を奪回。依然大きなリードを保っていた。

 しかし、60年に花籠部屋が不祥事で閉鎖されると、上位陣も次々引退し初の0。頼みの大乃国もスランプに陥り、その間、九重勢を中心とした高砂の天下が続いた。

 

 北の富士が10回の優勝を果たして『4弱』から頭ひとつ抜け出していた高砂一門だが、昭和48年から横ばい。昭和51年には北の湖が本格化した出羽海に抜かれ、昭和55年には首位二所ノ関と41もの差を付けられていたが、翌年フィーバーを巻き起こした千代の富士が一時代を築き、昭和62年には出羽海を抜き2位浮上。北勝海やハワイ勢も続き、曙が3連覇した平成5年まで9年連続最多優勝(うち単独8年)で、いよいよ7差に迫った。

 

 だが、琴富士、琴錦の平幕連覇で号砲を上げた新時代は、貴乃花らを擁する藤島勢が主役となり、再び二所ノ関の黄金期となった。平成6年から5年連続で最多優勝(うち4年は5回)で再び二所が突き放し、孤軍奮闘の曙が引退した13年には高砂との差は29と大きく広がっていた。

 ところが11年以降は貴乃花の急ブレーキで一気に勢力が衰えており、代わって武蔵丸が台頭。19年ぶりに最多優勝を記録するなど久しぶりに出羽が盛り返し始めた。

 

 そこに風雲児、朝青龍が現れる。合併により本家高砂所属となったモンゴル人横綱は、16年に5回、17年は全場所制覇と独走。高砂一門が猛烈な追い上げを見せ、22年初場所を制すと、首位との差は僅か3にまで縮まった。

 いよいよ首位交代が見えてきたが、この場所後に不祥事で詰腹を切らされた。そして二強は3差のまま6年間共に優勝なしで膠着。その時代に急激に優勝回数を伸ばしたのが白鵬、日馬富士を擁する伊勢ヶ濱一門だった。

 

 平成10年代に入って大関魁皇が5回優勝したことで、時津風との最下位争いからようやく抜け出たばかりの立浪・伊勢ヶ濱連合は、看板の伊勢ヶ濱が閉鎖、立浪が離脱と混迷を極めていたが、新・伊勢ヶ濱部屋の創設、一門の看板への復帰と時を同じくして、黄金時代を迎えた。19年以降11年連続最多優勝(全て単独、22年からは6年連続5回以上)。白鵬が大鵬の最多優勝回数を更新した平成27年には出羽海を抜き、初めて3位に浮上した。昭和は最下位に終わったが、平成だけなら1位に躍り出た。令和に入っても白鵬が粘って照ノ富士が積み重ね、低迷する2位高砂を追い上げているが、それでもまだ20回以上の差がある。

 

 令和の勢力図は高砂を除いて非常に均等に割れており、3年の伊勢ヶ濱の5回と4年の二所の3回以外は、全て年間2回以下。ここまで全く見せ場のなかった時津風一門が直近10年間で9年優勝を記録しているのも、22年間無冠だった同一門にとっては大健闘。平成30年には2回でタイながら、初めての最多優勝を記録した。だが、このペースでは4位出羽海とは40回以上の差をつけられているダントツの最下位は脱せないが、伊勢ヶ濱も40回差を12年ほどで逆転しており、未来は分からない。