一門別優勝争い 一門ごとのレビュー | 三代目WEB桟敷

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力士分析などを行う相撲研究サイト「大相撲パラサイト」のブログです。

一門ごとに、優勝の内訳、躍進と衰退の原因など詳細をレビューする。

 

 

二所ノ関

 

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

二子山40(貴乃花22,若乃花Ⅲ5,若乃花Ⅱ4,隆の里4,貴ノ花2,若嶋津2,貴ノ浪2)

二所ノ関18(大鵬17)

花籠16(輪島14,魁傑2)

佐渡ヶ嶽14(琴櫻5,琴風2,琴錦2)

片男波8 (玉の海6,玉鷲2)

常盤山4(貴景勝4)

田子ノ浦2(稀勢の里2)

藤島2(貴花田2)

 

 本家の大鵬が17回を記録しスタートダッシュを決める。スタートラインを全盛期の真ん中に持って来られて損をしているはずだが、ハンデにもならなかった。

 次いで片男波の玉の海、佐渡ヶ嶽の琴櫻と両国勢から出た横綱が計11回。その後は花籠の輪島、魁傑、二子山の2横綱2大関が、北の湖、千代の富士の抜け出しを食い止める。特に輪島が北の湖を、隆の里が千代の富士を苦しめたのは印象的だ。

 平成期には藤島部屋出身の二子山部屋から出た貴乃花らが30回。7年からは4年連続年5回制覇し首位固め。

 佐渡ヶ嶽部屋は単発ながら苦しい時期にも優勝力士を出す。戦国を呼び込む連続平幕優勝。そして貴乃花が最後に優勝してから稀勢の里が初優勝で横綱に上がるまでの空白の15年間にも、3人が優勝している。二所ノ関、花籠、二子山と多くの優勝をもたらした部屋は閉鎖されてしまった今、佐渡ヶ嶽は片男波と並ぶ一門最古参。二代目琴櫻が優勝すれば、集計期間中最多の9人が賜杯を抱いた部屋となる。

 平成22年から30年まで、二子山を継いだ貴乃花一派が分裂。その間わずか3回と奮わなかった。貴一門が瓦解してその多くが復帰して以降は、貴乃花部屋出身で千賀ノ浦の貴景勝のほか、錣山の阿炎、湊の逸ノ城と他一門にルーツを持つ部屋が優勝力士を出したほか、玉鷲が片男波へ二度賜盃を奪還した。

 

 本家の優勝は金剛が制したのを最後に途絶え、平成期に閉鎖。その後元若嶋津の松ヶ根部屋、次いで元稀勢の里の荒磯部屋が名跡を受け継いで一門の象徴たる二所ノ関部屋を復活させ、令和6年にはゴールデンルーキー大の里が49年ぶりに賜盃をもたらした。

 

 大鵬の時代を除き、同時期に優勝できる力士が複数名輩出する層の厚さが特徴。怪童の出鼻を挫いた阿佐ヶ谷勢による北の湖包囲網、曙時代に待ったをかけた二子山包囲網は強力だった。


 

高砂

 

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

九重52(千代の富士31,北の富士10,北勝海8,千代大海3)

高砂31(朝青龍25,小錦3)

東関11(曙11)

 

 史上最多52回の優勝を誇る九重部屋を擁する一門。

 昭和42年に出羽海から独立、破門されて一門を移ったばかりの九重部屋に、北の富士が初優勝をもたらす。ポスト柏鵬の北玉時代の期待に応えて10回の優勝をマーク。本家からも高見山が外国人初の優勝者となり、その後も外国勢の強さは一つの特徴となった。

 50年代前半の空白期間を経て、次のエースとなったのも九重部屋の千代の富士。弟弟子の北勝海とともに黄金時代を築き、部屋勢で10連覇、9連覇、年間制覇もやってのけた。

 小錦3回、高見山の興した東関から曙が11回とハワイ勢の活躍で九重黄金時代後も回数を延ばして二所に迫り、二子山勢に突き放されても、朝青龍が1人で年間制覇を成し遂げるなど短期間で25回も重ねて再び首位に肉薄した。

 

 ところがその後の13年間は朝乃山の1回のみと、かつてない低迷期に入っている。団子状態の令和初期において一人負け状態である。不思議とその低迷期に念願の理事長が誕生。その八角部屋は2度決定戦で賜杯を逸している。

 

 一門での年6場所全制覇を3度記録した瞬発力が持ち味。平成25年に伊勢ヶ濱一門が記録するまで専売特許だった。


 

伊勢ヶ濱

 

(立浪・伊勢ヶ濱連合→立浪→春日山・伊勢ヶ濱連合→)

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

宮城野45(白鵬45)

伊勢ヶ濱18(現17 日馬富士9,照ノ富士8※、旧1)

友綱6(魁皇5)※現大島

大島4(旭富士4)

立浪1(〜H24)

 

 立浪からは戦前に双葉山、戦後は羽黒山が賜杯を独占し、伊勢ヶ濱の照國も連覇があったが、昭和30年代に入ると往時の勢いはなくなり、34年若羽黒の新大関優勝を最後に優勝から遠ざかっていた。

立浪には高島(のち友綱)も加わり、伊勢ヶ濱、朝日山のグループと連合を組んだが、立浪の若浪が平幕優勝、清國の新大関優勝の2回だけで最下位の時代が続く。50年代には大関旭國が惜しいチャンスを逃し、期待を背負って双羽黒を名乗った新人類横綱も優勝のないまま廃業したが、直後の昭和最終年に、旭國が興した大島部屋の旭富士が19年ぶりに制し、平成初期にかけて4回追加して最下位を脱出した。

 その後また10年近いブランクを経て、友綱から出た大関魁皇が5回追加。ようやく通算回数を二桁に乗せるとともに最下位争いから脱した。

 魁皇も賜杯から遠ざかったころ、宮城野部屋に白鵬が彗星のごとく現れ、圧倒的なペースを優勝を重ねる。安治川改め伊勢ヶ濱部屋の日馬富士の援護も得て、19年以降11年連続で年間単独最多優勝。27年には、出羽海との最大40回差を10年余りで跳ね返して、3位に浮上した。

 いずれも当時の師匠が継承した頃には廃れかけていたが、部屋頭の台頭に引っ張られて俄に名門復活が成った。


 

出羽海

 

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

三保ヶ関26(北の湖24,北天佑2)

武蔵川14(武蔵丸12)

出羽海5(御嶽海3,三重ノ海2)

玉ノ井3(栃東3)

春日野2

尾上

木瀬

立浪(H30〜)

 

 常に多くの年寄を抱えて大勢力を誇る一門。大正期には栃木山、大錦、常ノ花と強豪横綱が続いたが、昭和期には主役を担う大横綱級は途絶え、優勝回数では新興勢力の後塵を拝する状況が続いていた。

 昭和40年代前半は打倒大鵬に執念を燃やす佐田の山が奮闘するも、次代を期待された北の冨士がまさかの流出。世代交代に失敗して出遅れた。

 そこに現れたホープ・最年少横綱北の湖。小部屋だった三保ヶ関所属ながら、一門挙げて鍛え上げて巻き返しを図ったが、阿佐ヶ谷勢に優勝決定戦4連敗を喫するなど包囲網は強力で、5連覇した昭和53年以外はそれほど差を詰められなかった。本家の横綱・三重ノ海、弟弟子の北天佑が脇を固めたが、昭和61年以降は賜杯が途絶えた。

 独立解禁により部屋は急増、第1号の武蔵川部屋から出た武蔵丸が12回。平成11年春からは2関脇と合わせて同部屋6連覇を果たした。春日野から独立した玉ノ井からは師匠の実子・大関栃東が親子二代優勝。三保ヶ関から分家した尾上、木瀬からも優勝力士が出た。長らくご無沙汰だった本家筋の出羽海、春日野も平成の終わりにようやく巻き返し、復活優勝を果たした。

 惜しむらくは、独立を許さない伝統を長らく引きずったこと。九重部屋が円満に独立していれば1位だった、と嘆いても覆水盆に返らずか。


 

時津風

 

部屋・力士内訳(優勝2回以上を掲載)

井筒7(鶴竜6)

伊勢ノ海3(柏戸3)

陸奥2(霧島Ⅱ2)

鏡山

追手風(H29~)

時津風

荒汐

 

 スタートから横綱柏戸が3年連続で優勝したが、豊山はついに賜杯を抱けず北葉山を含めた3人の上位陣が立て続けに引退。一門の創始者の時津風理事長が死去も重なり勢力は減退、59年に柏戸の興した鏡山部屋の多賀竜が平幕優勝したのが17年ぶりだった。

 平成2年には初めての最下位転落。3年1月に井筒の霧島が制して追いついたが、5月に1つリードを許すとそのまま長いトンネルに入り、そのままテールエンド。

 ようやく一門に賜杯をもたらしたのも井筒の鶴竜。初優勝で横綱となり、優勝回数を倍増させた功労者だ。その後は時津風に正代が復活優勝をもたらしたほか、部屋創設以来初の優勝も続いた。

 そのうちの一つが元大関霧島が継いでいた陸奥部屋で、井筒が後継者なく急死したため部屋を吸収。引退前の横綱鶴竜が移籍し、薫陶を受けた霧馬山改め霧島が2度優勝した。ところが直後に停年のため部屋を閉鎖。そのため現存する部屋では伊勢ノ海が唯一の複数回優勝となっている。